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1952~1962年における鹿児島県各地域の出生数の変動について

人口増の最大の生態学的要因は安定的食糧確保の継続です。しかし、我が国では太平洋戦争後の1947年~1949年に、極端な食糧不足でありながら第一次ベビーブームと呼ばれる年間240万人を超える新生児の誕生を経験しました。人口増に関わる生態学上の視点に「平和」を加える必要があることを学習しました。また、1947年~1949年の第一次ベビーブームの発生要因として、「平和」の確保の方が「食糧」の確保に優先したことも学習しました。

その後、朝鮮動乱(1950~1951年)による朝鮮特需で経済状態が大幅に上向きました。「平和*1」と「食糧*2」が同時にそれなりに確保されたにも関わらず、出生数は漸減しました。しかし、その後、食糧確保の打ち出の小槌として稲イモチ病の予防・治療の特効薬として水銀系農薬が出現し、その散布が1955年の夏季から全国的に普及しました。その効力の沙汰は、何度かOB会HPに記してきました。米石高は、散布普及前の1954年に5900万石で、散布が普及した1955年に8000万石と、何と作付け状況が136%という大豊作でした。また、神武景気と呼ばれる好景気で戦前最高水準を超える経済回復がありました。ところがこの「食糧」の確保と好景気で人口増が得られた形跡がありません。*1;故郷の小倉では、朝鮮動乱の帰還兵・負傷兵・死亡兵が受け入れられていました。死体を洗う作業日当が8000円(父からの伝聞;アンパン10円、卵30円、電車初乗り大人10円の時代)という記憶があります。小倉の繁華街は米兵であふれていました。北朝鮮・中共軍が優勢だった頃の12/7/1950、小倉市城野米軍キャンプ から出征間じかの黒人兵が集団脱走・暴動を起こしました。その事件を題材にして松本清張( 1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞 )が短編小説を書いています(黒地の絵)。したがって、局所的には「平和」ではなかったかもしれません…..。*2;小学生に限っての脱脂粉乳とコッペパンの給食という最低限のエネルギーとしての「食糧」確保に過ぎなかったのかもしれません…..。

小学3年生時、社会科の授業で教わったのは「米石高8000万石(s30年全国人口;8930万人)」だけど「児島湾の干拓竣工」「八郎潟の干拓推進中」「諫早湾の干拓計画」によって、近い将来、一人一石の「お米」を確保が約束されるだろう、ということでした。正に、平和な時代の食糧確保なので、出生数増による人口増が期待されるはずです。確かに人口は、その後2005年の12800万人まで増え続けました。そして1970年代前半の第二次ベビーブームによって出生数もそれなりに確保されました。しかし、第二次ベビーブームのピークであった1973年の出生数でさえ1952年のそれらを下回っています。緩やかな人口増は出生数の減少分を大幅に上回る高齢者の平均余命の延伸によるものだったということです。それにしても1955年からの「平和な時代の食糧確保」によって出生数が増えなかったのは何故でしょう。

一般論では、教育費の負担増を避けるために産児制限が浸透したことによるとされています。そうでしょうか?我々、大いなる人口集団の第一次ベビーブームマー・団塊世代の国立大学の授業料は年間1.2万円でした。大学出の初任給の半額以下だったのですから、一般論は後付けのように思います。むしろ、子供が少ないので年間53万円(同初任給の2.5倍以上)の国立大の授業料に費やすお金が生まれたように思います。とはいうもの、これまで、「平和な時代の食糧確保」によって出生数が増えなかった理由を真剣に考えたことはありませんでした。そんなとき、胎児性水俣病患者の父と呼ばれた故原田正純医師が遺した不知火海沿岸住民の臍帯メチル水銀濃度の時間、および地理分布によって不知火海のメチル水銀汚染の変動を検索し、同時に、その変動要因を検討する研究に取り掛かっていました。

