我が国におけるメチル水銀汚染
メチル水銀汚染関連
水俣病関連

我が国におけるメチル水銀汚染


我が国におけるメチル水銀汚染-序章

1973年5月22日、八代海と対峙しない海岸線の熊本県有明町(天草上島・現天草市有明町)で第三の水俣病が発生しているという報道がありました(朝日新聞,1973.5.22)。1971.7に発足していた環境庁にとって初めて、その存在を誇示できる機会を得たのです。しかし、魚介類の漁獲・販売を規制するという(暫定)基準は、それまでの公害を取り仕切っていた厚生省が改訂しました。総水銀濃度0.4 ppm超、同時にメチル水銀濃度0.3 ppm超の魚介類が規制されるという基準ですが、半世紀近く経過してもこれらの数値の変更はありません。人体の安全(健康)を重視して定めた値であり、行政としては相当に勇気を奮ったと評価できるでしょう。

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環境庁は、その暫定基準の下で水銀使用工場のある全国10県の9海域での魚介類、および全国の水揚げ魚介類と指定河川の川魚と底質土の水銀調査(総点検)の実施を関係機関(自治体)に求めました。

全国10県9海域(沿岸に水銀を使用する事業所がある)における第一次調査(正に第三の水俣病の発生の有無が念頭にある)では340検体(目標検体数の約3%)の測定段階で、熊本県(水俣湾;チッソ)と山口県(徳山湾;東洋曹達・徳山曹達→クロルアルカリ工場=水銀法電解による苛性ソーダ製造)を除く7海域の魚介類水銀濃度は暫定基準値以下でした(毎日新聞,’73.7.24)。また、その3週間後には1,012検体の測定を済ませ、暫定基準超えは総水銀で3検体、メチル水銀で無検体(同時の基準超でないので規制されない)との報告でした(毎日新聞,’73.8.14)。これを受けて、沿岸にクロルアルカリ工場のある富山湾の富山(鉄興社),氷見(日本合成・東亜合成),および魚津(日本カーバイド)の3海域,新居浜(東亜合成),水島(住友化学・関東電化・水島有機・岡山化成),酒田港(日新電化・鉄興社),有明海(三井東圧化学)およびチッソの外海である熊本県八代海(何故か出水沖の八代海は調査対象外)の7海域は安全としました。一方で水俣湾および徳山湾は漁獲規制の対象となりました(朝日新聞,’73.11.10)。何と、’68年5月のアセトアルデヒド工場生産中止後から’73年11月までの水俣湾は漁獲規制されていなかったのです。

一方、全国水揚げ魚介類と指定河川の川魚の水銀総点検では、新潟県関川河口の直江津地先海域、および鹿児島湾奥の魚介類の各水銀濃度が暫定基準を超えていたことから漁獲が規制されました(朝日新聞,’74.9.6)。なお、規制対象外である川魚では、全国17河川・水路の116検体の中、40検体(34.5%)で総水銀(規制対象外なのでメチル水銀測定はしていません)の暫定基準を超えていました(環境白書,環境庁,1974)。

漁獲が規制された4海域のメチル水銀汚染への対応策を記します。1)徳山湾;15 ppm以上の二つのカセイソーダ工場由来とされる水銀を含んだ海底質の浚渫と埋立て(‘75年7月着工、‘77年3月竣工)が行われました。2)水俣湾;湾内魚類の湾外への移動を抑制するための仕切り網を設置し(‘77年10月)、加えて25 ppm以上の水銀を含む海底質の浚渫と埋立て(‘77年10月着工、‘90年3月竣工)が行われました。徳山湾でも水俣湾でも魚介類の水銀モニタリングが行われました。その結果、徳山湾の漁獲規制は、’79年10月から一部解除され、’83年12月にクロダイを最後に全て解除されました。水俣湾の魚介類は、’94.10月に国が定めた暫定基準を下回ったことで、’97.7月に安全宣言、同年10月に仕切網撤去、そして漁業も再開されました。

徳山湾と水俣湾のメチル水銀汚染源は調査して特定したのではなく、のっけから「公害」と決定していたのですから、工場の操業中止(あるいは完全循環式排水の採用)後、一定時限経過すれば、漁獲規制は解除できるのではないでしょうか。浚渫・埋立て工事に徳山湾では1年8か月、水俣湾では13年5か月掛かっています。比較できないほど工事は水俣湾の方が大規模です。

しかし、’73年に報告された魚介類のメチル水銀レベルに差はありませんでした(徳山湾;平均0.51ppm,min-max 0.36-0.60ppm,5種類,水俣湾;0.48ppm,0.35-0.67ppm,5種類)。徳山湾は水俣湾の約15倍の表面積です。水深は比較していませんが、底質の水銀量を浚渫した底質の水銀濃度と浚渫期間から推定すれば、水俣湾が徳山湾の20倍を超えていたでしょう。底質水銀含有土を浚渫したのは、それがメチル水銀汚染源であるということです。したがって、水俣湾は徳山湾の300倍のメチル水銀負荷を受けながら、魚介類のメチル水銀レベルは両者同等です。誰ひとり問題にしていません。全く定量的な観点が抜けています。Dose response relationship を無視するのは、震度5などというレベル分けに意味はない、と言うようなものではないでしょうか……。徳山湾の問題はいずれ記すつもりです。

4つの海域のメチル水銀汚染に戻ります。

3)鹿児島湾奥には沿岸に水銀使用工場が無いことから、桜島の海底火山活動による自然由来の水銀汚染という予断の下で調査が進み、予断通り、桜島海底火山が最も疑われると暫定的に報告されました。4)直江津地先および関川流域については、当初、関川流域に在った水銀使用の工場群(信越化学・日本曹達・電気化学の3クロルアルカリ工場および大日本セルロイド;アセトアルデヒド工場)が疑われました。しかし、その後、鹿児島湾奥の自然汚染を受けて、焼山・妙高山に由来する火山性自然汚染と改めて報告されました。

鹿児島湾魚介類の水銀モニタリングは2003年で中止されました。中止の理由は明らかにされていませんが、鹿児島県の財政の問題と思われます。鹿児島湾のメチル水銀汚染魚(タチウオ,キアマダイ,ソコイトヨリ,アナゴ,マアジ,オオメハタ,アオリイカ,アカカマス,ヤガタイサキ,マゴチ)の漁獲の自主規制は自然汚染なので解除出来ないと言っています。一方、’73年から続いた直江津地先のメチル水銀汚染魚(イシモチ,カナガシラ,カナド,マガレイ,およびアカムツ)の漁獲の自主規制は、2000年から3年間暫定的規制値を超える魚が検出されなかったことで、イシモチを最後に2003年に解除されています。水銀モニタリングも中止しています。関川流域の川魚の水銀モニタリングは現在も続けられていると思われます(2015年までは報告あり)。水銀モニタリングの結果を基に、漁獲規制流域は、その都度、解除されています。近年、流域で複数の暫定基準超の検体が報告されています。火山性自然汚染が進んでいるとは報告していません。ここでも、量反応関係は無視されています。

第三の水俣病問題から発展したメチル水銀汚染魚の問題はここに挙げた4海域です。しかし、全国には多数の水銀汚染が報告されており、海生研OB会HPを通して、徐々に明らかにします。次回は関川流域について記述します。

公開日 2017年9月11日作成者 tetuando


第一章 関川流域(直江津地先)

全国(都道府県単位として発令)における水揚げ魚介類の水銀調査によってメチル水銀汚染魚が見つかったのは、前回の記述のように直江津地先と鹿児島湾奥の2水域です。全国でこの2水域だけがメチル水銀に汚染されていたと短絡した・させたのは、各自治体の姿勢だと思います。実際に、全国各地で少数の暫定的基準値を超える魚体が散在しました。その為か、全国各地からの入荷が主体の東京都では、それなりの多数の魚種・魚体の汚染魚がありました。しかし、それらの汚染魚が東京湾からの水揚げでない・回遊魚・深海魚・マグロ類などという抜け道を用いて、東京湾の調査もせずに、汚染していないと判断しました。東京都の方法を用いることで、全国各地には汚染問題が無かったと一方的に判断したに過ぎません。

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関川河口先の直江津地先および鹿児島湾奥では汚染魚の存在が否定出来ませんでした。両水域ともにメチル水銀汚染魚の産地が地元であると特定されたことで、東京都手法での誤魔化しが効かなかったのはもちろんです。しかし、直江津は新潟県であり、県民感情を考慮すると、「公害」でないことを明らかにするべきとの判断だったと思われます。実際に、関川流域の3域には水銀使用工場が稼働していました。逆に、鹿児島湾奥には水銀を使用する事業所はありません。鹿児島湾奥には多数の温泉があります。それに、当時、国分では天然ガスを採掘していました。温泉水・火山ガスに水銀が含まれていることは、温泉水の成分を分析する保健所職員にとっては特殊な知識ではありません。したがって、鹿児島県は、単純に「火山説」に行きついたのだと思います。

さて、今回は、直江津地先と関川流域のメチル水銀汚染魚について記します。

全国の水揚げ魚介類の水銀調査で明らかになったのは直江津地先のメチル水銀汚染であって、関川流域のそれらは、新潟水俣病問題の勃発!?(1965.5.30;昭電鹿瀬工場,‘65年1月操業中止)を受けて燻っていました。

青木は、昭和41、42、43年度の厚生省の公害調査委託研究費を獲得し、‘66年6月、10月および12月に新潟県で操業中だった二か所のアセトアルデヒド生産工場の廃液および周辺底質・河川水の水銀調査をしています(水銀による環境汚染に関する研究 第1報,536-545,24,日衛誌,1970)。電気化学青海工場(旧青海町・現糸魚川市青海;‘68年5月操業中止)とダイセル新井工場(旧新井市・現妙高市;‘68年3月操業中止)です。後者に関川中流域の渋江川への排水口が在りました。操業中のアセトアルデヒド工場廃液の水銀調査という貴重なものです。阿賀野川関連の調査の全てが昭電鹿瀬工場の操業中止後に行われたことは無視されがちです。

青木の3回の調査によると青海工場の廃液に総水銀(メチル水銀)で2.72(0.76),2.88(0.93),2.70(0.84)ppmを検出しています。しかし、3か所の排水口の泥中には総水銀として37.5,58.8,303 ppmを検出していますが、メチル水銀濃度はそれぞれNDと記しています。また、新井工場の廃液に総水銀(メチル水銀)で3.37(0.26),3.21(0.77),2.30(0.10)ppmを検出しています。チッソ水俣工場の廃液中メチル水銀濃度は70 ppmとされています。実測値ではなく実験値です。総水銀濃度の報告は見たことがありません。

1958年のアセトアルデヒド年間生産量は、青海5300㌧、新井14400㌧、鹿瀬6200㌧、水俣19400㌧でした。生産規模と廃液メチル水銀濃度から推測できる青海や新井のメチル水銀排出量でメチル水銀中毒問題が起こる可能性は低い、と&oは考えます。一方、鹿瀬工場が水俣工場と同量のメチル水銀をたれ流したというのであれば、その廃液中メチル水銀濃度は210 ppmと算出できます。有り得ない数値です。流域の水力発電量が全国3位(木曽川・信濃川に次ぐ)であるように阿賀野川の水量は極めて豊富です。しかし、水俣湾・八代海の海水量とは比較にならないほど少量です。有り得ない210 ppmの数十倍濃度の廃液中メチル水銀濃度だったと言うのでしょうか。Hg2+は触媒となりますが、CH3Hg+ではアセチレン加水反応が滞りそうです。鹿瀬工場の廃液が阿賀野川流域のメチル水銀汚染源でないことの証拠とさえ言えると思います。

青海工場は青海川河口・日本海から900mに立地していました。青海工場では、工場廃液は、沈殿処理し、スラリーをセメント製造に、上澄み液をセメント用水に使用し、直接、青海川へ排出しない工夫をしています。ただし、スラリーの総水銀(メチル水銀)濃度が8.82(ND) ppmで、製品としてのセメントのそれらが4.40(ND) ppmと計測されたことから、セメント生成時の燃焼工程で、4.42 ppm分のHgが大気中に拡散したと説明しています。廃液中のメチル水銀(0.76~0.93 ppm)についての記述はありません。

底質の総水銀濃度は、工場排水口で最も河口に近い相生町排水口(河口から700m)で20.0 ppm、河口から200 mの青海橋で47.5 ppmです。一方、工場から上流1.5 km の御幸橋で2.74 ppm、6 kmの真砂橋で2.88 ppmです。工場廃液は工場から1.5~6 km上流の御幸橋・真砂橋の底質のHg源ではありません。また、青海工場廃液が北東40 km先の直江津地先のメチル水銀汚染源であった可能性は無いでしょう。

新井工場は関川河口(日本海)から17 km上流の渋江川沿いに在り、そこから2.1 km下流が関川との合流地点です。青木が記した底質採集地の正確な位置はYahooの地図では確認できませんが、合流地点の川幅は分かります。関川が65 m、渋江川が30 mです。底質の総水銀濃度は、工場より200 m上流の渋江橋で5.28 ppm、関川との合流地より50 m上流の渋江川(工場よりほぼ2 km下流;川幅25 m)で21.9 ppm、合流地より関川上流の関川橋(位置は分からない)で6.37 ppm、合流地より2 km下流(関川)の東本島で4.13 ppm、さらに下流の島田橋(位置不明)で4.93 ppmです。

川幅を考慮すると関川との合流地点より手前50 mの底質のHg源は、関川由来ではなく、渋江川由来のHgが堆積したものと特定できるでしょう。また、工場より200 m上流に位置する渋江橋底質のHg源は、工場廃液ではありません。河口から17 km上流に位置し、2 km下流で関川に合流する渋江川の河川水が、工場から200 mという短距離といえども遡上できるとは地勢上、考えられません。関川橋の6.37 ppmのHg源が、新井工場付近から20 km上流の白田切川の火山性水銀である可能性は確かに否定できません。では、白田切川の流れが入らない渋江橋の5.28 ppmは何処から来たのでしょう。関川下流域の上越市、中流域の妙高市は、正に上越地方であり、大稲作地帯です。Hg源が水銀系農薬であるか否かを一度も検討していないという不作為の作為がプンプン臭います。

青木は、結論としてそれぞれのアセトアルデヒド工場廃液が無視できない量のメチル水銀を含んでいるが、調査時の状況は、(巧みな)廃水処理によって排出を抑制出来ていると述べています。確かに、この記述はセメント製造に使用した青海工場には対応しています。また、考察では、河口から900 mの青海工場からの廃液はすぐに日本海に出ること、さらに、廃液が、浅い水俣湾と違って深い日本海の潮流で希釈されることで(水俣病)問題が起きなかったのだろうとしています。

一方、新井工場では廃液排出量が720m3/dayであり、測定された廃液中平均メチル水銀濃度0.38 ppmから、340 g/day→124 kg/yrという大量のメチル水銀が、往時の不完全な処理設備下で放流されていたはずであると、さらに、このことで非常に恐怖を感ぜざるを得ない、と記しています。しかし、渋江川周辺住民に川魚を多食する習慣がないという好条件があったことで、(水俣病)問題が起らなかったのだろうとしています。なお、西村は水俣工場における排出メチル水銀量は最大量であった1959年で117kg/yr(廃液中70 ppm)と報告しています(水俣病の科学,pp187,日本評論社,2001)。

調査・研究において、得られた結果の考察は研究者の裁量であることは紛れもないことです。ただ、厚生省からの委託だったこの研究の最大の目的は、アセトアルデヒド生産工場の廃液にメチル水銀が大量に含まれていることを示すことだったように思えてしまいます。昭電鹿瀬工場は新潟水俣病問題が報道される5か月前に操業を中止しています。したがって、鹿瀬の工場廃液のメチル水銀濃度は測定されていません。委託研究では、鹿瀬の廃液にもメチル水銀が含まれていたとの印象付けのため、操業中の2つの工場廃液中のメチル水銀の検出が求められていたのだと思います。厚生省はこの青木の報告にほくそ笑んだことでしょう。

2つの工場の廃液中のメチル水銀濃度を提示したに止まることなく、さらに、問題量でないにもかかわらず、水俣病問題が起こるレベルだと言い、恐怖感を持ったとさえ言及しています。また、丁寧に、2つの工場廃液で水俣病問題が発生しなかった理由を、発生の背景として、川魚の多食、広大な流域、閉鎖的で浅海の内湾を挙げ、2工場の立地条件がこれらを満たさなかったからだと考察しています。発生しなかったのではなく、当時の住民の心配事として、『水俣病に罹っているかもしれない』という意識がなかっただけだと思います。

