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我が国におけるメチル水銀汚染-第一章・関川流域(直江津地先)

全国(都道府県単位として発令)における水揚げ魚介類の水銀調査によってメチル水銀汚染魚が見つかったのは、前回の記述のように直江津地先と鹿児島湾奥の2水域です。全国でこの2水域だけがメチル水銀に汚染されていたと短絡した・させたのは、各自治体の姿勢だと思います。実際に、全国各地で少数の暫定的基準値を超える魚体が散在しました。その為か、全国各地からの入荷が主体の東京都では、それなりの多数の魚種・魚体の汚染魚がありました。しかし、それらの汚染魚が東京湾からの水揚げでない・回遊魚・深海魚・マグロ類などという抜け道を用いて、東京湾の調査もせずに、汚染していないと判断しました。東京都の方法を用いることで、全国各地には汚染問題が無かったと一方的に判断したに過ぎません。

関川河口先の直江津地先および鹿児島湾奥では汚染魚の存在が否定出来ませんでした。両水域ともにメチル水銀汚染魚の産地が地元であると特定されたことで、東京都手法での誤魔化しが効かなかったのはもちろんです。しかし、直江津は新潟県であり、県民感情を考慮すると、「公害」でないことを明らかにするべきとの判断だったと思われます。実際に、関川流域の3域には水銀使用工場が稼働していました。逆に、鹿児島湾奥には水銀を使用する事業所はありません。鹿児島湾奥には多数の温泉があります。それに、当時、国分では天然ガスを採掘していました。温泉水・火山ガスに水銀が含まれていることは、温泉水の成分を分析する保健所職員にとっては特殊な知識ではありません。したがって、鹿児島県は、単純に「火山説」に行きついたのだと思います。

さて、今回は、直江津地先と関川流域のメチル水銀汚染魚について記します。

全国の水揚げ魚介類の水銀調査で明らかになったのは直江津地先のメチル水銀汚染であって、関川流域のそれらは、新潟水俣病問題の勃発!?(1965.5.30;昭電鹿瀬工場,‘65年1月操業中止)を受けて燻っていました。

青木は、昭和41、42、43年度の厚生省の公害調査委託研究費を獲得し、‘66年6月、10月および12月に新潟県で操業中だった二か所のアセトアルデヒド生産工場の廃液および周辺底質・河川水の水銀調査をしています(水銀による環境汚染に関する研究 第1報,536-545,24,日衛誌,1970)。電気化学青海工場(旧青海町・現糸魚川市青海;‘68年5月操業中止)とダイセル新井工場(旧新井市・現妙高市;‘68年3月操業中止)です。後者に関川中流域の渋江川への排水口が在りました。操業中のアセトアルデヒド工場廃液の水銀調査という貴重なものです。阿賀野川関連の調査の全てが昭電鹿瀬工場の操業中止後に行われたことは無視されがちです。

青木の3回の調査によると青海工場の廃液に総水銀(メチル水銀)で2.72(0.76),2.88(0.93),2.70(0.84)ppmを検出しています。しかし、3か所の排水口の泥中には総水銀として37.5,58.8,303 ppmを検出していますが、メチル水銀濃度はそれぞれNDと記しています。また、新井工場の廃液に総水銀(メチル水銀)で3.37(0.26),3.21(0.77),2.30(0.10)ppmを検出しています。チッソ水俣工場の廃液中メチル水銀濃度は70 ppmとされています。実測値ではなく実験値です。総水銀濃度の報告は見たことがありません。

1958年のアセトアルデヒド年間生産量は、青海5300㌧、新井14400㌧、鹿瀬6200㌧、水俣19400㌧でした。生産規模と廃液メチル水銀濃度から推測できる青海や新井のメチル水銀排出量でメチル水銀中毒問題が起こる可能性は低い、と&oは考えます。一方、鹿瀬工場が水俣工場と同量のメチル水銀をたれ流したというのであれば、その廃液中メチル水銀濃度は210 ppmと算出できます。有り得ない数値です。流域の水力発電量が全国3位(木曽川・信濃川に次ぐ)であるように阿賀野川の水量は極めて豊富です。しかし、水俣湾・八代海の海水量とは比較にならないほど少量です。有り得ない210 ppmの数十倍濃度の廃液中メチル水銀濃度だったと言うのでしょうか。Hg2+は触媒となりますが、CH3Hg+ではアセチレン加水反応が滞りそうです。鹿瀬工場の廃液が阿賀野川流域のメチル水銀汚染源でないことの証拠とさえ言えると思います。