原田先生が集めた臍帯は299検体に止まっています。その上、実際に統計解析に使用するデータに欠損がなかったのは、水俣83検体、芦北45検体、および出水91検体の計219検体でした。メチル水銀汚染の中心である水俣の検体が相対的に少ないことに戸惑いを感じました。坂本らは(2001)、水俣において死産が特異的に多発したことが水俣の検体の少ない理由ではないかと報告しています(死産児の臍帯は保存されないから)。ところで、3地区(出水・水俣・芦北)の臍帯中メチル水銀濃度の平均値は、出水が有意に最高です(1947~1980年の観察期間を5つに分けたどの期間でも)。メチル水銀汚染の中心である水俣の臍帯メチル水銀濃度の平均値が三地域間で最高でない理由も、やはり、水俣において死産が特異的に多発したことにあると考えられてきました(メチル水銀の高濃度曝露によって死産に至る → メチル水銀高濃度曝露児の保存臍帯の欠損が発生 → 平均値は低くなる)。しかし、水俣における死産の多発は1955~59年の出来事なので、1960年以降の臍帯中メチル水銀濃度の平均値で出水>水俣であることの説明を死産の多発とすることは出来ません。

では、何故、何れの観察期間においても出水>水俣の臍帯中メチル水銀濃度が測定されたのでしょう。調査・研究の展開に「予測・仮定」は必要です。しかし、「予断・思い込み」は禁物です。多くの一般人(研究者であっても)の「思い込み ≒ むしろ一般的知識(常識)と言えるかもしれません」は、ⅰ)臍帯中メチル水銀濃度は児へのメチル水銀曝露量の指標である、ⅱ)メチル水銀は胎盤を通過(素通り)する、というもののように思います。少なくとも筆者は、ごく最近まで臍帯中メチル水銀濃度を「児へのメチル水銀曝露量の指標」と考えていました。ところが、胎盤は受精卵の着床で形成されるのですから、胎盤の成長・発達は児の遺伝子情報に従っています。その上、胎盤の末端でもある臍帯は児と直に繋がっているのですから、臍帯中メチル水銀濃度が児のメチル水銀曝露量の指標との考えがまったくの間違いとは思えません。しかし、一方でメチル水銀に対する血液・胎盤関門(Blood-Placenta Barrier;BPB)は存在しており、メチル水銀は確かに胎盤を通過しますが素通りしているわけではありません。それに胎盤を通過したメチル水銀は血液に含まれて児に運ばれるのであって、胎盤(=臍帯)組織中のメチル水銀が直接胎児に運ばれるのではありません。胎盤を通過した母の血液中の酸素や栄養素が児の血液に取り込まれて児に運ばれることを認識すれば、臍帯中メチル水銀濃度が児へのメチル水銀曝露量の指標でないことを知ることができます。したがって、児へのメチル水銀曝露量の直の指標は、臍帯血中のメチル水銀濃度ということになります。臍帯中メチル水銀は胎盤末端のメチル水銀であり、BPBで胎盤を通過できなかったメチル水銀、すなわち母の曝露メチル水銀の一部ということになります。

BPBは胎盤組織を充填剤、母の血液を展開物質および展開溶媒とする吸着カラムクロマトグラフィーの結果と言えるでしょう。したがって、充填剤(胎盤組織)に対して母の血液中のメチル水銀が、①高濃度であればBPBが効かず(負荷量過多=overload;吸着できない)、母の曝露メチル水銀のほとんどが胎盤を容易に通過し、胎児の血液取り込まれるでしょうし、②低濃度であればBPBが効いて(吸着する)曝露メチル水銀のほとんどが胎盤に止まり胎児の血液に移行るのは限られるでしょう。結果、児へのメチル水銀曝露量は、①では多量になり死産発生の閾値を超えることもあるでしょうが、②では限定的な量に止まり死産には至らず、胎児として成長するでしょう。ただし、メチル水銀曝露の時期と量によっては「胎児性水俣病患者」として出生する可能性があるでしょう。メチル水銀が内分泌撹乱物質(環境ホルモン)と呼ばれたことがあります。そのことを説明していると思います。

工場廃液に含まれたメチル水銀に汚染された水俣湾内の魚介類の多食によって1953年12月(初発)から1958年12月までの5年間に女26人および男39人の急性水俣病患者が発生しました。しかし、その5年間に出水では一人の急性水俣病患者も発生していません。一方、胎児性患者の初発は、水俣湾沿岸住民では急性患者の初発から1年以上経過した後の1955年4月であり、出水住民では胎児性患者の初発(1955年8月)から4年経過後急性患者の初発(1959年6月)がありました。水俣湾沿岸において急性患者が発生していた時期は、正に死産の多発時期でもあり、母の血液中メチル水銀は①(高濃度)の状態だったと考えられます。一方、急性患者や死産の多発が記録されていない出水の母の血液中メチル水銀は②(低濃度)の状態だったでしょう。②の状態であってもメチル水銀曝露の時期と量に依存して胎児の脳神経組織が中毒域に達して胎児性患者の発生に至ったと考えます。②の状態では母の曝露メチル水銀の大部分が胎盤に蓄積したと考えられ、母の脳神経組織へのメチル水銀曝露量が比較的少なかったことが予想できます。胎児性患者の母の水俣病症状が比較的軽かったことを説明していると思います。これまでの通説にある、母への曝露メチル水銀のほとんどが胎児に移行した結果、母の脳神経組織に蓄積(曝露)したメチル水銀が少なかったとの説明とは異なると考えています。