ところが、1973年5月22日の有明海第三水俣病問題の報道を契機に、水俣病患者の掘り起しが水俣病患者を支援する医師の下で行われました。関川流域には水俣病を疑われた者が16人います。青海町住民にはいません。斎藤は、16人のうち、8人は4人ずつの2家族であり、その2世帯では飼い猫の狂死・ニワトリの異常死があったと報告しています(新潟水俣病,pp318,毎日新聞社,1996)。青木と斎藤の報告を合わせて読み解けば、関川第五水俣病問題はダイセルの廃液による公害であったと結論されるのではないでしょうか。

今回は、直江津地先・関川流域について報告する予定でしたが、青木の報告の吟味で疲れてしまいました。続きは次に回します。

□2017年9月18日 □作成者 tetuando

第一章 関川流域・米どころ(関川第五水俣病)

全国に点在したメチル水銀汚染について記そうと書き始めましたが、遅々として進まず、まだ第一章・関川流域に止まっています。全国に共通するメチル水銀汚染源として稲作におけるイモチ病対策に大量散布された「セレサン石灰;酢酸フェニル水銀系農薬」が考えられます。ここまでの世間の常識に照らせば、共通するメチル水銀汚染源は工場廃液です。水銀を触媒としてアセチレンの水添加反応でアセトアルデヒドを生産すれば、反応液中でメチル水銀が副生することは確認されています。当時の関川流域の渋江川には、ダイセル新井工場でアセトアルデヒドを、日本曹達二本木工場で苛性ソーダを、また関川河口に流入する保倉川には、信越化学直江津工場で苛性ソーダを、それぞれ工程に水銀を使って生産していました。関川流域で「公害」が発生しているだろうと注目されました。

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前回の関川流域のメチル水銀汚染については、青木弘氏が昭和41、42、43年度の厚生省の公害調査委託研究費による1966年6月、10月および12月に新潟県で操業中だった二か所のアセトアルデヒド生産工場(電気化学青海工場・ダイセル新井工場)の廃液および周辺底質・河川水の水銀調査について記述しています。青木氏の結論は、二工場(とくに新井工場は)ともに無視できないメチル水銀を流出させたとしています。水俣病問題に発展しなかった理由として、前者は工場廃液のスラリーを再利用(セメント添加)によって適切に処理したことに加え、潮流が大きく水深のある日本海に排水されたことを挙げています。後者は、渋江川流域住民に川魚を多食する習慣がなかったからとしています。流域がメチル水銀に汚染されなかったとは結論していません。しかし、現時点における関川流域の川魚のメチル水銀汚染源は、関川源流の白田切川からの火山性水銀となっています。科学的な証明が為されている訳ではありません。科学的に調査をしても、結果の多くが定性的に考察されてしまいます。実際、この定性的な考察が間違っていないことを担保に、結論としては定量(多数決)的な評価に収めるのが通例になっていると思います。

今回は、関川流域の河底質および川魚類の総水銀レベルの過去10~30年余に亘る経年変動を上越市の環境に関する年次報告と、過去の論文報告等を資料として統計学(定量)的に検討したいと思います。とくに、これまでの調査・研究で駆使された定性的結果と、それから導かれた定量的結論の問題点を明らかにしたいと思います。

先に、青木は、関川(渋江川)流域で操業していたアセトアルデヒド生産工場(‘68年3月操業中止)に関連の河川底質の‘66年6月、10月および12月の総水銀濃度を報告しています(水銀による環境汚染に関する研究 – Hg Series No. 12 – 第1報化学工場内外の排水中水銀量と河川への汚染について,536-545,24,日衛誌,1970;2017. 9. 18に当HPに既投稿)。また、上越市の環境情報センターが年次毎に関川流域の底質総水銀濃度を報告しています。これまでは、上越市の環境調査の年次報告は、上越市のHPから時を遡っても閲覧・確認することが可能でした。しかし、2013年度からの関川流域環境は、妙高市が報告する最近の報告書だけの閲覧になりました。上越市の過去の報告書は閲覧出来なくなりました。

青木の調査/研究は、「公害」を確認するのが目的でしたので、工場排水口および廃液の行先の環境測定に終始しています。一部、排水口よりもかなり上流域も対象にし、排水口より十分、低い値を得ています(後述します)。しかし、その結果に疑問を持つことはありませんでした。自治体(上越市・妙高市)の報告は、モニタリングの公表という機能が主旨であり、メチル水銀汚染源とされている白田切川の火山性水銀の環境における動向を検討することなど微塵にも考えていないようです。そのような調査/研究・報告から何かしら「関川流域のメチル水銀汚染源」に関する情報を得ようと思います。

1982年から2015年の工場排水口関連の総水銀モニタリングデータがあります。底質の採取地は、白田切川 (白田切橋)、渋江川(日曹西ヶ窪排水口直下)、渋江川(ダイセル化学排水口直下)、関川(日本曹達東木島排水口直下)および保倉川(信越化学排水口直下;関川への流入地より上流)です。工場排水口群の底質は1973年から採取されていますが、白田切川のそれらの採取が1982年からなので、今回の解析は1982年からの33年間(34回)ということです。

まず、底質の総水銀幾何平均濃度,95%信頼区間(ppm)を列記します。白田切橋; 3.35, [2.82 – 3.99]、日曹西ヶ窪;0.19,[0.15 – 0.25]、ダイセル化学;0.24,[0.14 – 0.39]、日本曹達東木島;0.17,[0.14 – 0.22])および信越化学;0.08,[0.05 – 0.13]です。火山性水銀は最上流の白田切川から流下するのですから、白田切橋の底質THgが他4地点の数十倍程度であることは、それだけで汚染源でない証拠だと思います。水俣百間排水口は2010 ppm(1959年)、阿賀野川鹿瀬排水口は30 ppm(1975年)でした。このような比較をする研究者は皆無ですが、何故々々坊やの真骨頂です。鹿瀬工場の廃液がメチル水銀汚染源である可能性も低いのではないでしょうか。

青木は4つの排水口のうち日曹東木島およびダイセル化学の二か所の底質THgを、それぞれ4.13 ppmおよび226 ppmと報告しています。測定年は1966年なので、両工場ともに操業中です。二つの工場廃液が多少とも水銀を含んでいたことを説明しています。ところで、貴重なデータがあります(前述のものです)。ダイセル化学の排水口より200m上流地点(渋江川;関川に注ぐ支流・白田切川からの直接の流入はない)の底質で5.28 ppmの THgを検出しています。測定した時期は異なりますが白田切橋のTHgの信頼区間上限の3.99 ppmを超えています。青木は、「公害」の可能性を論じるのが目的でしたので、226 ppmに比べればかなりの低値が200m上流域で検出されたことの奇妙さに何の疑問も持たなかったのでしょう。冷静になって工場廃液以外の水銀負荷源があると気付くべきだったでしょう。このダイセル化学の排水口より200m上流の底質の5.28ppmがダイセル化学の工場廃液由来ではないことは明らかです。また、白田切川からの火山性水銀でないことも明らかです。だからといって農薬由来であるという証拠はありません。1966年は水銀系農薬の使用量の最大年です。

さて、1982年からの33年間の排水口水銀と白田切川の水銀との動向を重回帰分析で解析しました。4か所の排水口の底質総水銀濃度の対数値が従属変数です。それらの33年間の変動が対応年の白田切橋底質の総水銀濃度の対数値(説明変数)と同調(相関)しているかを調べました。説明変数を調整するために4か所の排水口はそれぞれ共変数として用いました。

他の3か所(ダイセル化学、西ヶ窪および東木島)よりも有意に低い(p<0.001, p=0.001 and p=0.003)信越化学の底質水銀の変動で調整すると、火山性水銀がそれぞれの底質水銀を変動させてはいなかった(p=0.271)。ところで、東木島排水口は関川と渋江川の合流点より2 km程下流にあり、唯一、白田切川の流れが加わっています。東木島と白田切橋の底質総水銀濃度は有意に相関します(r=0.466, p=0.003)。したがって、火山性水銀が東木島排水口の底質の負荷源であるための必要条件のひとつが得られていることになります。現在、排水口から水銀が流されていないことから、東木島底質水銀の負荷源が火山性水銀である可能性はあるでしょう。ただし、1983年~2001年までのデータでは両者は負相関関係にあり(r=-0.351, p=0.982)、2002年~2015年の両者は有意の正相関関係にあります(r=0.533, p=0.004)。2002年以降の東木島排水口底質水銀の負荷源の一つとして火山性水銀と同定出来そうです。

次に、1983年から2001年までに実施された関川流域の底質調査を解析しました。白田切川の火山性水銀が(メチル)水銀負荷源と公表した後の調査です。調査地点は、最上流の白田切橋(関川合流前の白田切川)の河川水が直接流下する泉橋(関川上流),広島橋(関川中上流),稲田橋(関川中下流),直江津橋(関川下流),および直江津地先(日本海)です。また、白田切川の河川水が直接流下しない渋江橋(関川合流前の渋江川),新箱井橋(関川合流前の矢代川),吉野橋(保倉川中流),三分一橋(保倉川中下流),および古城橋(保倉川下流)です。

18年間の各地点(n=19)の総水銀幾何平均濃度・[95%信頼区間(ppm)]は、白田切橋;3.60,[3.18 – 4.07]、泉橋;0.096,[0.082 – 0.111]、広島橋;0.106,[0.087 – 0.128]、稲田橋;0.096,[0.081 – 0.114]、直江津橋;0.094,[0.070 – 0.126]、直江津地先;0.075,[0.054 – 0.104]、渋江橋;0.180,[0.132 – 0.245]、新箱井橋;0.039,[0.032 – 0.047]、吉野橋;0.057,[0.053 – 0.062]、三分一橋;0.063,[0.054 – 0.074]、古城橋;0.059,[0.047 – 0.074]です。直江津地先は1984年から測定されています(n=18)。

底質総水銀濃度の対数値を従属変数とする重回帰分析を行いました。各測定地点の違いを調整すると、底質総水銀濃度の対数値は白田切橋底質総水銀濃度の対数値の変動に従って有意に低下していました(回帰係数;-0.319,標準誤差;0.132,p=0.017)。有意ですが、火山性水銀濃度と負相関関係にあるという結果です。1983年~2001年に各地点の底質で検出された水銀が火山性水銀である可能性は極めて低いです。前述の1983年~2001年の東木島排水口(関川沿いに在る)底質水銀濃度が火山性水銀と負相関関係にあることと結果の一致が見られています。1983年~2001年の関川流域の底質総水銀の水銀負荷源は火山性水銀ではないと考えられます。

メチル水銀汚染による人への影響を考える上で、川魚の水銀濃度を知ることは重要です。行政府もそれを承知しており、1985年から2015年まで川魚(ウグイ)の水銀モニタリングを継続しています。途中2002年、03年、および04年は実施していませんので、28の年度のデータがあります。31年間(28回の測定値)の各採集地点のウグイの総水銀幾何平均濃度・[95%信頼区間(ppb)]は、関川上流;112,[93 – 136]、関川中流;153,[134 – 174]、関川下流;167,[152 – 185]、櫛池川;160,[141 – 181]、渋江川;184,[163 – 208]、矢代川;189,[163 – 219] です。これらのデータについて白田切橋の底質総水銀濃度の経年変動との関わりを重回帰分析で検討しました。関川の支流(櫛池・渋江・矢代川)のウグイの総水銀濃度の方が関川のそれらよりも有意に高いです(p=0.001)。当然、火山性水銀とウグイの総水銀濃度とに有意の関係はありません(p=0.872)。その上で、関川では上流のウグイのそれらが最小で、中流・下流のそれらとの差は有意です(p=0.001 & p<0.001)。関川の支流では櫛池川のそれらが最小ですが、渋江川のそれらとの差はなく(p=0.131)、矢代川のそれらとは差のある傾向にありました(p=0.059)。統計解析からは、ウグイの総水銀の負荷源・曝露源が火山性水銀である可能性はないと考えます。

2005年から2015年(2013年欠損なので10年度分)には関川下流と保倉川(関川河口に流れ込む)におけるウグイ・フナ・ニゴイの総水銀濃度が報告されています。両河川の各魚種の総水銀幾何平均濃度・[95%信頼区間(ppb)]を記します。関川/ウグイ;159,[136 – 186]、フナ;103,[84 – 127]、ニゴイ497,[407 – 607]、保倉川/ウグイ;155,[120 – 199]、フナ;85,[58 – 123]、ニゴイ452,[377 – 543] です。これも白田切橋の総水銀濃度を説明要因として加え、川魚の水銀の魚種別・河川別の経年変動を重回帰分析で検討しました。関川産の川魚の水銀のほうが保倉川産のそれらより高いですが有意ではありません(p=0.189)。魚種別総水銀濃度については、フナはウグイより有意に低く(p<0.001)、ウグイはニゴイより有意に低値でした(p<0.001)。火山性水銀の変動に依存して川魚の総水銀濃度が低下しましたが、有意ではありませんでした(回帰係数;-0.082, p=0.131)。しかし、川魚の総水銀濃度が経年的に有意に上昇していました(0.017, p=0.005)。重回帰分析なので、魚種および河川、さらに火山性水銀の影響を調整してもなお、川魚の総水銀濃度は経年的に低下しています。10年度分の幾何平均値でさえ、両河川ニゴイは、魚介類の暫定的総水銀規制値 [0.4 ppm(400 ppb)] を超えています。行政府は原因を明らかにする必要があります。

原因の調査は当然実施すべきですが、河口域では、川魚(ニゴイ)の餌(底泥)も含め、海岸動物の水銀モニタリングも必要だと思います。疫学的調査であれば、魚齢・体重・体長・採集日が記録されているはずです。そのようなデータがあれば、原因の一部が明らかにすることも可能なはずですが、単なるモニタリングの継続実施に止まっているようです。しかし、モニタリングを継続していることで、経年変動が検出できました。最低限の税金(庶民の意思)の使い方を示していると言ってよいでしょう。稲作の耕地面積は関川流域の方が保倉川流域より広いです。水銀系農薬の残留水銀のメチル化が原因である可能性は否定できませんが、これだけのデータでは結論できません。しかし、火山性水銀の可能性はないと思います。

関川流域の過去のメチル水銀汚染に関しては、データが全くないので、その原因を明らかにすることは出来ませんでした。しかし、少なくとも、行政府が叫ぶ、火山性水銀説は根拠のないものという結論は得られたと思います。

これで第一章は終わります。

公開日 2018年6月21日作成者 tetuando


第一章 付記(関川第五水俣病)

関川第五水俣病問題の検証について、今後も何度か記せる機会は訪れるでしょう。それでも、その時々の思考内容をいつまでも覚えているか、という未来のことは分からないと思います。その意味を込めて、斉藤医師のデータが問いかけているだろうことを、とりあえず文字にしようと思います。

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斎藤の16人の関川病患者から得られているデータが、メチル水銀汚染源の所在を予想させてくれます。渋江川沿いのダイセル新井工場(アセトアルデヒド生産)の廃液では説明できないことが、そのうちのひとつです。斎藤の意識では、無機水銀が容易にメチル水銀に変換される、と信じて疑っていないようです。その為、関川流域の工場廃液は、新井工場に加え、新井工場(渋江川)よりも5km上流の日本曹達日本木工場、および関川河口近くで合流する保倉川沿いの信越化学直江津工場の三廃液ともメチル水銀汚染源だとしています。アセトアルデヒド生産をしていた新井工場にその可能性があるのは青木の調査・研究で明らかになっています。もし、二本木工場の廃液がメチル水銀汚染源として新井工場の廃液に加わっていたというなら、渋江川の魚を多食した人々から関川病が初発・多発したことでしょう。

斎藤は、16人の関川病患者の漁獲地を記録しています。漁獲地分布は、16人のうち8人が A;矢作川と関川の合流点、4人が B;関川(の何処との記述はない)、3人が C;渋江川、残りの1人が D;保倉川です。新潟焼山を源流とする関川(全長64 km)は、源流から20 km下流で太田切川(この上流が火山性水銀が噴出する白田切川)が合流します。さらに10 km下流で渋江川が合流します。そして、さらに8 km下流で矢作川が合流します。保倉川は日本海に河口がありましたが、江戸時代(1675年頃;Wikipediaより)に直江津を便利に利用するため、河口を関川に付け替えたそうです。

