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生態系の異常から知る熊本水俣病と新潟水俣病の違い

2015年1月17日(既投稿)-再掲・訂正&「加筆・追記」

熊本水俣病(以下、熊本と表記)における生態系の異常の歴史を通して、「公害は食物連鎖による生物濃縮がその基盤的システム」とされています。「しかし、現在、哺乳類を除く水棲動物のメチル水銀の生物濃縮は経口・経腸(食物連鎖)に加えて経鰓の濃縮経路が存在するという認識です。確かに分子の大きい有機物を鰓経由で血液に取り込むことはないでしょう。しかし、遡上魚では海水下および淡水下で鰓の塩類に対する代謝を変える(海水中では塩類吸収を止め、淡水では積極的に塩類を取り込む)ことで、それぞれの環境で生存・活動可能になります。メチル水銀(CH3Hg)は有機物なので鰓は塩類として認識しないでしょう。しかし、鰓に集まった赤血球分子内のシステイン-システインのS-S結合にS-CH3-Hg-Sとして結合・取り込まれると考えられます。1963年8月(昭電鹿瀬工場操業中&イモチ病対策の水銀系農薬散布時期)に阿賀野川中・上流域の①石戸(河口から41km)・②佐取(37km)・③新郷家(24km)で採集された魚齢3-4か月の幼魚(ウグイ;主に水生昆虫を食むが雑食性・オイカワ;草食性の強い雑食性)の総濃度が①;7.5ppm・5.8ppm,②;5.2ppm・6.2ppm,③;4.6ppm・5.9ppmという例(水俣病,pp217,青林舎,1979)を食物連鎖による生物濃縮では説明できません。ここでは、この鰓経由の生物濃縮はひとまず棚上げして次に進むことにします。」

熊本のメチル水銀汚染レベルの歴史は、①1950~漁師達が競って、チッソの百間排水口(百間港)に漁船の繋留をしたことに始まり(船底にフジツボ等が付着しないので船足確保に有利)、②1952~排水口周辺で多数の浮魚の発生(これは、海岸がメチル水銀汚染というより有機物の腐敗などで酸欠状態であったと考えられます)、③1952~水俣湾内の排水口に比較的近い海岸で二枚貝が育たず、口を開けた状態で腐った(懸濁物食の動物=低次動物への影響,口の開いた二枚貝を食べたカラスが飛行中に落下することも観察されています⇒正に、飛べない=筋力低下というMeHg中毒症状です)、④1953~水俣湾に飛来した冬鳥をトリモチで捕獲できた(筋力低下で飛び立てない⇒正に、メチル水銀中毒症状です)、⑤1953年8月、ネズミが大繁殖した(実はネコがほぼ全滅した=原田正純医師の記録では74匹死/121匹飼育)、と記されています。

①~⑤はMeHg汚染における世間の常識である食物連鎖の例として語り継がれています。しかし、食物連鎖の低次から高次へと正しく連続していません。③二枚貝(一次消費者)よりも②魚(数次消費者を含む)が先に発生しています。②の原因が食物連鎖ではなく酸欠であることの説明として成立します。ネズミの大繁殖に関しても、大繁殖したのはクマネズミです。ドブネズミでなかったという記事は見当たりません。クマネズミ(漁網の被害が甚大だったので大騒ぎした=当時、家ネコはネズミ退治のために飼育しており、餌はとくに与えていません)が大繁殖し、ネコが狂死したのであれば、食物連鎖に逆行する生態系の異常になります。

しかし、ネコの食餌がクマネズミではなく魚であれば、食物連鎖に沿っていることになります。後々には、ネコ狂死がメチル水銀の濃厚汚染の指標とされています。それでも、全滅するほどのネコ狂死は水俣湾沿岸だけであり、八代海の島々や出水、芦北では全滅するほどではありませんでした。

すなわち、ネコの狂死数/飼育数の分布を比較すれば、メチル水銀汚染の実態(最も汚染の酷い場所=汚染源の発生場所)を特定することができるかもしれません。ただし、ネコは、ヒグマのように積極的に漁労はしないでしょうから、ネコ狂死の初発地が汚染源の発生地であるとは特定しにくいと思います。単発的なネコ狂死は1937年、1942年、および1949年にも発生したという記録が残っています。水俣で急性・劇症患者が発生したのが1953年、すなわちネコとヒトが魚食という点では同じ食物連鎖レベルであることを示しています。高次消費者としての哺乳類のメチル水銀中毒では、正に食物連鎖だけで説明できるようです。

ネコが全滅するほど被害が大きかったのはネコにとってタウリン摂取が必須であり(カツブシは単に好物だから飛びつくのではなく、視力維持のための必須栄養素であるタウリン確保のための優良な食餌だから)、水俣湾沿岸で最も手軽なタウリン獲得法は、動き回るネズミを捕えることではなく、煮干しつくりのために干した動かないカタクチイワシを失敬することだったということでしょう。