①では胎盤(末端は臍帯)に止まったメチル水銀量が少ないことから臍帯中メチル水銀濃度は低かったと考えられます。一方、②では胎盤に止まったメチル水銀が多かったことで臍帯中メチル水銀濃度は高くなると考えられます、臍帯中メチル水銀濃度が出水>水俣であったことの説明になると思います。

今回の主題は「7月・8月の水銀系農薬散布によって8月・9月の河口域(and/or閉鎖的海域)においてメチル水銀濃度が上昇した魚介類を多食した女性の受精卵の着床が抑制されることによって出生数が減少する」という仮説の検証です。8月・9月の河口域が水銀系農薬由来のメチル水銀に汚染されるという仮説は、鹿児島湾における報告(安藤,2012)が唯一の説明ですが、実証例(evidence)と考えています。8月・9月の出水沖の不知火海域や鹿児島湾奥域における環境中のメチル水銀が受精卵の着床を抑制するレベルであるという仮説を検証しなくてはなりません。すなわち、出生数の減少が5月・6月に特異的に発生したことを検証することになります。

一方、8月・9月の出水沖不知火海環境中メチル水銀レベルで受精卵の着床が抑制されるとすれば、1955~59年に死産が多発した水俣湾沿岸住民は、その間8月・9月を含めた通年の環境中メチル水銀レベルが高かったことが示唆されます。同時期には、通年的に受精卵の着床が抑制されたかもしれません。その場合、ひと月当たりの出生数の平均値が低下すると考えられます。実際、今回得られた人口動態統計から1955~59年の出生数/月の平均値は、人口5万人の水俣で76人(年間917人)、人口13万人の出水市郡で206人(2472人)、人口20万人の大島市郡で492人(5904人)です。出水、および大島市郡の人口を単に5万人で調整すると、それぞれ79人(年間951人)、および123人(年間1476人)と算出できます。出水市郡より大島市郡の出生数が相当に多いようです。それぞれのメチル水銀曝露レベルを、 大島市郡では受精卵の着床は抑制されず《当然、メチル水銀曝露による死産は発生しないと考えます;実際、当時の鹿児島県の死産率 [{ 死産数/(出生数+死産数)}×1000] が60~70台でしたが大島市郡では1未満でした》 、出水市郡では受精卵の着床は抑制されるがメチル水銀曝露による死産は発生せず、水俣ではメチル水銀曝露によって受精卵の着床が抑制される上に死産・流産が発生すると仮定すれば、水俣では年間559人(1476-917;5年間で2795人)の受精卵の着床抑制、および死産の発生(大島市郡-水俣市)、および年間34人(951-917;5年間で170人)死産の発生(出水市郡-水俣市)、また年間525人(1476-951;5年間で2625人)の受精卵の着床抑制の発生(大島市郡-出水市郡)という仮説です。

実際の水俣市における、1955~59年の5年間の出生数は4550人【男2238人、女2312人(出生性比は97;2238/2312)】であり、死産数は216人【男137人、女79人(死産性比は173;137/79)】です(坂本ら,2001)。これらの死産数を出生数に加えて算出した出生性比[(出生男児数/出生女児数)×100]は99【(2238+137)/(2312+79)】であり、平常の出生性比(105 とします)からの死産によって発生した低下部分2(99-97)は全低下分8(105-97)の1/4に止まっています。したがって、残りの3/4の低下部分6は流産・受精卵の着床抑制によって発生したことが示唆されます。水俣市におけるこの5年間の出生の減少数をおおよそ2795人(上記の人口動態統計からの推定値)とすれば、死産数170、流産・受精卵の着床抑制数2625と算出できます。得られた死産推定値(170)と実際の死産届出数(216)にそれなりの差(46)が存在しています。この差は無視できる数値ではありません。強引ですが、46の差はメチル水銀曝露に起因しない死産数と考えることができます。坂本らの報告では(2001)、男児に偏った死産が出生性比を狂わせたと説明していますが、この結果からは、流産・受精卵の着床抑制が出生性比を狂わせた主因と解釈できるでしょう 。