2人が昭和37.8年(コンマ8は8月だろう)に初めて関川病を発症しています。また、2人の魚摂取頻度は、ともに2~3回/週と同じです。その内の1人の漁獲地がA地点です。関川病患者の最も頻度の高い漁獲地であるA地点の魚のメチル水銀レベルが最も高い可能性があります。関川・渋江川・矢作川の3河川水が合流しているA地点です。関川に由来する火山性水銀、および渋江川に流出するであろう新井および二本木の工場廃液由来の水銀がメチル水銀汚染源であるならば、4人発症のB地点のメチル水銀汚染レベルが3人発症のC地点のそれらより高いという説明は矛盾します。B地点経由の河川水に矢作川の河川水が加わったA地点の方がB地点よりメチル水銀レベルが高いのであれば、矢作川からのメチル水銀負荷が有ると説明できます。しかし、矢作川流域には水銀使用工場および火山性水銀噴出地は有りません。「公害」でもなく、「自然汚染」でもないが、矢作川へのメチル水銀負荷源が、関川流域のメチル水銀負荷源のひとつであることを裏付けています。

‘73年から実施された直江津地先のメチル水銀汚染魚(イシモチ,カナガシラ,カナド,マガレイ,およびアカムツ)の漁獲の自主規制は、2000年から3年間暫定的規制値を超える魚が検出されなかったことで、イシモチを最後に2003年に解除されています。新井工場が操業中止したのは‘68年3月です。‘73年に「公害」を疑われたのですから、少なくとも、工場周辺・排水口の水銀含有土質などは除去したことでしょう。だとしたら、30年間も魚介類メチル水銀の暫定的基準値を下回らなかったこと、さらに、関川流域の川魚の漁獲規制が依然として続いていることに対してどんな説明を用意できるのでしょうか。

挙句の果てが「火山性水銀」による自然汚染です。安藤説⇒イモチ病対策の水銀系農薬の(大量)散布の方が、断然、整合性のある説明だと信じています。

公開日 2017年10月5日作成者 tetuando


第二章 徳山湾第四水俣病

1973年5月22日、熊本大学第二次水俣病研究班が熊本県に提出した報告書に、1960年で終息したとされた水俣病の発生が慢性発症(慢性水俣病)の形態でその後も続いていること、さらに八代海と対峙しない海岸線の熊本県有明町(天草上島・現上天草市有明町)に認定基準を満たす水俣病患者8人、疑いの持たれる者2人、要観察者9人の存在を示す記述のあることが報道されました(朝日新聞、1973.5.22)。これは有明海の水銀汚染源がチッソ水俣工場以外、すなわち有明海沿岸の宇土市(および大牟田市)で操業する2つの水銀を使用する事業所であることを推論したものであり、新潟水俣病に続く、第三の水俣病が起きているとの報道でした。

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この有明海第三水俣病騒動に素早く対応し、1973年6月から水銀使用工場のある全国9水域(水俣湾・八代海・有明海・徳山湾・新居浜沖・水島地先・氷見/魚津・伏木/富山・酒井港地先)についての魚介類水銀調査が行われました。この魚介類水銀調査については目標とした検体数が1万件と大規模でしたが、第三水俣病問題発生による全国的な魚介類の消費離れや漁業関係者の生活問題が関わっていたため、目標の検体数に達していない状態で同年8月13日には緊急的に報告されました。水俣湾徳山湾、および新居浜沖以外の、6海域、当の有明海を含め、魚介類総水銀の平均値は規制値以下であるという部分的安全宣言でした。引き続きの調査の最終結果は、同年11月9日に報告されました。そして、水俣湾徳山湾以外の、新居浜沖を含めた7海域についてはいずれの魚介類も基準値を超えるものが無いというものでした。

水俣湾では5種(コチ、カサゴ、スズキ、クロダイ、カナガシラ)、徳山湾では5種の魚介類(アイナメ、メバル、スズキ、クロダイ、ウミタナゴ)が暫定的規制値である総水銀で0.4 ppm超,メチル水銀で0.3 ppm超でした。しかし、徳山湾でも水俣湾とともに全魚種を対象に漁獲等が規制されました。そして汚染源とされたカセイソーダ工場が廃棄・埋め立てていた徳山湾海底15 ppmHg以上底質浚渫・埋立て工事をおこないました(1975年7月着工、77年3月竣工)。漁獲規制は、1979年10月から一部(4種類)解除され、1983年12月にクロダイを最後に全て解除されています。

実は、徳山湾では第三水俣病事件に先立つこと1971年6月と7月に、厚生省による徳山湾内魚介類の水銀調査の公表がありました。沿岸漁協でセリ値が暴落したという経緯がありました。

中西らは徳山湾の環境中水銀の経時的測定を基に詳細な調査・研究をしています(Nakanishi et al, Mercury pollution in Tokuyama Bay, Hydrobiologia, 176/177 : 197-211, 1989)。徳山湾に立地した工場群の水銀の損失量および排水量(380.8㌧,6.64㌧)を水俣湾(222.7㌧,81.5㌧)、新居浜地先(191.2㌧,0.7㌧)、および水島地先(30.1㌧,0.76㌧)と比較し、水質・底質・魚介類の水銀汚染が水銀の損失量と排水量の多い徳山湾および水俣湾で発生した可能性を指摘しています。しかし、中西らは、調査時点の徳山湾の二つのカセイソーダ工場がすでに循環式排水であり、直接、海水域に排出される水銀が無かったにもかかわらず、メチル水銀汚染魚が検出されていることに疑問を抱いています。また、底質の水銀の海水への溶出率としての104(実験で得られた値は1.4×104)および工場群の水銀損失量を基に算出した海水中水銀濃度の期待値が5 ng/L(ppt)であるにもかかわらず、実際には30 ng/Lであったことから、底質水銀の溶出分では実際の海水中水銀濃度を説明できないと考察しています。

中西は底質浚渫・埋立て着工以前の70年12月・71年7月/10月・72年3月および73年6月/9月の2年9か月の間に6回に亘って徳山湾北区分および南西区分における底質および魚介類の総水銀濃度を測定しています(図を示せないのが残念です)。

徳山湾北区分は夜市(ヤジ)川(流路延長10.8 km,流域面積53.3 km2)の河川水とカセイソーダ工場A(未回収水銀量;201㌧)の排水が流れ込み、仙島および黒髪島の北沿岸、そして大津島の一部に囲まれていますが、西方が大きく開いています。底質総水銀濃度は平均値で5.59 ppmです。一方、徳山湾南西区分は富田川(10.3 km,36.1 km2)からの河川水とカセイソーダ工場B(307㌧)の排水が流れ込み、仙島および黒髪島の南沿岸、そして大津島の東沿岸、さらに大島の北西部沿岸に囲まれ、まさに閉鎖的内湾の地形です(海面面積は北区分の4倍)。底質総水銀濃度は平均値で3.00 ppmです。

未回収水銀量と閉鎖性からすると、魚介類総水銀濃度は南西区分の方が北区分より高いことが期待されます。しかし、5種類×6回の測定値における南西区分の総水銀の幾何平均値は0.30 ppm、北区分のそれらは0.49 ppmです。70年12月から73年9月までの幾何平均値は、南西区分で、0.38,0.29,0.30,―,0.28 および 0.29 ppm、北区分で、0.80,0.76,0.68,0.66,0.27 および 0.21 ppmです。73年6月および9月については両群に差はなさそうです。

魚介類総水銀濃度の経時的変動を示した図に掲げられている底質および各種魚介類の総水銀濃度を数値化し、魚介類の総水銀濃度Y(対数値,ppm)を従属変数、工場排水中の年間水銀排出量X1(㌧;AおよびB工場の排出比率の記載がないので両区分の未回収水銀量比率で分配します)、および湾区分X2(北区分=0,南西区分=1)を説明変数、魚介類生息域X3[底生動物(ヒラメとエビ・カニ類)=0,その他=1]、季節区分X4(A;7~9月=0,その他月=1)、70年12月からの経過月数X5(B)、さらに両者の積X6(A×B)を、共変数として重回帰分析を行いました。回帰式Y=0.62×103 X1-0.210 X2+0.428 X3-0.34×101 X4-0.84×102 X5+0.24×102 X6-0.390が得られました。徳山湾の魚介類総水銀濃度は、年間排水水銀量X1と関係しないが(p=0.616)、湾区分X2では南西区分が北区分よりも低く(p=0.005)、魚介類生息域X3では底生動物でその他の魚介類より低かった(p<0.001)。また、季節区分X4では7~9月に高いが有意でなく(p=0.816)、70年12月からの経過月数X5とともに低下しましたが(p=0.012)、両者の積X6、すなわち7~9月以外の月は経過月数とともに有意ではありませんが上昇していました(p=0.605)。定数は有意でした(p=0.002)。

湾区分が魚介類総水銀濃度の有意の変動要因(p=0.005)でしたので、湾区分別に魚介類の総水銀濃度(対数値,ppm;Y)を従属変数として重回帰分析を行いました。工場排水中の年間水銀排出量X1(㌧)、を説明変数、魚介類生息域X3[C;底生動物(ヒラメとエビ・カニ類)=0,その他=1]、70年12月からの経過月数B(X5)、さらに両者の積X6(C×B)、および季節区分X4(7~9月=0,その他月=1)を共変数としました。北区分で得られた回帰式はY=0.60×103 X1 +0.416 X3+0.113X4-1.69×102 X5+0.27×102 X6-0.258であり、南西区分ではY=1.05×103 X1 +0.362 X3-0.19×101 X4-0.16×102 X5+0.17×102 X6-0.731でした。北区分では、X3(生息域)およびX5(経過月数)が有意でした(p=0.028 and p=0.008, respectively)。一方、南西区分ではX3(生息域)と定数が有意でした(p=0.006 and p<0.001, respectively)。北区分で観察された魚介類総水銀濃度の有意の経時的変動が、南西区分で見られなかった(むしろ定数が有意だったことから基盤的総水銀濃度が安定していた・閉鎖系内湾の地形の故か?)ことから、徳山湾の主なメチル水銀汚染源は北区分を中心として経時的に減少したことが示唆されます。また、湾区分にかかわらず、底生動物よりもその他の海水層の魚類の方の総水銀濃度が高いことから、主体的な水銀汚染源が底質に由来した可能性は低いことが指摘できます。

中西らは652個体の魚介類とそれらの採集地に対応する416ヶ所の底質のそれぞれの総水銀濃度が、魚種別に検討しても量(底質水銀)反応(魚介類水銀濃度)関係が成立しており、底質水銀がメチル水銀源である可能性を指摘しています。しかし、一方でメチル水銀生物濃縮率が高いメバルアイナメクロダイおよびスズキと、それらが低いアナゴシロギス、コノシロ、シャコ、アカガイ、ザルガイ、およびプランクトンが、食物連鎖上(太字肉食)では無秩序であることから、底質水銀がメチル水銀源であるとは特定していません(Nakanishi et al, 1989)。中西らは未回収水銀・工場排出水銀量がメチル水銀汚染源である可能性が高いという「公害」を背景・基盤とした考察をしています。筆者の重回帰分析には説明変数として工場排出水銀量を用いていますが、魚介類総水銀濃度の有意の変動要因ではありません。また、重回帰分析における底生動物よりもその他の海水層の魚類の方の総水銀濃度が有意に高いという結果は、中西らが示した生物濃縮率の低い魚種の全てが底生動物であり、その他の生物濃縮率の高い魚種、すなわち底生生物でない魚種の総水銀濃度が高いことを説明しています。徳山湾海水中メチル水銀濃度が、海底よりも上層に高かったことが示唆されます。メバルアイナメクロダイおよびスズキはどれも海岸域に生息します。さらにクロダイおよびスズキは、汽水域・淡水域でも生息出来ます。メチル水銀が河川水によって運ばれた可能性は十分あると思います。

ところで、南西区分に注ぐ富田川の河川水は発電利用の他、工業用水を主体に一部は上水(15%程度,菊川浄水場;河口から4.5 km付近)として使用されていました。したがって、徳山湾への河川水流入量は限定的でしょう。一方、北区分に注ぐ夜市川流域は盆地状の地形のため取水に不利であり、ほとんどの河川水が徳山湾北区分に流入していました(80年代以降は夜市川最下流の潮止堰から工業用水として取水されています)。流域面積も夜市川が富田川の1.5倍です。したがって、北区分に河口のある夜市川の河川水から農薬由来のメチル水銀が運ばれた可能性は否定できないでしょう。しかし、7月~9月の魚介類総水銀濃度が高いという農薬由来のメチル水銀が汚染源とする直接的な統計結果は得られませんでした。それでも、稲イモチ病対策の「セレサン石灰」の散布は、66年および67年の非水銀系農薬への使用替え通達によって、その使用量が減っています。徳山湾の底質水銀の浚渫・埋立て工事前(75年7月着工)における魚介類総水銀濃度の低下に対し、底質水銀(未回収水銀;データはないが増加するはずです)および工場排出水銀(重回帰分析で有意でない)が寄与したとは考え難いと思います。「セレサン石灰」の使用量の減少が魚介類の総水銀濃度の経時的低下の原因である可能性は十分あると思います。したがって、徳山湾のメチル水銀は「セレサン石灰(酢酸フェニル水銀系農薬)」に由来し、河川水によって運ばれたことが示唆されます。

また、中西らは浚渫・埋立て前の73年6月から77年3月竣工後の83年6-7月までの水銀汚染魚の総水銀濃度を測定しています。調査区分についての記述はありません(Nakanishi et al, 1989)。浚渫・埋立ての竣工3か月前(76年12月)の5種の水銀汚染魚の平均総水銀濃度(0.36 ppm)およびクロダイの総水銀濃度(0.46 ppm)が、浚渫・埋立て着工後1年(76年6月)のそれら(0.52 ppmおよび0.66 ppm)から急落したことを浚渫・埋立ての効果と指摘しています。しかし、竣工後3-4か月の(77年6~7月)に5種およびクロダイの総水銀濃度が0.36 ppm → 0.40 ppmおよび0.46 ppm → 0.58 ppmに再上昇したことについては触れていません。海底の残留水銀の大量の除去(浚渫・埋立ての竣工)という一つの要因が、水銀汚染魚の総水銀濃度を一旦低下させ、さらに再上昇させたとは説明出来ないでしょう。西日本における毎年7~8月の稲イモチ病対策のための水銀系農薬の散布がほとんど行われなかったとしても、水田に散布残留した酢酸フェニル水銀の水田土壌の微生物の分解に由来するメチル水銀が0.40 ppmおよび0.58 ppmへの再上昇の原因になった可能性は否定できないのではないでしょうか。

一方、76年11、12月から’83年6、7月の約7年間の4種の水銀汚染魚(アイナメ・タナゴ・メバル・スズキ)の総水銀濃度の平均値、および78年10、11月から81年6、7月の約4年間のクロダイの総水銀濃度の、二つの低下は緩慢でした。この場合、浚渫しなかった15 ppm未満の水銀を含有した底質が未だメチル水銀汚染源と言うのでしょうか。そうだとすると、浚渫基準値(15 ppm以上・水俣湾は25 ppm以上)に根拠がないと主張することになります。しかし、15 ppm以上の底質の浚渫・除去をする以前から北区分の魚類の総水銀濃度は経時的に低下しました。したがって、徳山湾における汚染底質の浚渫・除去と水銀汚染魚の総水銀濃度の変動とに関連が乏しいことが指摘できるのではないでしょうか。これは、徳山湾において底質水銀の溶出分では海水の水銀レベルを賄えない(Nakanishi et al, 1989)という中西らの疑問の裏付けになっています。正に、メチル水銀汚染源の主体が底質水銀であった可能性は極めて低いことが示唆されます。徳山湾の東に隣接し、工場廃液が流入しない極めて閉鎖系の笠戸湾の環境中水銀・魚介類総水銀濃度の変動を、対照として調査していたら、と残念です。汚染源が工場廃液・未回収水銀と決めつける前に、それらの無い対照と比較するべきことを知っていただきたいものです。第二章はここまでです。

公開日 2018年7月22日作成者 tetuando


第三章 鹿児島湾第六水俣病

今回の鹿児島湾のメチル水銀汚染については、すでに和文論文として投稿しています。ネット検索では「粘土科学」→(→;クリック)粘土科学-J-Stage → 粘土科学の掲載論文が検索できます。画面の右上側に過去の巻号を選ぶ、巻50→号3→検索→の中ほどまでスクロールで下りてもらえば、「メチル水銀による環境汚染と疫学:鹿児島湾を対象として」に行き当たります。其処のPDF形式でダウンロード→で掲載論文が読めます。今回の投稿では、論文に記載しなかった「鹿児島湾のメチル水銀汚染」を中心に報告したいと思います。

