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新潟水俣病公式確認50年-その2

2015年8月1日投稿済....再掲・訂正&「加筆・追記」

新潟水俣病は昭電鹿瀬工場(阿賀野川上流65kmで操業)の廃液を汚染源とするメチル水銀公害と伝えられています。1965年6月14日から新潟水俣病の患者・環境調査が阿賀野川下流域を中心に行われました。患者調査では、1965年7月までに急性・亜急性患者26人を確認・水俣病と認定しました。しかし、2015年までの認定患者は702人に達しています。702人からその26人を除いた676人の認定患者は、遅発性発症をしたと説明されています。一方、環境調査の一部として下流域住民6人および上流・鹿瀬地区住民1人の頭髪の生え際からの距離(長さ)に対応した頭髪総水銀(HairHg)濃度を測定しています。

頭髪は平均的に1か月に11mm伸びることが知られています。したがって、例えば生え際から11cmの部分は、平均的には10か月前のメチル水銀(MeHg)曝露量を示していることになります。「頭髪総水銀濃度の時間分布」図(水俣病,pp298,青林舎,1979)における総水銀濃度は(ppm,Hg・mg/Hair・kg)、表記が対数目盛なので、高濃度域では見た目の変動幅が小さくとも実際のそれらが大きいことに注視すべきです。下流域住民6人のうちの1人は下山地区(シタヤマ;河口から 1.5~2kmの集落 )の女性です。記録された歯抜けの姓名からは、1964年8月下旬に発症し、2か月後の10月29日に亡くなった初発患者の家族(妻)だと思われます。ただし、26人の急性・亜急性患者ではありません。MeHg曝露量の観察記録期間は1963年5月から始まり1966年7月までの約2年と長く、貴重な情報を発信してくれます。とくに季節的変動が検討できるので貴重です。1963年6月~1964年6月の一年間に、極大値45ppmが63年10月頃(前月の9月は極小かつ最小の15 ppm)に見られます。ところで、1964年11月の150 ppm が最大であり、12月は130 ppm、1965年1月;110 ppm、2月;50 ppm、4月;30 ppm、そして7月;15 ppmです。最大値を示した11月の前月の10月は極小ではありません。したがって、1963年10月に見られた極大値(季節的変動)とは異なる要因を含んだMeHg曝露形態であったと思われます。1964年7月;20 ppm、8月;30 ppm、9月;60 ppmは測定値ですが、10月は、9月および11月の測定値を結んだ線上の100 ppmという推測値です。一方、下山女性以外の他の下流域住人5人の記録をみると、それぞれの最大値がほぼ1965年2月にあります。したがって、6人のHairHgはいずれも1964年6月16日に発生した新潟地震後最大値を記録したことになります*1)。なお、その5人のうち1人は女性で、26人の急性・亜急性患者のひとりです。最大値は400 ppmを超えています。その他の4人が26人の急性・亜急性患者か否か、性別も、記録からは判別できません。 (*1;新潟水俣病裁判での被告=昭電の主張 ⇒ 東北3県-山形・秋田・青森-に海送すべく新潟港埠頭倉庫に保管してあった紙袋入り水銀系農薬が日本海に新潟地震津波で流失し、その後、新潟港から東北東5㎞離れた阿賀野川河口から、夏季の渇水期に満潮時に塩水として運ばれたとの主張(塩水楔説) ⇒ 最大でも塩水楔は阿賀野川河口から 8㎞までの遡上であるので昭電鹿瀬工場の廃液はMeHg汚染源ではないと弁論しました。したがって、HairHg濃度の最大値が、新潟地震後に存在したことは、事実であり、昭電にとっては有利なデータのはずでした