前置きが長くなりました。水銀系農薬散布に起因する環境中メチル水銀曝露レベルの上昇によって、鹿児島市では受精卵の着床は抑制されず、出水市郡では受精卵の着床は抑制されるが死産は発生せず水俣では受精卵の着床が抑制される上に死産・流産が発生するだろう、という仮説にそれなりの蓋然性を持たせるための前置きでした。入手出来た熊本県の人口動態統計は1955~59年分の確認に止まり、1955年7月が境界となる水銀系農薬散布の普及という時間要因を検討するための1955年7月以前のデータが不足しています。一方、鹿児島県の人口動態統計は1952~62年分が得られています。そこで、今回は、鹿児島県(名瀬市/大島郡を除く)・鹿児島市・出水郡市・姶良郡市・名瀬市/大島郡のそれぞれ出生数の変動について個別に統計学的に検討しました。

 昭和27年(1952)から昭和37年(1962)の11年間における各地域区分の出生数を従属変数とします。説明変数として;Ⅰ;水銀系農薬使用普及前(0):普及後(1),Ⅱ;経年(s27=0, s28=1, s29=2…..s33=6, s34=7,.....s37=10),水銀系農薬散布の普及×経年=Ⅰ×Ⅱ,共変数として月別に0・1で分類 →【m1:1月(0):その他月(1),…….. m6:6月(0):その他月(1),........., m12:12月(0):その他月(1)】=m1, m2, m3, m4, m5, m6 m7, m8, m9, m10, m11, m12 とした重回帰分析を行いました。

 鹿児島県(名瀬市/大島郡を除く;1955年人口196万人)における1952~62年の出生数の変動は、Ⅰによって有意ではありませんが59人増加し、Ⅱによって有意に毎月217人減少し,およびⅠ×Ⅱによって有意ではありませんが毎月17人増加しました。また、5月・6月の場合、Ⅰによって有意ではありませんが126人増加し、Ⅱによって有意に毎月247人減少し,およびⅠ×Ⅱによって有意ではありませんが毎月74人増加しました。鹿児島県全体では、水銀系農薬散布の普及前後の出生数は減少ではなく増加しています。一方で、経年的な(1952~62年における)出生数減がみられています。水銀系農薬散布の普及後(1955年7月~62年における)、および普及後の経年的な出生数の変動はともに増加しています。すなわち、米石高の増加という食糧の確保によって出生数が増加した可能性が問えます。鹿児島県では、水銀系農薬散布の普及(1955年)以降の月当たりの出生数を1952年の時点のそれらと比較すると、計算上、全月(1月~12月)対象とした解析では、毎月出生数が200人(-217+17)減少し、5月・6月に限った解析では、毎月出生数が173人(-247+74)減少しています。5月・6月の出生数の減少幅が全月(1月~12月)のそれらよりかなり小さく、鹿児島県では水銀系農薬散布が5月・6月に特異的に影響した可能性を示すことはできませんでした。

 Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年  鹿児島市(1955年人口26万人)における1952~62年の出生数の変動は、Ⅰによって25人有意に減少,Ⅱによって毎月16人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月11人有意に増加しました。また、5月・6月の場合、Ⅰによって7人減少しましたが有意でなく,Ⅱによって毎月15人減少する傾向にあり,およびⅠ×Ⅱによって毎月12人増加しましたが有意ではありませんでした。Ⅰ;水銀系農薬散布の普及前後で鹿児島県の出生数は(有意ではないものの)増えましたが、鹿児島市のそれらは有意に25人減少しています。鹿児島市の出生数の減少が水銀系農薬散布の普及によって発生した可能性は否定できないでしょう。鹿児島市では、水銀系農薬散布の普及(1955年)以降の月当たりの出生数を1952年の時点のそれらと比較すると、計算上、全月(1月~12月)を対象とした解析では、毎月出生数が5人(-16+11)減少し、5月・6月に限った解析では、毎月出生数が3人(-15+12)減少しています。5月・6月の出生数の減少幅は全月(1月~12月)のそれらより若干小さく、鹿児島市の5月・6月の出生数への水銀系農薬散布による影響が鹿児島県のそれらより大きい可能性は有りそうです。

 Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年,Ⅲ工場廃液排水地の変更  出水市郡(1955年人口13万人)における1952~62年の出生数の変動は、Ⅰによって80人有意に減少し,Ⅱによって毎月37人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月30人有意に増加しました。5月・6月に限ると、Ⅰによって58人減少する傾向にあり,Ⅱによって毎月28人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月22人有意に増加しました。出水市郡では、水銀系農薬散布の普及(1955年)以降の月当たりの出生数を1952年の時点のそれらと比較すると、計算上、全月(1月~12月)対象とした解析では、毎月出生数が7人(-37+30)減少し、5月・6月に限った解析では、毎月出生数が6(-28+22)人減少しています。5月・6月の出生数の減少幅が全月(1月~12月)のそれらよりわずかに小さく、出水市郡の5月・6月の出生数への水銀系農薬散布による影響が鹿児島県および鹿児島市より大きい可能性は有りそうです。しかし、この統計結果からは、出水市郡の妊婦の多くが魚介類をそれほど多食しなかったと考えざるを得ません。出水市郡の住民から多くの水俣病患者が発生したという一般的事実とは異なる結果です。

ところで、出水郡市沖の不知火海には、;1958年9月~1959年10月まで工場廃液排水地の変更(水俣湾内百間港から水俣湾外八幡プールへ)によって工場廃液由来のメチル水銀が直接排出されました。そこで、この工場廃液の排水地変更期間を説明変数として加えて重回帰分析を行いました。ただし、排水地変更期間が14か月の短期間であったことから、観察期間は1952年~59年に限定しました。出生数の変動は、Ⅰによって156人有意に減少し,Ⅱによって毎月37人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月30人有意に増加し、Ⅲによって15人減少しましたが有意ではありませんでした。しかし、要因Ⅲ工場廃液排水地の変更によって出生数が有意でないものの減少したことは、出水市郡沖不知火海のメチル水銀レベルの変化があったことが示唆されます。

実際に、工場廃液の排水先変更に関わる変動については、回帰係数(15)に対する標準誤差(11)が大きいことから、工場廃液の季節(各月)との関係が大きく異なり回帰係数が大きく変動した可能性が考えられました。そこで、観察期間をそのまま1952~59年として、各月別に同様の重回帰分析を試みました。各月別の重回帰分析では、Ⅰ;水銀系農薬散布の普及によって出生数が有意に減少したのは、6月、8月、および11月の3か月に限られていました。また、Ⅱ;経年的な有意の出生数の減少は、1月、3月、4月、6月、7月および8月の半年に及んでいました。8月は水銀系農薬の散布の最盛期であることから、11月における受精卵の着床抑制ではなく、死産の異常発生があった可能性が指摘できるかもしれません。また、Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布普及後の経年的出生数の有意の増加があったのは、3月、6月、および8月の3か月に限られていました。すなわち、Ⅰ・Ⅱ・Ⅰ×Ⅱの要因の何れによっても有意の変動があったのは6月および8月に限定されていたのです。その上、6月および8月は、Ⅲ;工場廃液排水先変更によって出生数に有意の減少がみられています。

そこで、次に1952~59年の6月・8月に限定し、Ⅰ・Ⅱ・Ⅰ×Ⅱ、およびⅢを説明変数とする重回帰分析を行いました(6月と8月の差は両月を共変数として調整しました)。出生数の変動は、Ⅰによって215人有意に減少し(p<0.001),Ⅱによって毎月37人有意に減少し(p<0.001),およびⅠ×Ⅱによって毎月60人有意に増加し(p<0.001)、Ⅲによって56人有意に減少(p=0,001)しました。出生数は、A期;1952年1月から1955年6月までは毎月37人減少し、B期;1955年7月から1958年8月までは毎月23人(-37+60)増加する一方でA期よりも毎月215人少なく、C期;1958年9月から1959年12月までは毎月23人増加する一方でA期よりも215人少なく、B期よりも56人少ないと算出できます。1952~59年の6月・8月以外の月の場合(各月の差は各月を共変数として調整しました)、出生数の変動は、Ⅰによって145人有意に減少し,Ⅱによって毎月37人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月43人有意に増加し、Ⅲによって8人減少しましたが有意ではありませんでした。出生数は、A期;1952年1月から1955年6月までは毎月37人減少し、B期;1955年7月から1958年8月までは毎月6人(-37+43)増加する一方でA期よりも毎月145人少なく、C期;1958年9月から1959年12月までは毎月6人増加する一方でA期よりも145人少なく、B期よりも8人少ないと算出できます。正に、水銀系農薬散布に由来するメチル水銀の負荷の影響が6月および8月に特異的に見られていると言えるでしょう。