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鹿児島湾のメチル水銀汚染問題についても、きっかけは1973年5月22日の第三の水俣病(有明海第三水俣病)の発生を疑う報道(朝日新聞)です。これまでも記述したように、国は魚介類の漁獲・販売を規制するための暫定基準を、総水銀濃度が0.4 ppmを超え、同時にメチル水銀濃度が0.3 ppmを超えた場合と定め、その基準の下で水銀使用工場のある10県の9水域(水俣湾、八代海、有明海、徳山地先、新居浜地先、水島地先、氷見地先、魚津地先、酒田港内)の魚介類、および全国の水揚げ魚介類、さらに指定河川の川魚と底質土の水銀調査を実施しました。この9水域の調査で、水俣湾の23魚種中5魚種、徳山湾の28魚種中5魚種が暫定的規制値を超えており、水俣湾および徳山湾だけが水銀汚染海域と指定され、それぞれ全魚種の漁獲が規制されました(朝日新聞,73.11.10)。

続いて、全国47都道府県の268水域における魚介類303種類の22,403検体、プランクトン616検体、合計23,019検体について水揚げ魚介類の水銀総点検が行なわれました(環境白書,1974)。その際、新潟県関川河口の直江津地先海域の14魚種中4魚種、および鹿児島湾奥の19魚種中5魚種がその暫定的規制値を超えており(環境白書,1974 & 朝日新聞,74.9.6)、直江津地先および鹿児島湾奥では、暫定基準を超えた魚種に限定した漁獲の自主規制となりました。自主規制に罰則はありません。直江津地先のメチル水銀汚染については、いつのまにか関川第五水俣病問題(第一章として報告)に覆われてしまい、「公害」が疑われたものの、行き着いた汚染源は、関川最上流の火山性水銀とされています。この火山性水銀という結論は「鹿児島湾の大々的な環境調査とその結果」を受けて報告されました。なお、鹿児島湾奥のメチル水銀汚染魚は、2017/9/11の本ブログ投稿の「我が国におけるメチル水銀汚染-序章」に記したように、タチウオ,キアマダイ,ソコイトヨリ,アナゴ,マアジ,オオメハタ,アオリイカ,アカカマス,ヤガタイサキ,マゴチの10種です。アオリイカ以下の4種の生態系(沖釣りはしないのでは?)がメチル水銀汚染源を想起させてくれます。

ところで、水揚げ魚介類の水銀総点検に加え、17河川・水路の川魚の水銀点検が行われています。116検体の中、9河川(渚滑川、常呂川、無加川;以上北海道、赤川;山形県、櫛田川;三重県、宇陀川、芳野川、名張川;以上奈良県、川棚川;長崎県)の河川魚40検体(34.5%が暫定的規制値相当を超えていました(環境白書,環境庁,1974)。川魚は現在でも漁獲規制対象外とされていますが、この時は、それぞれの河川において魚種(ウグイ・ニゴイ・フナ等)を指定して流域住民に対する食事指導が行われました。赤川と川棚川を除く(例外というべきでしょう)7河川には水銀鉱床があったことから、汚染源は一方的に水銀鉱床ということになっています。何とこれが、川魚が漁獲規制対象外となっている理由でもあります。政府の詭弁が色んなところで幅を利かせています。しかし、9河川流域の全てに水田があり、水銀系農薬が例外なく使用されています(9/9とも一致)。水銀鉱床原因説では因果関係の評価における関連の一致性(consistency)が得られていません(7/9は一致・2/9は不一致)。

さて、鹿児島湾の住民の健康調査について記すことにします。鹿児島県では74年12月から翌年11月にかけて鹿児島県民の頭髪を採取し、総水銀を測定しています。74年12月の頭髪採取の対象者は湾奥漁協、湾奥一般住民、および県庁職員(男のみ)でした。湾奥の漁協は、錦海(加治木)、錦江(牛根)、および福山(福山)の3漁協がありますが、残念なことにその内訳の記載はありません。75年3月には枕崎漁協、枕崎農家、および県職員(男のみ)を、また、75年4月~8月に牛根漁協、および牛根一般住民を、また、75年10月に根占の漁協と一般住民、および75年11月に大根占の漁協と一般住民を追加しています。

疫学手法としては記述疫学であり、生態学的研究(頭髪総水銀濃度;HairHgの地理分布)を目指しているようですが、横断研究(時制の一致が必要)になっていません。75年10・11月に調査した大隅半島南部の根占(佐多岬側)と大根占(桜島側)の男性だけの地域比較は可能です。根占漁協(男61人;平均値8.4 ppm)、根占一般住民(男13人;7.5 ppm)です。大根占漁協(男34人;8.0 ppm)、大根占一般住民(男14人;6.2 ppm)です。根占≒大根占という仮説に止まります。

枕崎では漁家と農家の比較ができます、漁協(男11人;9.6 ppm,女9人;3.6 ppm)、農家(男18人;7.7 ppm,女21人;3.7 ppm)です。漁家および農家共に男>女であり、魚食量の男女差を反映しています。一方、男では漁家>≒農家ですが、女では漁家≒農家です。枕崎では農家でも良く魚を食べているようです。

最初に手掛けた74年12月の調査は、一部、横断研究になっており、一般住民(県庁職員)における湾奥と鹿児島市の比較が出来ます。また、湾奥における漁家と一般家庭、および漁家における男女の比較ができます。湾奥漁協(男81人,最高値117 ppm~最小値5.1 ppm,平均値35.5 ppm,女28人,65.3 ppm~1.9 ppm,15.2 ppm)、湾奥一般住民(男13人,23.8 ppm~3.0 ppm,10.2 ppm,女3人,7.1 ppm~3.3 ppm,4.7 ppm)、および県庁職員(男16人,16 ppm~3.5 ppm,8.2 ppm)です。生データでないので統計上の検定は出来ません。多分、漁家>一般家庭 and 男>女であり、魚食量の、漁家>一般住民、および男>女を反映しています。しかし、地域比較では、湾奥一般住民男≒or≧県庁職員男(鹿児島市一般住民?)であり。湾奥に汚染源があるという仮説は立てられません。

一連の調査の最大の目論見であったであろう湾奥地区と牛根地区との比較は、時制が一致していないので、両者に差が有ったとしても、地域差/年次差/季節差(?)が混在しており、それらの何れかという判断はできません。とりあえず牛根のHairHgを記します。牛根漁協(男157人;31.5 ppm~1.7 ppm,10.9 ppm,女98人;23.7 ppm~0.9 ppm,5.7 ppm)、牛根一般住民(男12人;22.2 ppm~2.4 ppm,9.7 ppm,女26人;11.1 ppm~1.5 ppm,3.8 ppm)です。漁家では男女共に、湾奥>牛根ですが、一般住民では湾奥≒牛根です。なお、県庁職員については75年3月のデータ(男3人;8.0 ppm~5.2 ppm,6.3 ppm)がありますが、強引に74年12月と比較して季節差(冬季>春季)があるとの主張は無理でしょう。

季節差については中野(日衛誌,40(3),685-694,1985→この論文も日本衛生学会から検索できます)が1975年の3月および10月に鹿児島市で出産した母児の母体血・臍帯血・胎盤・臍帯の各種水銀(無機水銀・有機水銀・総水銀)濃度を比較しています。母児の各血液・臓器ともに3月>10月です。既に、アカカマス,ヤガタイサキ,およびマゴチを除く7種は自主規制の対象になっていたこともあり、3月>10月の季節差がメチル水銀汚染魚の摂食で生じたと考えなくても良いと思います。すなわち、鹿児島湾(湾奥・湾央・湾口共々)環境中メチル水銀レベルに季節差が有ったと言えるでしょう。季節差が火山活動に依存していたことを証明すれば、火山説は有力です。

鹿児島県は、HairHgが湾奥>牛根であると判断しました。メチル水銀汚染源が牛根よりも湾奥に近いという仮説を採用したということになります。しかし、「有明海第三水俣病問題のシロ判定(水俣病患者は居なかった)」に成功した政府に指導されたであろう鹿児島県は、水俣病患者が居ないことを証明するために湾奥漁協の男性(漁師)でHairHg 40 ppm以上の者30人中15人に対して「水俣病検診」を実施しました。湾奥漁協に65.3 ppmの女性が居たことは記録されていますが、この女性はこの検診から外されています。女性の頭髪は一般に長いので、生え際から1 cm(頭髪の伸びは1.1 cm/月)刻みで測定することも可能です。全体で65.3 ppmの測定値に変動があれば、極大・極小値はもちろん、その生え際からの位置からメチル水銀曝露の時間分布が得られます。メチル水銀汚染源解明の相当な知見が得られたことでしょう。

HairHgを40 ppm以上としたのは、一種の目暗まし、と考えてしまいます。当時、水俣病発症の条件(閾値)としてのHairHgは50 ppmとされていました。基準を下げて「丁寧に・詳細に」検診したとするパフォーマンスということです。対象者を漁師に限定したことは、一般人に対しての水俣病検診を省く上ではそれなりに賢明です。魚食量が非常に多い漁師に水俣病症状が無ければ、一般人に出ることはない、という量反応関係に則った判断です。

さて、検診では4人の手袋靴下型感覚障害者が見つかっています。この症状の有る八代海沿岸住民であれば、水俣病特措法によって210万円の一時補償金が出るという水俣病の基礎疾患です。4人のHairHgは、40.9,43.2,44.7,および116.9 ppmであり、15人のHairHg分布では、低い方から2, 3, 4,15番目です。HairHgとこの症状の出現に量反応関係が得られていません。したがって、中毒学の原則に従えば、4人の症状はメチル水銀中毒症でないことになります。しかし、頭髪総水銀濃度は、時間分布が曖昧な曝露指標です。定量分析に用いた頭髪の生え際からの距離や長さが一定でないからです。鹿児島県(検診は鹿大医学部)が一般的な中毒学の原則で以ってメチル水銀中毒でないとの判断をしなかったのは、次の一手が残っていたからです。

手袋靴下症状を有する4人を含む10人は変形性脊椎症であると診断されています。変形性脊椎症による特異的症状として手袋靴下感覚障害が出現することを挙げ、4人の手袋靴下型感覚障害はメチル水銀中毒によって出現したのではなく、変形性脊椎症によって出現したと結論しました。鹿大医学部のお歴々は疫学を無視しています。15人は漁師です。漁師の3人に2人が変形性脊椎症を有し変形性脊椎症を有する5人に2人に手袋靴下型感覚障害が出現するのであれば、漁師の職業病として変形性脊椎症と手袋靴下型感覚障害が有ると警鐘する必要があるはずです。何が何でもメチル水銀中毒という健康影響は無いと報告したかったようです。

このようにして、鹿児島湾奥第六水俣病問題は無かったことになりました。しかし、潜水艇まで持ち込んだ大々的な環境調査の結果、暫定的と断わりを入れながらも、「桜島の海底火山活動が最も疑われる」と結論しました。少なくともメチル水銀汚染源についての報告をしたということです。

その結論に至った拠り所のデータを披露しておきます。海水中総水銀濃度(半定量)1974年5月14-16日(0.5μgHg/L=0.5 ppb以上の検体数/採水数→湾奥2/9,湾南1/21),7月24・25日(湾奥10/38,湾南9/42),10月15・16日(湾奥1/54,湾南0/43),1975年1月22・23日(湾奥0/45,湾南0/105),3月3日(湾奥のみ12/101);桜島爆発回数1974年5月上中旬10回,7月中下旬34回,10月上中旬14回,1975年1月中下旬9回,2月中下旬25回です。0.5 ppbというHg濃度は排水基準なので、それが環境中で検出されるということは尋常ではありません。高濃度Hg検出率と桜島爆発回数との相関係数は0.579と比較的大きいですが、有意ではありません(p=0.306)。しかし、環境研究班は、1974年7月に最大値0.37 ppm=370 ppbを検出したことと、1974年6月・7月および1975年2月に桜島の噴火活動が活発だったこととに関連があるものと推察される、と記述しています。また、370 ppbの検水の水温が周辺水域よりも2-3℃高いという温度差が火山活動(海底噴気)の影響以外は考えられないことも、水銀の検出が火山活動によるものと推論される、と記述しています。これが暫定的報告の実態です。

暫定的報告には海水中総水銀濃度における地理分布を検討した跡が見当たりません。海底噴気孔は福山町沖の海底200 m に在り、「たぎり」と呼ばれており、海上からも、その泡模様が確認されます。370 ppbの海水の採水地は、姶良重富の思川河口と鹿児島市の北端海岸である大崎鼻に挟まれたNo8区画(最深部120 m)の水深60-90 m です。「たぎり」から直線距離で西に10-12 km 区画です。海底噴気孔から370 ppbの水銀塊がどうやって移動したのか見当もつきません。海洋科学技術センター時代の橋本氏に採水していただいた「たぎり」直上の全海水(濾過海水)の総水銀の最高濃度は450(12) ppt(ng/L)でした。同時に採水した直上5 m ・10 m ・20 m の全海水では平均10 pptでした。直上わずか5-20 m離れた(移動した)だけで1/50の濃度になった「たぎり水銀」が10 km 移動して800倍以上になったというミステリーな解釈です。

鹿児島湾奥のメチル水銀汚染が桜島の海底火山活動という暫定的報告に、素早く反応したのが「鹿大医学部」でした。自然由来のメチル水銀は同時に水銀と結合して減毒作用を持つセレン(Se)を含有していることを挙げ、「自然由来のメチル水銀汚染なので水俣病症状が出現しなかったのだろう」、というコメントを発しました(鹿児島湾がメチル水銀汚染状態であったことを認めている)。既に湾奥漁協の4人の漁師が呈した手袋靴下型感覚障害は、変形性脊椎症による症状と診断しています。Seの減毒作用でメチル水銀中毒症としての手袋靴下型感覚障害は発現しなかった。正に、「4人の手袋靴下型感覚障害は変形性脊椎症による症状であるという証拠」、と言いたかったのでしょうか…..。

彼らの変形性脊椎症説に蓋然性を持たせるための自然汚染説(桜島海底火山活動説)だと飛びついたに過ぎません。メチル水銀汚染魚が検出された時よりも、現在の桜島の火山活動は活発です。鹿児島湾海水中メチル水銀レベルはメチル水銀汚染魚が検出された1974年から10年、1983年に亘って年々低下しました(Ando et al, Environ Sci, 10, 313-326, 2003)。それでも鹿児島県は自然汚染説だと主張し、環境レベルに低下した10種の魚介類の漁獲の自主規制措置を継続しています。

安藤説(農薬説)は、多くの状況証拠(過去のデータのみ)で支えられています。農薬汚染なので、変形性脊椎症による手袋靴下型感覚障害であったことを改めて証明すべきだと思います…. ….「過去には戻れない」、という背景(現実)にしても、権威(環境庁・鹿児島県=多くの著名な研究者の調査,鹿大医学部)は常に正しく、凡人の主張(真実であっても)は戯言と見なされてしまうようです。この先も、安藤の独り善がりは続きます。

公開日 2018年10月31日作成者 tetuando


第四章 有明海第三水俣病

1973年5月22日、八代海と対峙しない海岸線の熊本県天草郡有明町(天草上島・現上天草市有明町)において第三の水俣病の発生が疑われるとする記述が、熊本県の委託研究に対する熊本大学第二次水俣病研究班の報告書にある、という報道がありました(朝日新聞,73.5.22)。有明海第三水俣病問題発生のきっかけです。

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突然降って湧いたような問題を報道したような印象ですが、そうではなく、くすぶり続けていた水俣病問題(68年5月のチッソ水俣工場のアセトアルデヒド生産停止後の68年9月に水俣病の原因企業についての政府見解が発表された;既に工場廃液が汚染源と分かっていたが、敢えて生産中止後に、見解を大々的に発表した⇔企業活動擁護環境汚染は二の次)を含む公害問題を一機にスクープとして社会問題にしようとするものだったと考えています。朝日新聞以外の報道各社が全く手も足も出せなかったほどのスクープでなかったことは、翌日からの報道合戦が証明しています。各社もそれなりのデータの蓄積があったと思われます。実際、水俣病問題は有明海・有明町に止まらず、全国的な水銀パニックに陥りました。これまでOB会HPに投稿してきた、徳山湾第四関川第五鹿児島湾奥第六の各水俣病問題に飛び火しました。