青海工場は青海川河口・日本海から900mに立地していました。青海工場では、工場廃液は、沈殿処理し、スラリーをセメント製造に、上澄み液をセメント用水に使用し、直接、青海川へ排出しない工夫をしています。ただし、スラリーの総水銀(メチル水銀)濃度が8.82(ND) ppmで、製品としてのセメントのそれらが4.40(ND) ppmと計測されたことから、セメント生成時の燃焼工程で、4.42 ppm分のHgが大気中に拡散したと説明しています。廃液中のメチル水銀(0.76~0.93 ppm)についての記述はありません。

底質の総水銀濃度は、工場排水口で最も河口に近い相生町排水口(河口から700m)で20.0 ppm、河口から200 mの青海橋で47.5 ppmです。一方、工場から上流1.5 km の御幸橋で2.74 ppm、6 kmの真砂橋で2.88 ppmです。工場廃液は工場から1.5~6 km上流の御幸橋・真砂橋の底質のHg源ではありません。また、青海工場廃液が北東40 km先の直江津地先のメチル水銀汚染源であった可能性は無いでしょう。

新井工場は関川河口(日本海)から17 km上流の渋江川沿いに在り、そこから2.1 km下流が関川との合流地点です。青木が記した底質採集地の正確な位置はYahooの地図では確認できませんが、合流地点の川幅は分かります。関川が65 m、渋江川が30 mです。底質の総水銀濃度は、工場より200 m上流の渋江橋で5.28 ppm、関川との合流地より50 m上流の渋江川(工場よりほぼ2 km下流;川幅25 m)で21.9 ppm、合流地より関川上流の関川橋(位置は分からない)で6.37 ppm、合流地より2 km下流(関川)の東本島で4.13 ppm、さらに下流の島田橋(位置不明)で4.93 ppmです。

川幅を考慮すると関川との合流地点より手前50 mの底質のHg源は、関川由来ではなく、渋江川由来のHgが堆積したものと特定できるでしょう。また、工場より200 m上流に位置する渋江橋底質のHg源は、工場廃液ではありません。河口から17 km上流に位置し、2 km下流で関川に合流する渋江川の河川水が、工場から200 mという短距離といえども遡上できるとは地勢上、考えられません。関川橋の6.37 ppmのHg源が、新井工場付近から20 km上流の白田切川の火山性水銀である可能性は確かに否定できません。では、白田切川の流れが入らない渋江橋の5.28 ppmは何処から来たのでしょう。関川下流域の上越市、中流域の妙高市は、正に上越地方であり、大稲作地帯です。Hg源が水銀系農薬であるか否かを一度も検討していないという不作為の作為がプンプン臭います。

青木は、結論としてそれぞれのアセトアルデヒド工場廃液が無視できない量のメチル水銀を含んでいるが、調査時の状況は、(巧みな)廃水処理によって排出を抑制出来ていると述べています。確かに、この記述はセメント製造に使用した青海工場には対応しています。また、考察では、河口から900 mの青海工場からの廃液はすぐに日本海に出ること、さらに、廃液が、浅い水俣湾と違って深い日本海の潮流で希釈されることで(水俣病)問題が起きなかったのだろうとしています。

一方、新井工場では廃液排出量が720m3/dayであり、測定された廃液中平均メチル水銀濃度0.38 ppmから、340 g/day→124 kg/yrという大量のメチル水銀が、往時の不完全な処理設備下で放流されていたはずであると、さらに、このことで非常に恐怖を感ぜざるを得ない、と記しています。しかし、渋江川周辺住民に川魚を多食する習慣がないという好条件があったことで、(水俣病)問題が起らなかったのだろうとしています。なお、西村は水俣工場における排出メチル水銀量は最大量であった1959年で117kg/yr(廃液中70 ppm)と報告しています(水俣病の科学,pp187,日本評論社,2001)。