一方、観察期間を1952~62年と期間を延ばし全月を対象とした出生数の変動は、Ⅰによって83人有意に減少し,Ⅱによって毎月37人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月30人有意に増加し、Ⅲによって19人有意に(減少でなく)増加しました。したがって、Ⅲの要因による出生数の変動は、1958年9月~1959年10月までの工場廃液排水地の変更期間中の6月・8月に特異的に発生したと捉えることができそうです。出水市郡では急性水俣病患者が1959年6月、8月および9月にそれぞれ1人ずつ3人発生しています。この時期の6月・8月では出水市郡沖の不知火海のメチル水銀レベルが特異的に高かったことが示唆されます。翻ってみれば、出水沖の不知火海が濃厚なメチル水銀汚染であったのは、工場廃液が八幡プールから不知火海へ直接放出されていた期間に限られていたことが示唆されます。この工場廃液の不知火海への直接放出が、不知火海のメチル水銀汚染の基盤レベルを押し上げたことも示唆しています。

ここで、1952~59年の5月・6月に限定し、Ⅰ・Ⅱ・Ⅰ×Ⅱ、およびⅢを説明変数とする重回帰分析を行いました(5月と6月の差は両月を共変数として調整しました)。出生数の変動は、Ⅰによって228人有意に減少し(p=0.002),Ⅱによって毎月28人有意に減少し(p=0.002),およびⅠ×Ⅱによって毎月56人有意に増加(p<0.001)、Ⅲによって60人減少する傾向(p=0.058)にありました。6月・8月の場合と比べると、要因Ⅱを除くその他の要因Ⅰ・Ⅰ×Ⅱ・Ⅲによる回帰係数の絶対値が大きいにも関わらず、有意性はそれぞれ低いという結果でした。5月・6月では死産が極少なく、受精卵の着床抑制が相当数発生し、6月・8月では死産がそれなりに発生した上に、受精卵の着床抑制が相当数発生したと考えました。出水市郡のうち出水市に限定した統計解析をするべきですが、地区を分けることによる各月の出生数の絶対数が少ないことから生じる標準誤差の拡大を防ぐことができません。出水市郡の規模で統計解析した理由でもあります。やや強引ですが、出水市郡の5月・6月の場合も、工場廃液由来のメチル水銀に水銀系農薬由来のメチル水銀が加わり出生数が、受精卵の着床抑制によって減少したと考えました。

Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年  鹿児島湾奥沿岸の姶良郡市(1955年人口18万人)における1952~62年の出生数の変動は、Ⅰによって23人減少する傾向にあり(p=0.082),Ⅱによって毎月37人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月15人有意に増加しました。また、5月・6月の場合、Ⅰによって35人増加しましたが有意でなく(p=0.175),Ⅱによって毎月52人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月34人有意に増加しました。出水市郡沖の不知火海には水俣湾からの工場廃液由来のメチル水銀が基盤的に負荷していたと考えられますが、鹿児島湾奥には水銀系農薬だけがメチル水銀負荷源と考えられます。それ故に、Ⅰによる出生数の減少が有意ではなく、減少傾向に止まったと考えました。

ところで、カルデラ地形の鹿児島湾奥では夏季に表層から水深80mにかけて温度躍層が形成されることで海水の入れ替わりが制限されています。したがって、天降(あもり)川や別府川によって運ばれたであろう水銀系農薬由来のメチル水銀が湾奥に長く止まる可能性が考えられます。そこで、観察期間を1952~64年に延ばしてⅠ・Ⅱ・Ⅰ×Ⅱを説明変数とし、出生数の変動について重回帰分析を行いました。全月を対象とすると観察期間が1952~63年ではⅠによって出生数は有意に32人減少し(p=0.014)、1952~64年ではⅠによって出生数は有意に41人減少しました(p=0.001)。5月・6月を対象にすると、観察期間が1952~63年ではⅠによって出生数は43人減少する傾向にあり(p=0.065)、1952~64年ではⅠによって出生数は有意に52人減少しました(p=0.020)。対象が全月および5月・6月にかかわらず、出生数減少に有意性が高くなり、その絶対値が大きくなっています。したがって、水銀系農薬散布が続いている間、鹿児島湾奥のメチル水銀レベルは逐次上昇し、出生への影響(受精卵着床の抑制作用)が高まった可能性があると考えられます。

 Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年  名瀬市/大島郡(奄美大島)は1953年12月に本土復帰しました。人口動態統計も1954年からの記載でした。そこで観察期間は1954~62年としました。Ⅰ、ⅡおよびⅠ×Ⅱによる出生数の変動はいずれも有意ではありませんでしたが、Ⅰによって3人増加し,Ⅱによって毎月24人減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月12人減少しました。また、5月・6月の場合でも、Ⅰ、ⅡおよびⅠ×Ⅱによる出生数の変動はいずれも有意ではありませんでしたが、Ⅰによって17人増加し,Ⅱによって毎月13人減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月17人減少しました。奄美群島の基幹作物はサトウキビです。そのため、奄美大島での稲作は限定的であり、重回帰分析は奄美群島では水銀系農薬散布が普及しなかったことを反映した結果と言えるでしょう。

 Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年  人口26万人の鹿児島市の場合、観察期間が1952~62年ではⅠ、Ⅱ、およびⅠ×Ⅱによってそれぞれ有意の出生数の変動がみられましたが、その絶対値(符号は増加+・減少-)はそれぞれ25-、16-、11+でした。鹿児島市での観察期間を1952~59年と短くすると、ⅠおよびⅠ×Ⅱによる出生数の変動に有意性が認められませんでした。Ⅰ、Ⅱ、およびⅠ×Ⅱによる出生数の変動の絶対値(符号は増加+・減少-)はそれぞれ19-、16-、10+でした。また、5月・6月に限定した場合、観察期間が1952~62年におけるⅠ、Ⅱ、およびⅠ×Ⅱによる出生数の変動は有意ではありませんでしたが、その絶対値はそれぞれ7-、15-、12+でした。観察期間が1952~59年でもⅠ、Ⅱ、およびⅠ×Ⅱによる出生数の変動はそれぞれ有意ではありませんでしたが、その絶対値はそれぞれ16+、15-、13+でした。観察期間が短いことで出生数の変動の向きが異なった上に、有意性もみられていません。鹿児島市の魚市場に一部、鹿児島湾奥産の魚介類が水揚げされていることから、観察期間を長くすることで水銀系農薬散布が毎年繰り返されることを鹿児島湾奥の魚介類のメチル水銀レベルが上がったこととして反映したのかもしれません。

 水俣湾からの工場廃液由来のメチル水銀が基盤的に負荷していたと考えられる出水沖不知火海沿岸の人口13万人の出水郡市における観察期間1952~62年のⅠ、Ⅱ、およびⅠ×Ⅱによる出生数の変動は、それぞれ83-、37-、および30+であり、水銀系農薬だけがメチル水銀負荷源と考えられる鹿児島湾奥沿岸の人口18万人の姶良郡市における同じ観察期間のそれらは、それぞれ23-、37-、15+です。人口規模の順(鹿児島市>姶良市郡>出水市郡)と出生数の変動の絶対値の大きさ(鹿児島市<姶良市郡<出水市郡)とは逆転しています。鹿児島湾奥のカルデラ地形が鹿児島市(鹿児島湾央)と姶良市郡(鹿児島湾奥)における水銀系農薬散布の影響の差を生みだしたと考えられます。出水市郡(不知火海)は姶良市郡よりも水田面積が広い上に水俣湾からの工場廃液由来のメチル水銀が加わっていることが両者の水銀系農薬散布の影響の差として表われていると考えます。したがって、ⅠおよびⅠ×Ⅱの出生数の変動への影響の本体がメチル水銀である可能性が高いと言えるでしょう。さらに、出水市郡においてⅢ要因;1953年9月~1954年10月の工場廃液排水地の変更によって6月および8月の出生数が有意に減少しており、8月・9月の出水市郡沖の不知火海における魚介類のメチル水銀レベルが高く、死産や受精卵の着床抑制が発生した可能性が高いことを示唆しています。