ここに至った背景があります。水俣病公式発見(1956年5月1日)以降、熊本大医学部各研究室では来る日も来る日も水俣病の実態を調査・研究していました。それらの調査・研究から、未認定患者であっても脳の病理解剖で水俣病病変があること、また、胎児性水俣病の存在、さらに認定患者の家族が非定型的な様々な神経症状(正に慢性水俣病⇔新潟においてはわざわざ遅発性水俣病と命名←本来の中毒学である「曝露レベルが中毒閾値を超えることで発症する=中毒する」ではなく、中毒閾値を超えても発症せずに時が1~5年経過発症する形態;昭電鹿瀬工場でのアセトアルデヒド生産中止・65.1.10後、73年まで新潟水俣病は発生している;工場廃液説を正当化するための詭弁的命名を持っていることなどを検知するに至っています。水俣病について様々な知見が得られていることを知った熊本県は、「現時点の水俣病の姿を明らかにするための研究」に対し委託要請しました。正に、武内忠男教授(病理学)1を班長とする熊本大第二次水俣病研究班(10年後の水俣病研究班)が1971年3月に発足しました。1タケウチタダオ;水俣病がメチル水銀中毒症であることを最初に報告した研究者。

研究班は水俣病の現状を知るために悉皆調査としての水俣病検診を計画しました。対象地として1)水銀濃厚汚染地区として水俣市湯堂・出月・月浦地区(304世帯,男520人:女599人)、2)水銀汚染が少ない地区として、水俣市と不知火海を挟んで対岸の天草郡御所浦町嵐口地区(459世帯,902人:969人)、そして3)水銀非汚染の対照地区として不知火海に対面していない天草郡有明町赤崎・須子・大浦地区(278世帯,570人:610人)を選び、合わせて1041世帯4170人の住民検診を実施しました。水俣市3地区 304世帯中の男520人は有明町3地区278世帯中の男570人よりも有意に少数です(p=0.043, 1方向のフィッシャー直接確率)。水俣市3地区の男性に水俣病中毒死が多かったことを間接的に説明している可能性はあるでしょう。

初年度(1971年度)は、アンケート(質問票)と一般検診から水俣市;315人/1119人(28.2%),御所浦町;135人/1871人(7.2%),および有明町;29人/1180人(2.5%)が要精密者(スクリーニングにおける陽性者)としてふるい分けられました。検診参加者総数に対する要精密者の分布割合は、水俣市>御所浦町(p<0.001)であり、御所浦町>有明町(p<0.001)です。各3地区の住民の魚食習慣(魚食量/回・魚食頻度/週)に極端な差がなく、一般的な沿岸地域の魚食習慣に収束するのであれば、生態系におけるメチル水銀汚染レベルは、水俣市>>御所浦町>>有明町であったとことが期待されます。しかし、有明町のメチル水銀汚染レベルが3地区で最低であったとしても、それなりの数の要精密者を検出したのですから、水銀非汚染地区ではないと認識すべきだったでしょう。そして、本来の疫学研究(記述疫学・チッソのメチル水銀が何処まで・どのくらい拡散したかの調査)に舵を切ればそれなりの疫学調査になったと思います。例えば、チッソからの距離が御所浦町より遠く、有明町より近い大矢野町(大矢野島 or 維和島;宇土半島三角と上天草島と隣り合う島)を加え、アンケートと一般検診(一般検診と後述します)を実施すれば、要精密者の分布割合を得ることができたでしょう。そのことでチッソの工場廃液由来のメチル水銀の拡散状況として距離に依存した地理分布が得られることが期待されます。

得られる地理分布が、①水俣市>>御所浦町>大矢野町≧有明町のメチル水銀汚染状況であれば、チッソの工場廃液が有明町まで拡散したとする可能性は否定できません。それどころか、当時の医学者の主張としての「メチル水銀は食物連鎖によって魚介類で高濃度に濃縮される」を錦の御旗に、チッソから40~50 km離れた有明町の魚介類が、多少とも工場廃液由来のメチル水銀によって汚染された証拠と唱えることでしょう。もちろん、本来の証明は定性としての「食物連鎖」ではなく、定量としての「濃縮率」であるべきです。①の汚染状況こそ「食物連鎖」もまた汚染源からの距離に依存している、すなわち、生態系のメチル水銀レベルが、水俣湾内>>御所浦町地先>大矢野町地先≧有明町地先であることを示唆しています。「食物連鎖」によって魚介類にメチル水銀が闇雲に濃縮されるという「定性」的思考は、今流行の「ご飯論法」の先駆けのように思います。

しかし、地理分布はむしろ ②水俣市>>御所浦町>>or>大矢野町≦or<有明町が得られるのではないかと予想します。この場合、有明町のメチル水銀汚染源がチッソの工場廃液とは独立的に存在しているものがあることになります。それでも、②が得られても、当時の研究者は「公害」として調査を進めたでしょうから、余計に混乱したのではないかと思います。大矢野町を追加せずに調査を続けた研究班の疫学調査による情報からは、正に「第三の水俣病の疑い」に到達するより仕方なかったのでしょう。不思議なことに、いつの間にか「食物連鎖説」の主張は消えています。チッソの工場廃液のメチル水銀が汚染源とは主張していません。確かに、有明町を非汚染地区としての対照として調査したことと整合しています。

一般に、公害問題が起きた時、多くの場合「定性」が幅を利かせます。鹿児島湾のメチル水銀汚染魚の「桜島海底火山説」は「定性」的説明に終始しました。火山ガスから放出される水銀は無機水銀ですが、それをメチル水銀汚染源と報告しているのが「海底火山説」です。確かに自然界では無機水銀がメチル化されメチル水銀が生成します。無機水銀のメチル化は「定性的な」反応です。しかし、「火山説」を言い放つ研究者が(定量的に)そのメチル化率を提示した・することはありません。

それでも、武内研究班長は、後の国会(71年6月6日、第71回衆議院、公害対策並びに環境保全特別委員会)の参考人として、「フェニル水銀系農薬にメチル水銀が含まれていることから、日本で一番多く使われたフェニル水銀系農薬の散布によってメチル水銀が出た可能性がある」と述べています。「一番多く使われた」と半定量的に論じているようにも思います。しかし、不知火海への農薬水銀の影響を棚上げして論じたのであれば、中身は「定性」的論述に止まっています。

さて、次年度(72年度)には、総合判定前の神経科・精神科の精密検診(総合判定前検診と後述)、続いて総合判定のための各科の精密検診(総合検診と後述)が行われました。神経科・精神科検診では、水俣市(受診者245人,水俣病だろう191人,水俣病の疑い20人,保留20人),御所浦町(134人,25人,34人,30人),および有明町(26人,8人,2人,9人)、と診断しました。総合判定前検診の受診者を一般検診によるスクリーニング検査における陽性者)とし、「水俣病だろう」という判定を「患者」とした陽性適中率は、水俣市>>御所浦町ですが(191/245=78.0%:25/134=18.7%,p<0.001)、一方で、御所浦町≦有明町(25/134:8/26=30.8%,p=0.273)です。ただし、有明町の「水俣病だろう」8人の内訳は、5人の「定型型水俣病と区別できない」と3人の「一応水俣病と同等とみられる」であり、「水俣病だろう」を「定型型水俣病と区別できない」に限定すれば、25/134:5/26=19.2%,p=0.955であり、御所浦町≒有明町と考えられると思います。

各対象地区の魚食量を聞き取っていませんが、水俣市の陽性適中率が高いのはそれを無視してもメチル水銀の濃厚汚染地区という要因で説明できるでしょう。御所浦町≒有明町間の陽性適中率はほぼ同じレベルです。両地区のメチル水銀汚染レベルが同等と解釈するには、魚食習慣(魚食量/回×魚食頻度/週)を調整する必要があります。それでも、一般検診における要精密者率(ある一定の条件下;一般的な沿岸地域の魚食習慣が普遍的とすれば)からメチル水銀汚染レベルは御所浦町>>有明町と解釈できそうです。したがって、両地区で同等の陽性適中率は、両地区での研究班の総合判定前検診における検診精度に偏りがなかったことが示唆されます。研究班が有明町の「水俣病だろう」を「第三の水俣病」と記述したことは、検診精度に偏りがないことを背景とすれば、当然の成り行きだったと推察できます。

総合検診では水俣市(受診者195人,水俣病だろう150人,水俣病の疑い20人,保留24人),御所浦町(39人,16人,8人,9人),および有明町(23人,8人,2人,9人)です。総合判定前検診の結果(「水俣病だろう」+「水俣病の疑い」+「保留」)をスクリーニング対象者とすれば、水俣市231人、御所浦町89人、および有明町19人です。総合検診受診者の内訳は、水俣市ではほぼ「水俣病だろう=191人」の195人、御所浦町では「水俣病だろう=25人」に「水俣病の疑い=34人」の一部を加えた39人ですが、有明町では、総合判定前検診者がそのまま対象者だったようです。住民の意思による受診であれば問題ありませんが、研究班が受診者を主導した可能性を否定できません。したがって、3地区の生態系のメチル水銀レベルを検討する疫学研究として総合判定前検診はそれなりに採用できますが、総合検診は問題ありと思います。もちろん総合検診自体の意義は生かされるべきだと思います。

総合検診で水俣市の「水俣病だろう」とされた150人中81人は73年3月末までに水俣病と認定されています。しかし、水俣市における「水俣病だろう」という総合判定による水俣病認定率の54%(81/150)を御所浦町および有明町に当てはめることは適切ではないでしょう。一般検診および総合判定前検診から、生態系のメチル水銀レベルが水俣市≫御所浦町≫or>有明町であると示唆されています。汚染レベルの比較としての疫学調査は成立していると思います。「水俣病だろう」の住民の魚食量(1食当りの量×週当りの魚食頻度)が聞き取られていません。各3地区の「水俣病だろう」と診断された住民の期待される魚食量は水俣市<<御所浦町≦有明町です。水俣市住民が御所浦町や有明町の「水俣病だろう」と診断された住民並みの魚食量があれば、既に急性・亜急性の水俣病を発症していたことが期待されます。

研究班は一連の調査・研究によって有明町住民からハンターラッセル症候群がそろう典型的水俣病と全く区別できない5人、一応水俣病と同様の症状を示した3人の8人(「水俣病だろう」)、および水俣病の疑いとされた2人の疑わしい患者(「水俣病の疑い」)、さらに詳細な検査が必要な9人(「保留」)を検出しました。そこで研究班は熊本県(知事)への報告書「10年後の水俣病に関する疫学的臨床医学的ならびに病理学的研究」に『有明地区の患者を有機水銀中毒症とみうるとすれば、過去の発症とみうるとしても、これは第二の新潟水俣病に次いで、第三の水俣病ということになり、その意義は重大であるので、今後、この問題は解決されねばならない』と記述しました。何故、公文書が事前に漏れたのでしょう。朝日新聞の取材力が抜群だったのでしょうか…!!?

ところで、全国的な「有明海第三水俣病問題」が起る1年2か月前、1972年3月に地元(有明町)では既に水俣病騒動が起きていました。「有明町にも29人(上述の一般検診の陽性者)の水俣病類似患者」との記事が掲載されたようです(これが朝日新聞の記事であれば上述の公文書の事前漏れは必然ということになります→正に、スクープとして公表前に報道した)。有明町は「比較対照地区だというので協力したのに、何ということをしてくれたのだ」との熊本大に釈明を求めました。熊本大はスタッフを派遣し「水俣病と決まったわけではない。結論はくわしい調査をしてからでないとわかりません」と弁明したようです。熊本大のスタッフが一般検診が「水俣病検出」のスクリーニングであることを十分に認識しておれば、当たり障りのない弁明では済まなかったでしょう。翌年の報告書「精密検診と疫学的臨床医学的ならびに病理学的研究」の結論は「第三水俣病の疑い」でした。比較対照地区として適当でなかったことへの釈明は為されていません。また、有明町住民の「第三水俣病の疑い」を発生に関連する諸々の要因について何も言及していません。とくに有明町住民が食した魚介類のメチル水銀濃度を測定しておらず、その理由が全く理解できません。研究班が魚介類のメチル水銀濃度を測定しておれば、後々の「シロ・クロ」闘争における相当な証拠になったはずです。魚介類のメチル水銀濃度が高ければメチル水銀中毒の可能性は高いでしょう。それらが低くとも過去のメチル水銀汚染と指摘すればメチル水銀中毒の可能性は否定できません。

一方、政府(環境庁)は第三水俣病問題を受け、水銀使用工場のある10県9海域における魚介類の水銀測定が行われました。水俣湾と徳山湾(第四水俣病)はメチル水銀汚染魚が検出されたことによって漁獲等の自主規制が行われました。9海域に有明海と八代海(不知火海)が含まれていましたが、汚染魚は検出されていません。その後、不知火海に浮かぶ御所浦町住民の「水俣病だろう」の者から水俣病認定者が出ています。有明海に面して浮かぶ天草上島の有明町住民の「水俣病だろう」は「シロ」判定です。続いて、直江津地先(関川第五水俣病)と鹿児島湾奥(第六水俣病)でメチル水銀汚染魚が検出されました。

第三以下の水俣病問題にはメチル水銀中毒者はいなかったことになっています。このようにまとめてみると、ある意図が働いたことは明らかです。しかし、疫学的な思考をすれば(共通点を拾いだして検討する→メチル水銀汚染という偏りが発生した理由の検索)、第三以下の水俣病問題は、正しくメチル水銀汚染問題であったと指摘できます。水銀使用工場の無い鹿児島湾奥が、桜島の海底火山活動によってメチル水銀に汚染されたというシナリオも、個別の調査・研究で作られました。個別の調査・研究では、共通要因を検討せずに進められます。

結局のところ、研究班の疫学的研究で示せたのは、一般検診というスクリーニングにおける要精密者(陽性者)の検出頻度分布、および総合判定前検診における「水俣病だろう」の者の検出頻度分布の3地区の比較に止まっています。しかし、有明町住民で検出された「水俣病だろう」の症状が、水俣市民および御所浦町民と共通していたことは、二つの検診の結果から明らかです。有明町民の「水俣病だろう」症状だけを取り上げ、その一つ一つの症状について変形性脊椎症糖尿病老化現象などでも起こるとしてメチル水銀中毒とは認められない、と「シロ」判定しました。水俣市民および御所浦町民の水俣病認定者を単独で取り上げれば、有明町民の場合と同様に「シロ」判定できそうです。研究班がこの疫学的研究共通項の比較;要精密者分布・「水俣病だろう」分布)を持ち出せば、こうもやすやすと「シロ」判定に持ち込まれることはなかったでしょう。

一方、メチル水銀汚染源の検索でも個別の調査・研究で対応しました。

73年5月の第三水俣病問題の報道当初は有明町から東に40 km離れた熊本県宇土市に在ったアセトアルデヒド生産工場の工場廃液がメチル水銀汚染源と疑われました。また、この頃、研究班長・武内は、第三水俣病問題騒ぎが起こった直後に、宇土市民の胎児性水俣病と区別できない病変解剖例2例、三角町民の老人の水俣病病変解剖例があることを述べています。工場廃液による「公害」の可能性を問うつもりだったのかもしれません。しかし、「公害」は長期連続汚染です。少数の発症、それも胎児性だけの発症では連続性を説明できません。また、既に工場生産は65年4月に中止されていたこともあって、汚染源と特定されることはありませんでした。武内は病理学者として発言しています。しかし、「公害」と主張するための疫学思考が為されていません。それらの「胎児性水俣病患者」の母の魚食習慣・臍帯の水銀濃度・家族集積性などの何れの記録もありません。

公害」説は、続いて有明町から北東に60 km離れた大牟田苛性ソーダ生産工場を疑いました。引き金は、73年6月には大牟田住民兄弟(58歳・53歳)に水俣病症状があると報道されたことにあります(「水俣病症状の患者 大牟田でも見つかる 河口の魚類を常食」朝日新聞,73.6.8)。子どもの頃から父の釣果を常食し、s40(1965)年春頃に指先の変形など体の変調に気付いていた兄は、自ら大牟田市公害対策室に出向き「水俣病ではないか。調べて欲しい」と訴え、また、弟も父がとったを多食し、10年ほど前から右手がふるえ、杯もうまく運べず、視野が次第に狭くなっているが、開業医は神経痛という、との記事です。

時を置かず、熊本大研究班の原田助教授がこの兄に多くの水俣病症状があることを確認しました。その後、九州大(黒岩教授のグループ)で20日間に亘って兄への水俣病検診が行われ、「水俣病でない」「他の病気で積極的に説明ができる(患者の病名は本人のプライバシーに関することで言えない)」と結論(診断?)されました。本来、症状が弟より兄の方がはっきりしていたとしても、兄弟同時に診察すべきだと思います。5歳離れた弟と同程度の症状を「老化現象」と診断しづらくなることを避けたのでしょう。「水俣病」という共通性があっても、症状の有無・強弱は個別的です。「水俣病」を否定するには個別検診に限るようです。