下山女性以外の5人は全て一日市(ヒトイチ;河口から4.5kmの集落)の住民です。一日市住民のHairHg濃度の最大値は下山住民のそれより約3か月遅れて発現しています。阿賀野川の河口から65 km上流に位置するアセトアルデヒド工場の廃液が阿賀野川下流域のメチル水銀汚染源であれば、少なくともより上流に位置する一日市流域の方が下山流域より早期に汚染されることが期待されます。このように誰でもが知っている自然現象河川水は上流から下流へ流下する)を、問題の紐解き(疫学研究)の際に無視することで、工場廃液がMeHg汚染源だとの印象付けが図られているようです。正式な政府見解は、『阿賀野川の汚染形態としては、長期汚染の事実と、これに比較的短期間の濃厚汚染が加わった可能性とがあるが、いずれにしても長期汚染が関与し、その程度は明らかでないが本中毒発生の基盤をなしたものと考えられる』・『長期汚染の原因は主として工場廃液であり、阿賀野川流域に散布された農薬の影響は無視しうる』です。この場合、短期濃厚汚染についての地理分布に触れないことで、それが下流域だけで起きたという事実をあえて無視しています。翻ってみれば、短期濃厚汚染が阿賀野川全流域で起きたと誘い込むことで、1964~65年に発生した下流域の急性・亜急性水俣病(短期濃厚汚染)と、初発が60年ごろで、発症ヒストグラムの中央値が68~70年にあって75年頃まで阿賀野川全流域で発症した遅発性慢性)水俣病とを区別せず、両者のMeHg汚染源が同じいずれにしても長期汚染が関与)であるとしています。その上、基盤をなした程度は明らかでないと、意味不明の推測を掲げ、(水銀系農薬の大量使用についての)国の責任は無視しうるとする一言(断定)で真実を覆い隠した見解と言えそうです。これが新潟水俣病事件の実体(の一部)です。私は釈然としませんが、皆さんはどうですか。

続いて、上流域、鹿瀬住民(女性)のHairHg濃度の時間分布です。鹿瀬工場の操業中止時(65/1/10)前・操業中の極大値は64年7・8月の150 ppmであり、操業中止後のそれは65年7・8月の200 ppmです。鹿瀬町住民のHairHgが、アセトアルデヒド工場の稼働中よりも中止後の方が高いことの説明はどの研究者・関係者もしていません。工場廃液をMeHg汚染源とすると説明困難だからでしょう。一方で、このHairHg濃度の時間分布は新潟地震発生前にすでに阿賀野川上流域がMeHgに汚染されていたことの証拠であると正しく説明されています。昭電が主張した『下流域のMeHg汚染は新潟地震後に発生した』を論破するために使われました。科学的なデータであっても、主張の都合に合わせて使用・不使用を決めています。これこそ、新潟水俣病のMeHg汚染源に対する世間の認識が誘導されたものであることを説明していると思います。

ところで、1964年および1965年の夏季に在る彼女のHairHg濃度の極大値は、稲イモチ病対策の水銀系農薬散布によるMeHg負荷増があったことを想起させてくれます。彼女が1965年に摂食した川魚には1964年における短期濃厚汚染された下流域*2)生息したことによるMeHgの濃厚曝露があった上で、その後、通常の生殖行動として上流へ回遊・遡上し、鹿瀬流域において夏季の農薬由来のMeHgに追加曝露された個体が相当数含まれていたのであれば、鹿瀬女性の1965年のHairHg濃度(200ppm)が1964年のそれら(150ppm)より高かったことが無理なく説明できます。 (*2)1964年7月9日に泰平橋下左河川敷に野積みした水銀系農薬紙袋が洪水によって下山・津島屋河岸域(下山および津島屋地区を区切る通船川河口岸から200 m離れた中州)に流失、漂着、および数か月間滞留し、その後、阿賀野川の流れで日本海に流出するまでの間が短期濃厚汚染時期と考えます;詳しくは最後の段落に記します。

鹿瀬女性HairHg最小値 80 ppmと記録されています。彼女が摂食した川魚は夫の釣果とのことですが、夫は余り食べなかったそうです。夫のHairHgは三度測定されていますが、108 → 75 → 5 ppmと計測の度に低下しています。測定に関わる記録(実験ノート)がないので真実は分かりませんが、男性なので短髪であり、途中で散髪が入れば過去のHg曝露記録は失われます。彼女の最小値である80 ppm(MeHg中毒の閾値程度の曝露状態)は、聞き取り調査によって彼女の川魚摂取期間外であったと記録されています。1964年・65年共に、1月から3・4か月連続しています。したがって、その80 ppmは、妻の外部曝露(農薬を被った)分である可能性を否定できません。すなわち、夫の内部曝露(川魚摂取)量は外部曝露量を除いた28(108ー80)ppmであり、散髪の都度、外部曝露記録分(頭髪の生え際から遠い部分)の消失(切り取り・散髪)によって75 ppm および 5 ppm(川魚の摂食が無かった時期に対応したHairHg 濃度)として測定された可能性は十分あると考えます。実際、彼女の頭髪総水銀濃度の最小値が80 ppmであったにもかかわらず、当時、彼女に水俣病症状がなかったという疑問を、何れの研究者もあえて説明していません。通年的にHairHg・80ppm以上のMeHg曝露でMeHg中毒しないと説明することになるのではないでしょうか(*3)。自宅でブドウを栽培していたこの女性の80 ppm分が水銀系農薬を被った(外部曝露による)ものであれば、一時的に高い内部曝露量 70 ppm(150ー80) or 120 ppm(200ー80)では急性・亜急性の発症が無かったことを説明できそうです。 (*3)この女性は最終的には水俣病と認定されましたが、HairHg測定当時は水俣病でないと診断されました ⇒ 急性・亜急性発症はしていなかったので水俣病でないと診断.......その後、(遅発性水俣病として)認定されました。遅発性発症の本態は慢性発症であると考えています=毎年夏季に限定されたHairHg濃度で70~120ppmのMeHg曝露を受けたことによるMeHgの長期反復高濃度曝露 ⇒ 彼女のHairHg濃度の時間分布は誠にもって正しい曝露記録と認識できます; ところで、阿賀野川下流域では妊娠可能年齢の女性のHairHgのモニタリングが行われ、50 ppm以上の方には妊娠中であれば中絶を、それ以外の方には妊娠しないように指導しました ⇔ 新潟の胎児性患者は1人ということになっています ⇔ 行政は調査・指導の成果だと言います。