 1952年~62年までの全国(昭和30年の人口8930万人)の月別出生数のデータがあります。これまでと同様の重回帰分析を行いました。Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年です。出生数はⅠによって有意に244,890人減少し、Ⅱで有意に毎月8,099人減少し、Ⅰ×Ⅱによって有意に毎月7,310人増加しています。全国でも水銀系農薬に由来するメチル水銀による出生数への影響があった可能性を十分問えるでしょう。

 ところで、全国の月別出生数は多い順に、1月>3月>2月>4月>8月>9月>12月>7月>10月>5月>11月>6月であり、6月の出生数は全てのその他月のそれらより有意に少数でした。鹿児島県に関わる各調査地域においても6月の出生数が全てのその他月のそれらより有意に少数でした。各調査地域の月別出生数は多い順に、鹿児島県(除大島郡市);1月>4月>2月>9月>10月>8月>11月>12月>3月>7月>5月>6月  鹿児島市;1月>9月>8月>10月>12月>2月>7月>11月>3月>4月>5月>6月  出水市郡;1月>2 月>4 月>12月>9月>7月>8月>10月>11月>3月>5月>6月  姶良市郡;1月>2 月>4 月>9月>3月>8月>10月>11月>5月>7月>12月>6月  大島郡市; 4月>11月>10月>1月>12月>9月>5月>8月>2月>3月>7月>6月  月別出生数の順のパターンにおいて、大島郡市だけがその他の調査地域とかなり異なっていることも、大島郡市除くその他の調査地域における出生数の変動要因に水銀系農薬散布が関わっていることを説明しているのかもしれません。

 ここまで、鹿児島県の各調査地域、とくに出水市郡および姶良市郡の出生数の変動に対して水銀系農薬散布が関わっていることが示唆されました。しかし、疫学における関連の一致性を得るために、水俣、および芦北をはじめとする熊本県、および新潟市、および阿賀市をはじめとする新潟県の人口動態統計から、今回と同様の統計解析をする必要があるでしょう。熊本県、および新潟県在住の読者の皆さんに期待したいと思います。

1 thought on “1952~1962年における鹿児島県各地域の出生数の変動について

  1. tetuando

    今回の出生数からの環境汚染の実態の解明は不十分な結果に止まっています。本来ならば、地域の年毎の1月と12月の15~49歳の女性人口を把握し、その平均値《(1月人口+12月人口)÷2》÷12から算出した各年月推定人口で各年月出生数を割って算出した推定の合計特殊出生率《女性が出産可能な年齢を15歳から49歳までと規定し、それぞれの出生率(出生数÷ 女性人口)を出し、足し合わせることで、人口構成の偏りを排除し、一人の女性が一生に産む子供の数の平均を求める;ほぼWikipediaより》で、今回と同じ統計解析(重回帰分析)を実行すれば、実態解明の信頼度は十分の域に達すると考えています。しかし、「言うは易し行うは難し」です。例えば出水市郡には出水市・高尾野町(中途から江内町を吸収合併)・野田町・阿久根市(中途から三笠町を吸収合併)・長島町・東町(現在は長島町と合併;含・多数の猫狂死が有った獅子島)が含まれています。各地域の各年月の出生数の変動を細かく見ると、地域差・年月差を単に誤差変動として計算するリスクが高まります。そのため、計算は出水市郡として実行しました。そうすると、水俣湾からの工場廃液の影響を、水俣湾を境にした不知火海南西域として観察することになるでしょう。工場廃液と水銀系農薬によるメチル水銀負荷割合を推定するには各地域における水俣湾からの距離を要因とすれば推定可能なのですが、出水市郡のデータでは不可能です。各月別差から水銀系農薬由来のメチル水銀負荷時期を推定するのが精一杯です。幸い、女性人口で除していない出生数単独でも各月別差は算出可能と考えられます。今回の結果は、各月別差・年別差を各地域別に算出したに過ぎません。地域差を論じるには合計特殊出生率を導入しなくてはなりません。これを論文にするにはそうすべきですが、今の&oにはその余裕がありません。1952年から1962年までの水俣市および芦北郡のデータが手に入れば、出水市郡と比べることで工場廃液と水銀系農薬によるメチル水銀負荷割合を推定することが出来るでしょう。今回のデータをもっと簡素に分かりやすくまとめ、水俣市や津奈木町/芦北町に送った上で、データ収集をお願しようと思います。

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