ここで、3地域別の「水俣病」のa;認定者数と手袋靴下型感覚障害を呈する水俣病特措法におけるb;一時金受領者数をa/b(認定率a/(a+b)%)として示します。A;1787/19306(8.47%),B;704/1811(27.99%),C;493/11127(4.24%)で、A;熊本県、B;新潟県、C;鹿児島県です。その地域の生態系メチル水銀レベルが高ければ、a+bおよび認定率高いことが期待されます。a+bが熊本>鹿児島>>新潟であるにも関わらず、認定率は新潟>>熊本>鹿児島で、新潟県≒3.3×熊本県です。水俣病認定者の症状の有無・強弱3地域(県)明らかに違っていると考えざるを得ません。このように行政の都合によって「水俣病の症状」が変動するのですから、個々の「水俣病症状」はどのようにも診断できるといっても過言でないようです。「疫学」の基本は、「偏りの要因の検索」です。兄弟であって姉妹ではありませんが家族集積性はありそうです。河口の魚類・貝を多食しています。熊本大研究班が71年に実施したアンケート調査(および一般検診)を、大牟田市民を対象として実施しようとは思わなかったのでしょうか。正しい疫学調査の道は閉ざされていたようです。

1960~62年の有明海および不知火海の沿岸住民における頭髪総水銀濃度が、熊本衛生研究所の松島技官によって測定されています(青本,pp738;一部は鹿児島県衛生研究所のデータが掲載されています)。頭髪は1 cm/月位伸びます。通常、長さを出来るだけ揃えるために、頭髪は右耳側(側頭)下部の根元から採取します。それでも頭髪試料の長さは女>男になります。経験測ですが、女性は5~10 cm、男性は3~5 cmが平均的な頭髪試料の長さです。したがって、その長さ(cm)月分だけ過去のメチル水銀曝露レベルの指標であることを認識する必要があります。1960年の頭髪試料は、1959年の情報をそれなりに伝えていることになります。

頭髪総水銀濃度は、A; 10 ppm未満,B; 10~50 ppm未満,およびC; 50 ppm以上の3区分の分布が掲載されています。統計に堪える例数が測定されている市町村の各3区分数を測定年別に列記します。1960年;天草郡龍ヶ岳町(A;24人,B;57人,C;6人),同郡御所浦町(251,747,162),水俣市(38,100,68),芦北郡津奈木町(12,61,29),芦北町(1,33,30),田浦町(6,15,12)。C区分をメチル水銀高濃度曝露群(高曝露群と後述)とします。高曝露群分布は、御所浦町>龍ヶ岳町(p=0.063),水俣市≫御所浦町(p<0.001),水俣市≧津奈木町(p=0.416)<芦北町(p=0.016)≧田浦町(p=0.322),水俣市<芦北町(p=0.044)です。高曝露群分布が高い順(生態系メチル水銀レベルの高い順と考えられる)に並べると、芦北町≧田浦町≒水俣市≧津奈木≫御所浦町>龍ヶ岳町であると示唆されます。1959~60年の芦北町≧田浦町≒水俣市≧津奈木町は、メチル水銀負荷源が工場廃液単独では説明できない生態系メチル水銀レベルの濃度順です。58年9月から59年10月まで工場廃液は八幡プール群(水俣市八幡町)から直接的に不知火海に流出していました。その時期を反映した頭髪総水銀濃度分布であったなら、水俣市≧津奈木町は工場廃液単独で説明できます。しかし水俣市からの距離が津奈木町よりも遠い芦北町および田浦町の高曝露群分布が津奈木町のそれらより高いことをメチル水銀負荷源が工場廃液単独であると説明することは困難です。

1961年;鹿児島県阿久根市(21,9,3),出水郡東町(11,39,25),出水市米ノ津(38,264,143),出水市・高尾野町(7,9,5),津奈木町・湯浦町(6,45,6),御所浦町(130,414,134),八代市日奈久・八代大島(12,24,0),熊本市(65,57,2),長洲町(35,24,0)。高曝露群分布は、東町≒出水市米ノ津(p=0.837)≫御所浦町(p<0.001)>津奈木・湯浦町(p=0.088)≒阿久根市(p=0.827)≫熊本市(p=0.030)=長洲町=日奈久・大島の順です。また、出水市・高尾野町は比較するには少数例です。出水市米ノ津との隣接地区であり、3区分分布もよく似ているので両者を合わせた出水市(45,271,148)として比較しても良いかもしれません。この出水市の高曝露群分布を出水市米ノ津のそれらと入れ替えても結果はほぼ同じです。1961年に水俣市のデータが欠けています。しかし、潮の流れの基本は水俣湾→津奈木(北東)です。メチル水銀が出水米ノ津(出水市)から長島(東町)に沿って獅子島(鹿児島県)→御所浦島という経路で移動したとすれば、説明可能な高曝露群分布の高低と考えられます。一方、メチル水銀負荷源としての工場廃液の寄与度は津奈木・湯浦町≫阿久根市と考えられますが、高曝露群分布は津奈木・湯浦町≒阿久根市です。阿久根市の漁場が不知火海であったのであれば、東町≒阿久根市が予想されますが、実際は、東町≫阿久根市です。阿久根市の漁場は東シナ海側にあったでしょうから、メチル水銀負荷源は工場廃液から独立していたと予想します。他方、阿久根市≫熊本市=長洲町を以て生態系メチル水銀レベルが東シナ海≫有明海とするのは無謀でしょう。ただし、この時期、出水市米ノ津川で出水製紙、川内川で中越パルプが操業中でした。製紙業で水銀化合物が防カビ剤として使われたことは無視できないと考えています。60~61年の有明海(熊本市・長洲町)のメチル水銀レベルが、阿久根市よりも低いものの、不知火海の北東部の八代市日奈久・大島と同等だったようです。

1962年;鹿児島県出水郡東町(52,40,5),出水市米ノ津(179,110,13),水俣市(20,54,4),御所浦町(41,89,29),飽託郡天明村川口・現熊本市南区(87,0,0),熊本市(154,17,2),長洲町(63,18,1)。高曝露群分布では、御所浦町≫出水市米ノ津(p<0.001)≒東町≒水俣市>長洲町(p=0.057)≒熊本市(p=0.965)≫天明村(p<0.001)の順に高曝露群分布が小さく(メチル水銀レベルが低く)なっています。一方、A区分をメチル水銀低濃度曝露群(低曝露群と後述)とした低曝露群分布では、御所浦町≒水俣市≫東町(p=0.001)≒出水市米ノ津≫長洲町(p=0.004)≫熊本市(p=0.011)≫天明村(p=0.001)の順に低曝露群分布が大きく(メチル水銀レベルが低く)なっています。61~62年の有明海のメチル水銀レベルは、不知火海よりかなり低かったと考えられます。ただし、魚食量が相当に多い有明海の漁民であれば、メチル水銀曝露レベル不知火海沿岸住民のそれらと同等であった可能性が高いと考えられます。

1960年から1962年まで3年間連続で頭髪総水銀濃度の比較が出来るのは御所浦町だけです。高曝露群分布では、多い順に61年≒62年(p=0.151)≒60年(p=0.662)ですが、61年≫60年(p=0.001)です。一方、低曝露群分布において、少ない順に61年≒62年(p=0.209)≒60年(p=0.237)ですが、61年>62年(p=0.063)です。したがって、御所浦町の生態系メチル水銀レベルは61年に、62年および61年より高かったことが示唆されます。61年の御所浦町のそれらは、東町および出水市米ノ津より有意に低く、61年の出水沖不知火海が濃厚なメチル水銀の負荷があったことが示唆されます。61年の高曝露群分布は東町がわずかに出水市米ノ津より多いですが(p=0.837)、低曝露群分布は出水市米ノ津が東町より少ない傾向にあります(p=0.093)。両町の漁場はいずれも出水沖の不知火海と考えられるので、わずかな魚食習慣の違い、例えば、魚食量がほぼ一致していても魚食頻度or一食当たりの魚食量に違いがあるのかもしれません。

熊本県衛生研究所の松島技官の膨大な数の頭髪試料の分析からは、1960年代前々半の有明海の生態系メチル水銀レベルは不知火海より低かっただろうといえそうです。しかし、それから10年後の1970年代の前々半まで有明海のそれらが不知火海のそれらより低かったか否かは分かりません。その後の10年の間の66年6月にチッソは完全循環式排水システムを運用しました。工場廃液由来のメチル水銀負荷はほとんど無くなったでしょう。しかし、酢酸フェニル水銀系農薬(セレサン石灰)の使用量は減ったでしょうが、稲イモチ病対策での使用は続いていました。有明海第三水俣病問題で「水俣病だろう」と診断された住民は、阿賀野川中上流域住民の水俣病患者と同等レベル阿賀野川流域住民であれば水俣病と認定されるレベル)の患者だったのではないかと考えられます。有明海第三水俣病問題の「水俣病だろう」の住民は、男7人、女3人のいずれも漁家・半農の漁家です。手袋靴下型感覚障害」の症状を呈した4人の鹿児島湾奥漁師の頭髪総水銀濃度は40 ppmを超えていました。彼らが示した「手袋靴下型感覚障害」は変形性脊椎症が原因だと診断されました。有明町の10人の頭髪総水銀濃度の数値は見つかりませんでしたが、低かったと国会で説明されています(参考人発言)。

「水俣病だろう」を決定づけるものではありませんが、松島技官が実施した頭髪総水銀濃度の調査が、改めて1973年に実施されておれば、1972~73年の不知火海・有明海住民のメチル水銀曝露レベルが比較できたでしょう。「水俣病だろう」は過去の発症と思われます。1972~73年のメチル水銀曝露レベルで説明できないことを知らしめるため、また、「水俣病だろう」の人々のレベルが他の住民よりも高いことだけでも知るべきだったと思います。疫学的データの限定された調査では、真実の主張が簡単に覆されることが示された「有明海第三水俣病問題」だったという虚しさが残ります。

公開日 2018年12月2日作成者 tetuando


第五章 北海道 – 1. 常呂川水系

我が国における魚介類の水銀に暫定的規制値として、平均値として総水銀で0.4 ppmかつメチル水銀で0.3 ppmを超えるとされています(1973.7.23,厚生省)。しかし、例外措置としてのマグロ類(マグロ、カジキおよびカツオ)、深海魚類、および内水面水域の河川産の魚介類(湖沼産は除く)に、暫定的規制値は適応されていません。深海魚は漁獲が少ないことを例外理由として説明されています。マグロ類は近海魚でなく、人工汚染の考えにくい大洋の回遊魚ということをその理由としたのではないかと思います。しかし、実際は、漁業経済上、規制から外す選択しかなかったのでしょう。一方、川魚が水銀規制されない理由を構築した調査・研究を今回、紹介したいと思います。

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北海道では水銀鉱山(廃坑を含む;所在は無機水銀)がある河川流域の川魚の総水銀濃度が汚染レベルであるとして調査されました(山中すみへ・上田喜一,魚類における水銀の動向について 日衛誌, 29,574-581, 1974)。試料採取は1970年です(酢酸フェニル水銀系農薬使用の最盛期が外れていたという現実を無視せざるを得ない調査・研究ということになります)。①水銀鉱山(廃坑)を経由する河川流域;常呂川水系のイトムカ川と無加川のウグイ総水銀濃度(THg)・(試料数=平均値の数→試料個々のデータの記載はなく、平均値が掲載されています,mean±sd(平均値の平均値±標準偏差・ppm);6,0.92±0.44)②水銀鉱山を通過する河川水が直接的に流入しない河川流域;常呂川中上流のウグイTHg(3,0.52±0.06)との間に差はありません(p=0.174;あくまでも平均値の平均値の差の検定による)。しかし、③対照流域(青木弘,水銀による環境汚染に関する研究, 第2報,日衛誌, 24, 546-555, 1970b);北海道各地のウグイTHg(6,0.19±0.06)を加えた3地域間には③が最低の有意差(p=0.003)がありました。水銀鉱山が流域に在る河川(①無加川)が水銀に汚染されるので、①の河川を生態系とする川魚がそれらの水銀に汚染されたと認定したということです。また、①を生態系とする川魚が、②(常呂川中上流)のような流域に回遊し、また②を生態系とする川魚も①との間を頻繁に回遊するので、両者間のウグイTHgに差はないと説明しています。しかし、①の無加川で最高の平均値は1.80(範囲;1.1~3.0)ppmであり、②の常呂川中上流の平均値は0.50(0.28~0.72)と0.59(0.50~0.74)ppmと報告されています(ibid,山中ら,1974)。例数や標準偏差などの記載がないので統計処理はできませんが、互いの範囲を比較すれば、無加川で最高の平均値は常呂川中上流の2地点の平均値と明らかに差あると判断すべきでしょう。また、無加川水系において、水銀汚染源であるとした水銀鉱山に最も近い下流(イトムカ川)で採集したウグイのTHg(平均値;0.70 ppm)が最高(イトムカ川から45 km下流の無加川・北見市中心街から5 km上流のウグイTHg・1.8 ppm⇔上述の値)ではありません(ibid,山中ら, 1974)。環境汚染において、汚染物質の発生地が最も汚染されるはずですが、山中らは、汚染発生地に最も近い地点の川魚のTHgが最高でない理由ついて説明していません。山中らは、無加川は地層性で汚染帯が広い水銀鉱脈による自然汚染と結論し、水銀鉱脈が唯一の水銀負荷源であったと主張しています。

1970年代における川魚の生態に対する一般的認識(世間の常識)は、全長120 kmの常呂川水系を「ウグイが縦横無尽に遊泳・移動する」だったようです。工場廃液を流した昭電鹿瀬工場から60 km下流の阿賀野川下流域で26人の急性・亜急性水俣病患者が発生しました。同じ期間に鹿瀬から下流域間の阿賀野川中上流域で急性・亜急性患者は発見されていません。「川魚が縦横無尽に遊泳・移動する」が証明されていないのに、「川魚」を「ウグイ」に置き換えれば成立する、と説明されても、納得いくものではありません。それでも、その川魚の生態に対する一般的認識を前提として、常呂川中上流ウグイの0.54 ppmを自然汚染魚と結論するのは無理筋だと考えます。ただし、イトムカ鉱山の主要鉱石は自然水銀(金属水銀Hg0;液体)でした。一般的な水銀鉱石である辰砂(硫化水銀;HgS)は化学的に非常に安定しています。その為、無加川底泥水銀が他所の無機水銀よりメチル化し易く、無加川生態系のウグイTHgが③のそれらより高かったことは十分あり得るでしょう。無加川水系の水銀鉱脈が水銀負荷源のひとつであることを支持しています。しかし、②>>③(p<0.001)の要因が水銀鉱脈であることを支持する証拠として「ウグイが縦横無尽に遊泳・移動する」を充てるのは、やはり無理です。山中らは、無加川と常呂川の合流地から5 km下流地点のウグイのTHg(0.60 ppm)を測定していますが、①の0.70 ppmより低いが②の0.52 ppmよりわずかに高いことについて説明していません。常呂川中流(0.59 ppm)から30 km下流地点が0.60 ppmという測定値は、この地点の生態系の水銀負荷源が無加川流域および常呂川上流域から独立していることを示唆しています。イトムカ鉱山だけを水銀負荷源とするのでなく、無加川を含む常呂川水系に縦横に走っている水銀鉱脈層が負荷源というのであれば、相応の説明になっています。ウグイのTHgレベルの相違は水銀鉱脈層中の水銀含量に依存しているとの説明です。もちろん、裏付けとしての水銀鉱脈層の調査(河川底質のTHg測定)が必要でしょう。しかし、山中らの調査・研究は、イトムカ鉱山以外の要因を検討することなく、「無加川がイトムカ鉱山の水銀に汚染されていた」ことを前提に実施されしまったということのように思えます。

