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我が国におけるメチル水銀汚染-第一章・付記(関川第五水俣病)

関川第五水俣病問題の検証について、今後も何度か記せる機会は訪れるでしょう。それでも、その時々の思考内容をいつまでも覚えているか、という未来のことは分からないと思います。その意味を込めて、斉藤医師のデータが問いかけているだろうことを、とりあえず文字にしようと思います。

斎藤の16人の関川病患者から得られているデータが、メチル水銀汚染源の所在を予想させてくれます。渋江川沿いのダイセル新井工場(アセトアルデヒド生産)の廃液では説明できないことが、そのうちのひとつです。斎藤の意識では、無機水銀が容易にメチル水銀に変換される、と信じて疑っていないようです。その為、関川流域の工場廃液は、新井工場に加え、新井工場(渋江川)よりも5km上流の日本曹達日本木工場、および関川河口近くで合流する保倉川沿いの信越化学直江津工場の三廃液ともメチル水銀汚染源だとしています。アセトアルデヒド生産をしていた新井工場にその可能性があるのは青木の調査・研究で明らかになっています。もし、二本木工場の廃液がメチル水銀汚染源として新井工場の廃液に加わっていたというなら、渋江川の魚を多食した人々から関川病が初発・多発したことでしょう。

斎藤は、16人の関川病患者の漁獲地を記録しています。漁獲地分布は、16人のうち8人が A;矢作川と関川の合流点、4人が B;関川(の何処との記述はない)、3人が C;渋江川、残りの1人が D;保倉川です。新潟焼山を源流とする関川(全長64 km)は、源流から20 km下流で太田切川(この上流が火山性水銀が噴出する白田切川)が合流します。さらに10 km下流で渋江川が合流します。そして、さらに8 km下流で矢作川が合流します。保倉川は日本海に河口がありましたが、江戸時代(1675年頃;Wikipediaより)に直江津を便利に利用するため、河口を関川に付け替えたそうです。

2人が昭和37.8年(コンマ8は8月だろう)に初めて関川病を発症しています。また、2人の魚摂取頻度は、ともに2~3回/週と同じです。その内の1人の漁獲地がA地点です。関川病患者の最も頻度の高い漁獲地であるA地点の魚のメチル水銀レベルが最も高い可能性があります。関川・渋江川・矢作川の3河川水が合流しているA地点です。関川に由来する火山性水銀、および渋江川に流出するであろう新井および二本木の工場廃液由来の水銀がメチル水銀汚染源であるならば、4人発症のB地点のメチル水銀汚染レベルが3人発症のC地点のそれらより高いという説明は矛盾します。B地点経由の河川水に矢作川の河川水が加わったA地点の方がB地点よりメチル水銀レベルが高いのであれば、矢作川からのメチル水銀負荷が有ると説明できます。しかし、矢作川流域には水銀使用工場および火山性水銀噴出地は有りません。「公害」でもなく、「自然汚染」でもないが、矢作川へのメチル水銀負荷源が、関川流域のメチル水銀負荷源のひとつであることを裏付けています。

‘73年から実施された直江津地先のメチル水銀汚染魚(イシモチ,カナガシラ,カナド,マガレイ,およびアカムツ)の漁獲の自主規制は、2000年から3年間暫定的規制値を超える魚が検出されなかったことで、イシモチを最後に2003年に解除されています。新井工場が操業中止したのは‘68年3月です。‘73年に「公害」を疑われたのですから、少なくとも、工場周辺・排水口の水銀含有土質などは除去したことでしょう。だとしたら、30年間も魚介類メチル水銀の暫定的基準値を下回らなかったこと、さらに、関川流域の川魚の漁獲規制が依然として続いていることに対してどんな説明を用意できるのでしょうか。

挙句の果てが「火山性水銀」による自然汚染です。安藤説⇒イモチ病対策の水銀系農薬の(大量)散布の方が、断然、整合性のある説明だと信じています。

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