下流域住民のHairHgの時間分布からは、新潟地震(64/6/16)後間もなく急激なHairHgの上昇が見られています。その上昇月(時期)に下山/一日市の地域差はありません。下山/一日市ともに、それまでより高いレベルのMeHgに曝露され始めた時期は同じであることを説明するものだと思います。極大値(最大値)の地域(2.5 - 3 ㎞)差は下流域で高濃度のMeHgに曝露された川魚の生息地の移動(遡上)で説明できます。また、患者の初発は下山地区なので、最高レベルのMeHg負荷源は下山流域に在ったことになります。  【環境汚染の大原則】:汚染物質が最初に環境と接する処が最も汚染される ⇒ 例えば;熊本水俣病では先ず百間排水口・百間港が汚染された ⇒ 漁船船底の付着物除去に利用した ⇒ 工場廃液中MeHgで、着生したカキやフジツボを死滅させ、さらに新たなそれらの着生を予防した ⇔ 百閒排水口・百閒港(その地汚染源地)で生態系の異常初発した ⇔⇔ 新潟水俣病事件で昭電鹿瀬の工場廃液が阿賀野川全流域に対する主たるMeHg汚染源であるならば ⇔ 昭電鹿瀬工場排水口と最初に接する阿賀野川(河川水・底質)が高濃度に汚染される ⇔ その地(鹿瀬工場排水口)生態系の異常初発する???......そのような報告無い........【政府見解の正当性を主張するならば、環境汚染の大原則が間違いであるという科学的根拠が必要だと思います】

下流域・短期濃厚メチル水銀汚染源は!?!】 ⇒ 新潟地震・津波(64年6月16日)の被害で新潟港・桟橋は使用困難になりましたが、倉庫群への被害は軽微でした。すなわち、稲イモチ病対策用の大量の水銀系農薬を山形・秋田・青森(東北三県)へ海上輸送するために新潟港倉庫群に一時保管されていましたが、津波海水に侵されたのは少量でした。東北三県における稲イモチ病発生時期(7月下旬から)が近づいており、桟橋が使えないことで、緊急的に倉庫群の水銀系農薬の海上輸送に替えて陸上輸送が図られました。ところが、阿賀野川に架かる橋で震災を受けなかったのは唯一『泰平橋(河口から5㎞)』であり(竣工から程ない昭和大橋・信濃川の落橋は余りに有名な事実)、新潟港から直接東北三県へのトラック輸送は困難でした。とくに、震災直後の新潟市内の交通事情は混乱していたので、新潟港 → 泰平橋下左岸河川敷(野積み)→ 山形・秋田・青森の連携で陸上輸送を実施しました。しかし、7月3~9日に大雨となり、7/9には泰平橋下左岸河川敷の野積み紙袋入り水銀系農薬がすっかり流失したとのことです。阿賀野川下流域の急性・亜急性患者は、泰平橋より下流①16人上流②10人発生しましたが、下流①では左岸偏在し(16/16人)、上流②では右岸偏在しています(8/10人)。泰平橋下左岸河川敷に野積みした紙袋入り水銀系農薬の洪水による流失・滞留(通船川河口から200 mの下山・津島屋地区河岸域/中州と考えられる)が短期濃厚MeHg汚染発生源とすれば、これらの急性・亜急性患者の地理分布の偏りは、川魚の生態の実態を通して矛盾なく説明できると考えています。

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