ところで、1995~2014年(20年間)の常呂川日の出および無加川西10号で採集された底泥およびウグイの総水銀濃度が報告されています(北見市広報 2008, 2015)。常呂川日の出の・Fish;ウグイ/ Mud;底泥のTHg(ppm)の幾何平均値(95%信頼区間,例数);0.189(0.163-0.219,16)/ 0.058(0.048-0.071,20)、および無加川西10号のF / MのTHg;0.256(0.199-0.329,20)/ 0.230(0.154-0.345,20)です。ウグイ試料は常呂川下流で合流する仁頃川の上仁頃市街地(0.250,0.216-0.290,15)もあります。ウグイTHgも底泥THgも無加川>常呂川ですが(p=0.048 and p<0.001, respectively)、3地点のウグイTHgは差のある傾向に止まります(p=0.060)。無加川と常呂川との統計学的比較から、定量的にも無加川底泥の総水銀の主体が水銀鉱山に由来する水銀だと考えられます。しかし、底泥総水銀のウグイの総水銀への移行比(F/M・比)が無加川(mean±sd;1.20±0.60)で常呂川(3.25±1.09)より有意に低いことから(p<0.001)、ウグイにとって生物濃縮しやすい化学形態であるメチル水銀の底泥総水銀中に占める割合は、無加川より常呂川の方が有意に高かったことが予想できます。

底泥水銀がウグイ水銀と連動しているかを確かめる必要があります。単相関関係をみると、底泥THg(X)とウグイTHg(Y)との関係は、常呂川(j)でYj=0.790Xj + 0.143,無加川(m)でYm=0.194Xm + 0.208と表すことができます。すなわち、常呂川の底泥水銀の79%が、また、無加川の底泥水銀の19%が、それぞれのウグイ水銀に寄与しているという統計結果です。それぞれ対数値における底泥水銀とウグイ水銀とは正相関しています(常呂川;相関係数r=0.596,n=16, p=0.015,無加川;r=0.728,n=20,p<0.001)。しかし、この統計処理は20年間の各年の平均値を変数としていますから、時間分布を無視しており、間違っています*1)。また、試料としたウグイの体長が10 cm以上~25 cm未満と記されています。ウグイの体長も曖昧にしたままの平均値です。底泥水銀のウグイ水銀への寄与は、各年毎に体長(共変数)を調整したウグイ水銀(従属変数)と底泥水銀(説明変数)の重回帰分析から調べることができます。年毎の従属変数が説明変数と有意の関係があることを確認した上で、これらの水銀モニタリングを続けているのであれば、それぞれの変数の経年変動を確認すべきでしょう。 *1)時間分布を無視した相関関係でありながら、堂々と「疫学の例」で教科書に載っています。各年の胃がんの死亡率(Y)が冷蔵庫の普及率(X)に負相関することから、冷蔵庫の普及によって塩蔵品の消費が減ったことで胃がん死亡率が低下した、と説明しています。これは、時間分布だけでなく地理分布も調整していません。間違いです。ただし、食塩摂取量が減れば、ヘリコバクター・ピロリ菌(海洋細菌の一種)の増殖を抑えるので、胃がん死亡率が低下するのは事実です。

無加川水系および常呂川水系の底泥水銀およびウグイ水銀の20年間(1995~2014年)の経年変動を統計処理しました。体長体重・魚齢)を調整できないウグイ水銀のそれらは参考に止まります。無加川水系では水源に水銀鉱山の在るイトムカ川(幾何平均値 ppm,95%信頼区間 ppm,例数;5.63,4.43-7.16,20)、清水川(4.48,3.59-5.58,20)、北光川(4.80,3.77-6.12,20)、および愛の川(0.92,0.70-1.22,20)の底泥水銀が測定されています。また、無加川流域の底泥試料は北見市街地として西32号(0.24,0.20-0.28,20)、西10号(0.23,0.15-0.34,20)および第1観月橋(0.10,0.08-0.12,20)の3地点で採取されています。常呂川水系では北見市街地の日の出(0.06,0.05-0.07,20)および東10号(0.11,0.07-0.17,12;外れ値を除くと→ 0.09,0.07-0.12,11)が採取地です。無加川水系の底泥水銀については水銀鉱山水系地と市街地を共変数として経年変動を重回帰分析すると、20年間に増減変動を繰り返しながら有意に減少しています(p<0.001)。一方、常呂川水系の底泥水銀は、2001年の東10号で測定された0.8 ppmの外れ値を除けば、20年間に有意に減少しています(p=0.005)。外れ値を含めたままでは有意に減少していません(p=0.538)。本来なら、外れ値は再測定すべきだと思いますが、行政は研究でないことから、何事も無くそのままです。なお、外れ値を含めたままでも、市街地の底泥水銀を、無加川水系と常呂川水系を共変数として重回帰分析すると、市街地の底泥水銀は、無加川水系が常呂川水系より有意に高い(p<0.001)ことを調整しても、20年間に有意に減少しています(p<0.001;例数が増えたことで単純に危険率が小さくなっただけでしょう→統計の怖いところです)。いずれにしても無加川水系における底泥水銀の経年的低下は、水銀の採掘・製錬の中止が起因したと考えて良いでしょう。

20年間を前期;1995~2004,および後期;2005~2014に分け、底泥とウグイの水銀濃度を比較しました。底泥水銀濃度(ppm)は無加西10号で前半0.424/後半0.125と70%低下、常呂日の出で0.077/0.044と43%低下です。ウグイ水銀濃度は無加西10号で0.378/0.153と60%低下、常呂日の出で0.218/0.149と32%低下です。後半において、無加川の底泥水銀濃度は常呂川のそれの2.8倍高いのですが、ウグイ水銀濃度は両者ほとんど同等です。休廃鉱からの水銀の流入量の減少がウグイ水銀濃度の減少と連動していません。休廃鉱からの水銀とは異なる水銀源が無加川および常呂川の市街地に流入していることは否定できず、かつて稲作に使用された水銀系農薬を無視することはできないでしょう。しかし、無加川および常呂川の流域での水田面積などの情報をネットで探しましたが、ヒットしませんでした。それでも、『北見たまねぎや水稲・馬鈴薯・かぼちゃ・にんにく・はくさいなど農産物が多数あります。』、のように北見市の農業についての記述はあります。ウグイの水銀への負荷源として、過去には水銀鉱山、現在もその休廃鉱山からの水銀が正しく寄与しているでしょう。しかし、イトムカ鉱山を閉山した1972年頃までは、稲作における水銀系農薬の散布も同時に行われていました。水銀鉱山以外の水銀負荷源が有るにもかかわらず、一方を無視するのは科学としては間違っています。常呂川水系の水銀汚染の科学的解明を行政のデータで行う限界だと察しました。

全国のメチル水銀汚染では、直接、塩化メチル水銀を排出したとするチッソ水俣工場(熊本水俣病)と昭電鹿瀬工場(新潟水俣病)以外は、この場合の水銀鉱山、全国のクロルアルカリ生産(食塩から苛性ソーダ生産)の水銀法、鹿児島湾と関川流域の火山性水銀のように、無機水銀をメチル水銀発生源と説明しています。いつもの&o論ですが、定量的論述を避けて定性的論述し、焦点を当てない・ぼかすのが行政的方法論です。確かに、科学的に正しいことを伏せて、社会の秩序のために必要悪としてまかり通すのが「政治・行政」でしょう。法律用語における「公共の福祉」では大多数の「」のために、少数の「」が覆い隠されているのが現実なのかもしれません。日本の安全保障のために、沖縄に米軍基地が必要である、というのも「公共の福祉」で説明できそうです。困った、こまった、こまた、小股。科学的解明は、大股では闊歩できないようです。

公開日 2018年12月28日作成者 tetuando


第五章 北海道 – 2. 石狩川水系

土井と福山(石狩川水系産淡水魚の水銀蓄積に関する研究,35,467-478,1980,日衛誌)が、1975~78年に、石狩川水系の米盛(米飯)川、倉沼川、牛朱別川、忠別川、美英川、石狩川、オサラッペ川、および江丹別川から637匹のウグイを採集し、総水銀濃度(ppm,幾何平均,95%信頼区間,最小-最大;0.175, 0.168-0.183,0.03-0.88),体長(mm,算術平均,標準偏差,95%信頼区間,最小-最大;149,35,146-151,73-326)を測定しています。

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暫定基準値(総水銀0.4 ppm)を超えた検体数は57(総数の8.9%)です。内訳は0.4超;31,0.5超;14,0.6超;7,0.7超;3,0.8超-0.88;2です。各河川では、米盛川(24/121;19.8%)、倉沼川(8/35;22.9%)、牛朱別川(0/33;0%)、忠別川(2/43;4.7%)、美英川(3/98;3.1%)、石狩川(4/145;2.8%)、オサラッペ川(7/49;14.3%)、および江丹別川(11/113;9.7%)です。

各河川の位置関係を記します。米盛川の源泉近くに水銀廃鉱があります。米盛川と倉沼川はともに北西方向へ下っていますが、両河川が合流する2 km手前で倉沼川は北北東方向に下ります。両河川の合流地(地点;A)から北西1.5 km 下流で牛朱別川と合流します(B)。Aから南 1.1 kmに両河川に挟まれて旭山動物園があります。そこから西南西に 8 km 下流で北東から下ってくる石狩川と合流します(C)。Bから7.5 km付近が旭川市役所の北北東500 mです。Cから東南東 2 km 上流・Bから西南西 6 km 下流に製紙工場が在ります。Cから西 2 kmで忠別川と美瑛川が合流した忠別川と合流します(D2)。忠別川と美瑛川はD2から南南東 1.2 km上流で石狩川と合流しています(D1)。石狩川D2から北西 1.5 kmで北東から下ってくるオサラッペ川と合流します(E)。石狩川Eから西南西 1.7 kmで北から下ってくる江丹別川と合流します(F)。

各河川別・上下流別・年別のウグイ総水銀濃度(ppm)を列記します。源泉から西北西 8 km下流・Aから南東 8 km上流が①米盛川(年,幾何平均;95%信頼区間,例数,1976,0.46;0.39-0.53,21,1977,0.21;0.19-0.23,76,1978,0.31;0.27-0.36,24)の測定値です。Aから南 4 km上流が②倉沼川(1976,0.28;0.24-0.32,35)の測定値です。米盛川、倉沼川および牛朱別川の合流地Bから北東1 km上流および西南西 6.5 km下流(Cの東南東 0.5 km上流)が③牛朱別川(1978,0.13;0.11-0.14,21,19780.140.110.1812)の測定値です。Cから北東8 km上流および南西1.5 km下流、および石狩川河口から4 km上流が④石狩川(1978,0.22;0.19-0.26,25,19780.140.120.172419780.120.110.1396)の測定値です。D2から南東6 km上流が⑤忠別川(1978,0.18;0.16-0.21,43)、およびなん南東 6 km が⑥美瑛川(1977,0.17;0.15-0.18,98)の測定値です。Eが⑦オサラッペ川合流地19750.260.170.391319760.140.100.1911)、およびFが⑧江丹別川合流地19780.120.110.1325)の測定値です。Eから北東7 km が(⑦)オサラッペ川上流地(1975,0.29;0.19-0.44,12,1976,0.11;0.09-0.13,13)の測定値です。Fから北6 km上流が(⑧)江丹別川上流地(1977,0.17;0.14-0.19,88)の測定値です。各河川の太文字表示は同一河川での下流地のデータです。

先ずもって少々強引ですが(全体像を観察するため)、637検体のウグイの総水銀濃度(対数値,ppm)を従属変数、各河川流域を説明変数、ウグイの体長(cm)、および採集年(1975年を基準にした経過年数)を共変数として重回帰分析を行いました。ウグイの総水銀濃度は体長に依存して高く(p<0.001)、経年的に低下しています(p<0.001)。体長および経年の変動を統計学的に調整したウグイの総水銀濃度は高い順に、米盛川≧倉沼川≧忠別川>牛朱別川≧江丹別川≧美瑛川≧石狩川≒オサラッペ川です。統計処理しない測定値自体でも米盛川で最高のウグイ総水銀濃度であったため、汚染源=水銀廃坑という構図になっています。ここまでの重回帰分析の結果を前面に出せば、石狩川水系のウグイ総水銀濃度が経年変動するものの水銀廃坑に影響されていると説明できるかもしれません。しかし、これは、牛朱別川流域に製紙工場(一時期、木材・木材チップの防カビ剤として酢酸フェニル水銀が使用されていた)があること、石狩川流域の各地で使用されていた水銀系農薬の残留水銀を無視した結果に止まります。先に進みましょう。

米盛川で最大のウグイ総水銀濃度であるというこの重回帰分析の結果が正しいとするには、幾つかの確認が必要です。ウグイの総水銀濃度が体長に依存して高いということに関連の一致性(この場合、どの河川域でも両者に有意の正相関がある)が得られるべきです。また、経年変動にも関連の一致性(この場合、毎年の米盛川の水銀廃坑からの水銀の各河川への流出変動が有意に一定レベルであること)が得られるべきです。そこで、まずウグイ総水銀濃度を流域毎(河川別)に、体長を説明変数、経年、および流域における位置(上流=0, 下流=1;測定していない河川では除いています)を共変数として重回帰分析を行いました。

76年~78年の米盛川のウグイ総水銀濃度は、経年的に低下傾向(p=0.074)にあり、体長に依存して高くなっています(例数,相関係数,p値;122,r=0.76,p<0.001)。ウグイ総水銀濃度の経年変動は、76~77年には有意に低下し(p=0.003)、77~78年には有意ではありませんが上昇しています(p=0.636)。そして、それぞれの経年変動を調整したウグイ総水銀濃度は、両年間ともに有意に体長に依存して高くなっています(76・77年;98,r=0.79,p<0.001,77・78年;100,r=0.75,p<0.001)。米盛川の場合、どの採集年でもウグイ総水銀濃度が体長に依存して(成長とともに)上昇しています。

倉沼川、美瑛川、および忠別川のウグイ試料は、それぞれ単年度の76年、77年および78年に採集されています。倉沼川(35,r=0.75,p<0.001)、美瑛川(98,r=0.28,p=0.003)、および忠別川(43,r=0.62,p<0.001)のいずれのウグイ総水銀濃度体長に依存して高くなっています。だたし、美瑛川の場合、例数が多いことで両者の弱い正相関関係が有意になっているに過ぎません。

オサラッペ川では75・76年にそれぞれ下流域と上流域でウグイを採集しています。オサラッペ川のウグイ総水銀濃度は、下流域の方が上流域より高いのですが有意ではなく(p=0.205)、75年から76年に掛けて低下するものの有意ではありません(p=0.247)。しかし、それらの地域変動および経年変動を調整したウグイ総水銀濃度体長に依存して高くなっています(49,r=0.66,p=0.004)。

牛朱別川では78年に下流域と上流域でウグイを採集しています。牛朱別川のウグイ総水銀濃度は下流域の方が上流域より高いのですが有意ではありません(p=0.302)。その地域変動を調整したウグイ総水銀濃度は、体長に依存して高くなっていますが有意ではありません(33,r=0.14,p=0.154)。

石狩川では78年に、上流域、中流域、および下流(河口)域でウグイを採集しています。ウグイ総水銀濃度の上流域と中流域間(p=0.001)、および中流域と下流域間(p=0.039)の差はともに有意であり、上流域から下流域に向って有意に低下しています(p<0.001)。しかし、地域変動を調整したウグイ総水銀濃度は体長に依存して高くなっていますが有意ではありません(49,r=0.51,p=0.190)。

江丹別川では77年に上流域で、78年に下流域でウグイを採集しています。江丹別川の場合、時と場所が異なるので、ウグイの総水銀濃度と体長との相関関係を採集年毎に解析します。77年・上流のウグイ総水銀濃度と体長との関係はなんと逆相関ですが、もちろん有意ではありません(88,r=-0.09,p=0.623)。78年・下流のそれらは体長に依存して高い傾向にありました(25,r=0.33,p=0.061)。

河川別のウグイ総水銀濃度と体長は、米盛川、倉沼川、忠別川、美瑛川、およびオサラッペ川で有意の正相関関係がありましたが、牛朱別川、石狩川、および江丹別川では両者の相関関係は有意ではありません。水銀(メチル水銀)が食物連鎖を通して生物濃縮されているのであれば、成長(体長増加)とともに水銀濃度が増すことになります。したがって、ウグイ総水銀濃度とそれらの体長との相関関係が有意であれば、それらの水銀濃度が食物連鎖経由の生物濃縮の結果と評価して良いものと思います。だからといってそれらの相関関係が有意でないので水銀か食物連鎖を経由して生物濃縮されないと判定するのは間違っていると思います。