熊大でネコ発症実験が多数例、行われました。しかし、水俣から連日、熊大に送られた水俣湾の魚を食べさせたにもかかわらず成功しませんでした。

ネコ発症実験は、水俣保健所長がヒバリガイモドキや煮干しを食餌として初めて成功しました(7匹中5匹が発症)。「一次消費者(この場合、ヒバリガイモドキやカタクチイワシ=煮干し)を食餌とすることが発症の決め手であると指摘したいと思います。煮干し(一次消費者)を食べたネコが発症することを熊大研究者が把握しておれば、ネコの食餌確保も容易だったでしょう。水俣湾での漁が徒に終わったのはシャレにもなりません。熊大研究者は水俣湾沿岸住民に多数の元気なネコを預け、その発症の一部始終の報告を求めています。預けられたネコ達は自由摂食でしたので、干したカタクチイワシを失敬したことでしょう。全ての預けられたネコが発症したそうです。熊大研究者(医師)のネコ発症の一部始終への関心は高かったことでしょう。しかし、ネコの預かり先の住民の健康状態に関心を持たなかったようです。研究者にとって住民の健康よりもネコの発症の方が大事だったとは、情けない話です。住民が一見すると元気だったのかもしれません。しかし、ネコが発症したのですから、住民のメチル水銀曝露量は尋常ではなかったと思われます。飼い猫の発症という項目が水俣病認定の疫学条件に含まれても良いように思います。」

一方、新潟水俣病(以下、新潟)では、急性水俣病患者の初発が1964年8月であり、ネコ狂死の連続発生もまた同年8月からです。したがって、新潟は低次消費者の異常を経験することなく高次消費者レベルで突然のようにメチル水銀中毒が発生しています。

これが、私の熊本と新潟ではメチル水銀汚染源が異なるという発想に繋がっています。新潟の急性・亜急性患者1965年7月までに発症した26人に過ぎません。この26人は阿賀野川左岸(日本海を見て)の河口から1.5~6 kmの16人と右岸の河口から5~8 kmの8人です。昭和電工鹿瀬工場は河口から65 kmの上流で操業していました。残りの650人を超える認定患者(2015年12月末日時点で、総数で704人、阿賀野川中上流域の住民は174人)の多くは、熊本・鹿児島で申請すれば認定されていないかもしれません。ほとんどが比較的軽い慢性中毒患者【*1】です。*1;昭電鹿瀬工場の操業中止後に発症したとして、当初、遅発性患者と呼ばれた。MeHg中毒の閾値を超える曝露によって直ぐには発症せず、閾値超えから数年後(追加のMeHg曝露が無い⇔操業中止によって工場廃液由来のMeHgの曝露は有り得ない)に発症したという、中毒学でいう量反応関係が成立しない中毒様式です。】

新潟におけるネコの狂死の報告は1965年5月で途切れており、その後の統計データはありません。八代海においては長島・獅子島・御所浦島で1959年夏にネコ狂死が集中しています。出水での報告は1959年8月です。このあたりのカタクチイワシの漁期(&水銀系農薬の散布期)に一致しているのでメチル水銀中毒における量・反応関係(因果関係のクライテリアにおける関連の強固性)を示していると思います。河川と内湾という地理条件は異なっていますが、メチル水銀中毒は魚の摂取を通じて発生しているので、ヒトでの発症は漁獲規制によって収束に向かうでしょうが、それまで魚を食べていたネコが突然、ネズミを食べるようになるとは考えられません。にもかかわらず、熊本でも新潟(とくに新潟)でもネコ狂死が途絶えています。新潟で発見された26人の急性・亜急性患者はメチル水銀の短期濃厚汚染(すなわち、昭電鹿瀬の工場廃液を汚染源とする長期連続汚染ではない)と考えるのが妥当でしょう。

新潟の慢性患者の発症のピークは1970年です。何と、熊本・鹿児島の慢性患者発生のピークも1969・70年です(因果関係のクライテリアにおける関連の特異性の一致)。ネコ狂死は熊本・新潟共に1970年ごろの報告はありません。「ネコは慢性発症しないのでしょうか。そうであれば、ネコ狂死の発生は急性・亜急性水俣病患者発生の前触れ・信号と言えそうです。新潟では、阿賀野川中・上流域でのネコ狂死は報告されていません。ネコ狂死を伴い1964年8月~翌年7月までに急性・亜急性発症した阿賀野川下流域の26人の水俣病患者のメチル水銀汚染源が、中・上流域の慢性発症患者のそれらと同一とは考え難いです。」 昭和電工は1965年1月、チッソは1968年5月に無機水銀を触媒としたアセチレンからのアセトアルデヒド生産を中止しています。「水俣も新潟もアセトアルデヒド生産工場の廃液をメチル水銀汚染源とする公害、というのが世界標準の認識(世間の常識)です。しかし、1953~1960年とされている水俣での急性・亜急性発症も(水俣病,pp185,青林舎,1979)、それ以降の慢性発症の大部分もチッソのアセトアルデヒド生産中でした。しかし、新潟では、昭電鹿瀬の操業中に10人、中止後半年間に16人が急性・亜急性発症しましたが、全ての慢性水俣病患者は昭電鹿瀬の操業中止後に発症しました。水俣と新潟の一致点はアセトアルデヒド工場が在ったということだけのようです。両者を同じ公害で括れるのでしょうか。誰も疑問に思わなかった・思っていないという歴史が続いています。」

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