調査・研究において、得られた結果の考察は研究者の裁量であることは紛れもないことです。ただ、厚生省からの委託だったこの研究の最大の目的は、アセトアルデヒド生産工場の廃液にメチル水銀が大量に含まれていることを示すことだったように思えてしまいます。昭電鹿瀬工場は新潟水俣病問題が報道される5か月前に操業を中止しています。したがって、鹿瀬の工場廃液のメチル水銀濃度は測定されていません。委託研究では、鹿瀬の廃液にもメチル水銀が含まれていたとの印象付けのため、操業中の2つの工場廃液中のメチル水銀の検出が求められていたのだと思います。厚生省はこの青木の報告にほくそ笑んだことでしょう。

2つの工場の廃液中のメチル水銀濃度を提示したに止まることなく、さらに、問題量でないにもかかわらず、水俣病問題が起こるレベルだと言い、恐怖感を持ったとさえ言及しています。また、丁寧に、2つの工場廃液で水俣病問題が発生しなかった理由を、発生の背景として、川魚の多食、広大な流域、閉鎖的で浅海の内湾を挙げ、2工場の立地条件がこれらを満たさなかったからだと考察しています。発生しなかったのではなく、当時の住民の心配事として、『水俣病に罹っているかもしれない』という意識がなかっただけだと思います。

ところが、1973年5月22日の有明海第三水俣病問題の報道を契機に、水俣病患者の掘り起しが水俣病患者を支援する医師の下で行われました。関川流域には水俣病を疑われた者が16人います。青海町住民にはいません。斎藤は、16人のうち、8人は4人ずつの2家族であり、その2世帯では飼い猫の狂死・ニワトリの異常死があったと報告しています(新潟水俣病,pp318,毎日新聞社,1996)。青木と斎藤の報告を合わせて読み解けば、関川第五水俣病問題はダイセルの廃液による公害であったと結論されるのではないでしょうか。

今回は、直江津地先・関川流域について報告する予定でしたが、青木の報告の吟味で疲れてしまいました。続きは次に回します。

1 thought on “我が国におけるメチル水銀汚染-第一章・関川流域(直江津地先)

  1. tetuando

    振り返れば、水俣湾のメチル水銀汚染レベルが最悪だった1959年に、熊大は、水俣病の原因が工場廃液に含まれた有機水銀である、と公表しました。この時、御用学者(通産省委託)である清浦雷作東工大教授が、本州の某地区の魚の水銀値を資料として掲げ、「本邦にて水俣地区以外でも水銀濃度の高い魚類の存在を認め、且つ奇病の発生を聞かない」として熊大の有機水銀説は肯定できないと反論・報告しました。この本州某地区が直江津上流であったことが知られています。報告書は、通産省から厚生省に配布されましたが、住民の健康調査は行われませんでした。
    斎藤恒医師が報告した16人の水俣病が疑われる患者全員に知覚障害は認められましたが、一人として視野狭窄を示す例はありませんでした。そこで、斉藤は、1968年発生のカネミ油症の流れを取り入れ、この患者達を「水銀とPCBの複合汚染の被害者」としての関川病であるとしました。
    視野狭窄が認められなかったことから、典型的水俣病としては認定されないでしょう。それで、複合汚染を思い付いたのでしょう。斎藤医師の意識に「公害」があり、「農薬」への意識がこれぽっちも無かったことから、関川第五水俣病問題は無かったことになったのではないでしょうか。実際、1973年7月~74年1月に厚生省も関川流域住民の健康調査を展開しました。一次調査による魚食習慣などの質問票の回答のあった1274人のうち272人を週2回以上の高濃度摂取群とし、有訴状況からふるい分け、69人を新潟大において水俣病検診を行い、17人(斎藤の16人との重なりについての情報はありません)の要精密検診者を抽出しました。しかし、彼らの誰ひとりにも視野狭窄がなかったことで、関川第五水俣病問題に「シロ」判定が下りました。水俣病認定の最低条件である「手袋靴下型感覚障害」は、変形性脊椎症・糖尿病などでも発症するので、メチル水銀中毒症と特定できないという「Abe様の悪魔の証明」項目です。厚生省は最後まで青木の報告書を参考にしなかったということではないでしょうか。
    メチル水銀汚染騒動のきっかけになった有明海第三水俣病問題でも、熊大研究班の脳裏は「公害」に止まり、「農薬」に発展していません。「農薬」が浮上すれば、環境を含めた疫学調査への進展があったかもしれないと思います。1973年、&oは修士課程2年生で、海産無脊椎動物のステロール構成成分の分析に明け暮れていました。

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