ウグイは成長するために食餌を摂ります。食餌にメチル水銀が含まれていないことが一般的事実ならば、食物連鎖経由の生物濃縮を否定しても良いでしょう。しかし、メチル水銀は自然界で無機水銀のメチル化(ほとんどの微生物が無機水銀;Hg2+の無毒化のためにメチル化 or 還元=Hg0することで⇒大気中へ水銀を放出する)によって生成されています。その量が多いのが水銀耐性微生物と呼ばれますが、メチル化率が1%を超える能力をもつ微生物は稀です。また、微生物の水銀耐性はその環境によって次第に獲得するのではないかと考えられます。実際、水俣湾の25ppm・Hg以上の海底泥は浚渫され、現在は竹林公園の土台となっています。残された25ppm未満の海底泥は浚渫・除去しませんでした。水俣湾魚介類の水銀濃度が3年連続0.4ppmを下まわったとして1997年10月から全長4,400mの仕切り網が撤去されました。しかし、近年、常時ではありませんが、0.4ppmを超える魚が検出されています。水銀耐性を獲得した微生物によってメチル化が継続的に為されているのであれば、とくに夏季の海水温が高い時にメチル化が進むでしょうから、現在の水俣湾における夏季から秋季の魚介類を集中的に調べれば、「不都合な真実(メチル水銀汚染魚が数多く検出される)」が知らされるかもしれません。

ウグイの総水銀濃度と体長に有意の正相関関係が必ずしも得られないことから、自然界の食物連鎖網では一部に食物連鎖を経由しないメチル水銀の生物濃縮があることに気付かされます。これ(この土井らの論文が掲載された頃)までは、汚染物質の生物濃縮は基本的に食物連鎖経由で為されるものと考えられていました。実際、当時の教科書ではDDTsの生物濃縮率を食物連鎖網の中で説明していました。DDTsは有機塩素系農薬ですが、団塊の世代より少し高齢の方々では「頭から浴びせられた」思い出があるのではないでしょうか。海生研の夏合宿でもお世話になりました。DDTsの環境汚染のことは『Silent Spring;沈黙の春』で、食物連鎖による生物濃縮のことは「環境ホルモン問題」で集中的に取り上げられました。水俣病の原因物質はメチル水銀ですが、当時の熊本大の水俣病研究者は、それらをもっぱら有機水銀と呼びました。とくに、胎児性水俣病の発生機構を論じる時、胎盤を通過できない「無機水銀」とは異なり「有機水銀」が胎盤を通過することを強調しました。その上、それらの血中濃度が母よりも児に高いと知らされました。その為「(母の)有機水銀」が胎盤を通過して胎児に濃縮するという定性的な表現がまかり通り、さらに「有機水銀」が脂溶性であることを鵜呑みしてしまい、DDTsと同じように食物連鎖経由で何万倍(表現は定量的ですが科学的なデータはありません)も生物濃縮をするとの知識になったように思います。メチル水銀は「有機水銀」ですが、水に溶けないわけではありません。水俣湾の海底泥に含まれた海水中メチル水銀濃度が2.69 ± 2.07(11検体)ppt = 1/1012(1兆分の1)であったと報告されています(Matsuyama et al, Marine Pollution Bulletin, 129, 503-511, 2018)。底泥に含まれた海水という特殊な検体ですが、海底泥の浚渫時(一部の泥が海水に懸濁するため)、とくに仕切り網を設置した当初には水俣湾内の魚介類の水銀レベルは低下しませんでした(「水俣湾 環境復元事業の概要」,熊本県,2007)。ppt レベルであればメチル水銀が水(海水)に溶けていることから、そのようなメチル水銀が鰓経由で生物濃縮されたと考えて良いでしょう。メチル水銀の鰓経由の生物濃縮については初代の海生研OBHPに投稿しましたが、改めて別の機会にこの二代目HPに投稿しようと思います。

ウグイの総水銀濃度は、体長を調整しても各河川でレベルが異なっています。各河川環境におけるメチル水銀レベルが異なっていたと判断すべきでしょう。上述したように、その中で米盛川のウグイの総水銀濃度が対象とした8河川中で最高であることから、米盛川の水源地に在る水銀廃鉱がウグイのメチル水銀源である可能性は否定できません。しかし、米盛川についての重回帰分析で、76年から77年のウグイ総水銀濃度は低下していますが(p=0.003)、77年から78年のそれらは有意ではありませんが上昇しています(p=0.656)。メチル水銀の負荷源が米盛川の水銀廃坑であるとすると、米盛川における経年変動幅に多少の違いが有っても不思議ではありません。しかし、有意に低下した翌年に有意ではないにしても上昇に転じたことを、廃鉱からの水銀の流出量、あるいはそれらの水銀のメチル化率上昇したとの説明するのは、単なる「主張」に過ぎません。水銀廃坑が主なメチル水銀負荷源であるとの仮説の証明は難しいというべきでしょう。

実は、全637例のデータの内、同一河川で経年変動を算出できたのは、米盛川の76年から78年、およびオサラッペ川の75年から76年に止まっています。また、オサラッペ川のウグイ総水銀濃度においても経年的に低下しましたが有意ではありませんでした(p=0.247)。637例のウグイ総水銀濃度を従属変数とした重回帰分析では、計算上8河川中2河川の経年変動傾向をその他の6河川にも当てはめた結果ということです。経年変動の方向性を検討すると、3つの経年比較(75-76年のオサラッペ川,76-77年、および77-78年の米盛川)は一定ではありません(関連の一致性が得られないということ)。そこで、重回帰分析の共変数から経年変動を除いて再計算することにしました。なお、メチル水銀は確実に食物連鎖経由で生物濃縮されていることから、体長は共変数から外せないと思います。

説明変数は各河川です。この場合、ウグイ総水銀濃度は上位から倉沼川≧米盛川>オサラッペ川≧忠別川≧美瑛川≧江丹別川>牛朱別川≧石狩川です。経年変動を共変数として加えた場合を再掲すると、米盛川≧倉沼川≧忠別川>牛朱別川≧江丹別川≧美瑛川≧石狩川≒オサラッペ川です。経年変動の算出に用いたオサラッペ川の順位の変動が最も大きかったことから、重回帰分析では経年変動幅が過剰に評価された可能性は否定できません。そして、経年変動を共変数として加えない場合、米盛川でなく倉沼川のウグイ総水銀濃度が最高でした。実際、ウグイ総水銀濃度を体長だけで調整して米盛川および倉沼川のそれらを比較すると、倉沼川の方が米盛川のそれらより有意に高いです(p=0.030)。

したがって、ウグイ総水銀濃度において米盛川のそれらが最高であると結論することはできません。すなわち、石狩川水系におけるメチル水銀の主要な負荷源が水銀廃坑であるとは言えないでしょう。

ところで、水銀廃坑由来の無機水銀がメチル水銀負荷源の一部であるとしても、無機水銀のメチル化が容易にかつ高率に起きることを証明する必要があるでしょう。微生物により無機水銀が自然界でメチル化されることは、定性的には周知の事実です。しかし、これまでの多くの報告では無機水銀のメチル化率について定量的に言及していません。10種類の細菌による培地中の塩化第二水銀からの実験上の定量的なメチル化率が報告されています(水俣病-20年の研究と今日の課題,有馬澄雄編,青林舎⇔以下、青本と記します,pp701, 1979)。それらのメチル化率の高い方から0.48%0.35%、および0.0019%の3種の細菌がありますが、その他の7種類の細菌は、6.8×105%以下(~8×107%)と報告されているように、細菌類のメチル化能は極めて低いのです。仮に、メチル化能の高い上位3種の細菌が米盛川流域で圧倒的な優勢種だったとしても水銀廃坑由来の「無機水銀」から高濃度のメチル水銀が生成したとは考えにくいと思います。

長い間に微生物の水銀耐性能が上がり、メチル水銀が以前より多量に生成するというのであれば、現時点における石狩川水系のウグイの水銀モニタリングをすれば、それから科学的な結論が検出出来るでしょう。水銀廃坑がメチル水銀の負荷源であるならば、今こそ、米盛川のウグイの総水銀(メチル水銀)濃度が石狩川水系のどの河川のそれらよりも高いことが期待されます。

ところで、稲イモチ病対策の水銀系農薬の主製剤である酢酸フェニル水銀(PMA)からのメチル水銀の生成率は塩化第二水銀(HgCl2,水への溶解度;74 g/㍑,硫化水銀は水に不溶)の10倍を超え、その率は1.3%を超えています(青本,pp700)。また、PMA系農薬原体1.0 mgの薄層クロマト分析で、PMAの他に標準塩化メチル水銀の移動距離(Rf値=0.15)とナフチルチオカルバゾンによる発色(赤~赤紫)が一致する物質を検出しています(検出限界0.2μg;新潟水銀中毒に関する特別研究報告書,科学技術庁研究調整局, pp 273-275,1969)。

PMA系農薬原体には0.17~0.42%のPMAを含有しています。PMA系農薬原体1.0 mg中には1.7~4.2µgのPMAが含まれています。薄層クロマト上でのメチル水銀が検出限界としての0.2µgの検出であったとしても4.811.8%のメチル水銀がPMA系農薬原体中のPMAに含まれていたことになります。

PMAの高いメチル化率やPMA系農薬中のメチル水銀の高含有率は石狩川全流域におけるウグイの総水銀濃度の地域(採集地)差が、地域の水田耕地面積の差、すなわち酢酸フェニル水銀系農薬の散布量の差に依存して発生した可能性が高いことを示唆しています。酢酸フェニル水銀系農薬の大量散布が石狩川の全水系のメチル水銀供給源であった可能性を検討するための環境調査(各河川底質土の層別水銀分析が望まれます)を実施すれば、事実が明らかになるでしょう。前回投稿の無加川水系において、水銀鉱山所在地のウグイのそれらが最高でないこと(山中すみへ・上田喜一, 1974)の説明として無加川流域での酢酸フェニル水銀系農薬の使用による追加的メチル水銀汚染があったことを挙げることができると思います。昨年(2018年)7月、梅雨の無い北海道で梅雨末期のような大雨が降り、米盛川の堤防が決壊し、水田が濁流に飲み込まれました。米盛川流域が水田地帯であることを知りました。

公開日 2019年1月29日作成者 tetuando


第五章の2 富山県の河川域

神通川流域

神通川下流域に注ぐ熊野川下流にチメロサール(エチル水銀チオサルチル酸ナトリウム;今もなお外国ではワクチンの防腐剤として使われています)の生産工場があり、1969年9~11月採集の神通川流域のウグイおよびアユの総水銀・メチル水銀・エチル水銀の各濃度を測定し、工場由来のエチル水銀が汚染源と報告されています(川崎軍冶ら,神通川における水銀汚染に関する調査研究 特に汚染源調査について,日衛誌,28, 392-399, 1973)。

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川魚を採集した神通川流域河川の地図・位置関係を記します。神通川は富山市中心部を流れる総延長120 kmの一級河川です。神通川河口から8 km,および10 kmの上流で、それぞれ井田川、および熊野川が合流しています。井田川・神通川の合流点から井田川の8 km上流で山田川と合流しています。井田川・山田川の合流点から井田川10 km上流で室牧川と合流しています。神通川河口から40 km上流で高原川および宮川(岐阜県)が合流しています。

熊野川は神通川の河口から10 kmで合流する支流です。熊野川下流の神通川との合流地近くにチメロサール生産工場がありました。川崎らは、熊野川等の支流を含む神通川流域の魚種別(アユ&ウグイ)の総水銀・メチル水銀・エチル水銀の水銀形態別に各濃度を測定しています。1969年頃の水銀分析技術によるメチル水銀・エチル水銀の定量は発展段階だったと思います。一方、総水銀の定量はほぼ正確でした。そこで、ここでは総水銀濃度についてのみ検討することにします。川魚の採集地を、工場廃液が下流に運ばれるとして、工場廃液の流入域(A;熊野川および神通川との交流点より下流の神通川・神通大橋)、および非流入域(A以外の河川)に分類しました。総水銀を幾何平均値ppm,95%信頼区間,例数で表示します。廃液流入域のアユ(1.13,0.25-5.07,4),ウグイ(3.28,2.11-5.11,11)です。廃液非流入域のアユ(0.09,0.04-0.21,7),ウグイ(0.39,0.30-0.52,33)です。アユ、およびウグイの総水銀濃度はいずれも廃液の流入域が非流入域よりも有意に高いです(p=0.002 and p<0.001, respectively)。工場廃液が水銀負荷源のひとつであることの説明となっています。

上述したようにメチル水銀・エチル水銀の定量は不安定でした。川崎らは川魚中のエチル水銀濃度を当時の最新機器として登場したECD-GCで測定しています。試料ホモジナイズから塩酸-ベンゼンで有機水銀を抽出しています。塩酸の塩素イオン(Cl-)が過剰であるため塩化メチル水銀および塩化エチル水銀として抽出されるのでECD(electron chapter detector;電子捕獲検出器)が適応できるとしたものです。当時の最新技術を導入した分析法ではありますが、論文記述の有機水銀分画の精製法では有機水銀以外の有機物が混入した可能性が否定できません。GC分析そのものがRT(retention time;保持時間)だけが定性情報です。したがって、エチル水銀とほぼ同じRT物質を全てエチル水銀として定性・定量するという誤差の存在を否定できません。工場廃液が流入する神通川下流で川魚に高濃度エチル水銀が検出されています(ウグイ;0.69 ppm,アユ;0.09 ppm)。工場下流の熊野川でエチル水銀が検出されたのは当然でしょう(ウグイ;1.54 ppm,アユ;0.35 ppm)。高濃度であれば、GCピークも高く先鋭なので、定量値は比較的正確だと思います。一方、廃液の非流入域の各河川の川魚のいずれからも低濃度ですがエチル水銀を検出しています。ウグイ・アユは回遊・遡上をしますので、一時的であっても神通川下流も生息域なので、エチル水銀が検出される可能性は否定できません。しかし、神通川下流から40 km以上も離れた宮川や高原川のウグイ・アユでもエチル水銀が検出されています。珪藻苔を食むアユにエチル水銀が含まれていたのであれば、その環境水・土壌にもエチル水銀が含まれていたことを示す必要があります。川崎らは、神通川流域の河川底質、および流域土壌の水銀分析(総水銀&有機水銀)をしています。しかし、工場廃液排出地以外のどの神通川流域でも、しかも神通川下流の神通大橋の底質からも有機水銀(メチル水銀・エチル水銀を分別定量していない)を検出していません。

ところで、山中らは、神通川流域のウグイから検出されたエチル水銀が、非汚染河川としての上市川・白岩川・常願寺川のそれらからは検出されなかったことを根拠に、神通川流域が工場廃液のエチル水銀で汚染されたと別途報告しています(山中すみへ・上田喜一,魚類における水銀の動向について 日衛誌, 29,574-581, 1974)。

工場廃液の非流入域の川魚の総水銀濃度はそれほど低くはありません。そこで非流入域について、川魚の総水銀濃度(ppm,対数値)を従属変数(Y)、合流河川数(X1)を説明変数、採集年(X2;’68年=0,’69年=1)、および魚種X3(アユ=0,ウグイ=1)を共変数として重回帰分析を行いました。得られた回帰式はY=0.257X1‐ 0.081X2 + 0.404X3 ‐ 0.968です。すなわち、ウグイ(X3=1)がアユ(X3=0)より高いことを調整すると(p=0.003)、川魚の総水銀濃度は採集年X2で差はありませんが(p=0.717)、合流する河川数(X1)の増加に伴って有意に上昇していました(p=0.007)。

工場廃液が流入しない流域での合流河川数の増加、すなわち河川水の増量による川魚総水銀濃度の上昇は各河川水のメチル水銀が合流・相加した可能性を示唆しています。工場廃液は上流に遡上しないはずです。工場廃液以外の水銀負荷源は水銀系農薬と考えられます。したがって、神通川流域で水銀系農薬散布由来のメチル水銀が各河川水に合流・相加したと予想できます。また、付着珪藻を食むアユの二段よりも水生動物を食むウグイの二段~三段の生物濃縮の方が高いという食物連鎖の整然とした位置関係を示しています。なお、川崎ら(1973)は、‘69年7月に神通川流域で採集したアユ5検体の総水銀を測定しています(幾何平均値0.87 ppm,95%信頼区間 0.40 – 1.87 ppm)。採集地の記載はないのですが、廃液非流入域で採集が行われたのであれば、‘69年9月~11月採集のアユ(0.09 ppm)と比べれば明らかに‘69年7月採集試料の総水銀濃度に高い季節差の存在を指摘できます。季節差が稲イモチ病対策の水銀系農薬の散布によって発生した可能性を指摘できそうです。

小矢部川流域

富山県高岡市を挟むように小矢部川と庄川が流れています。小矢部川流域には、2つのクロルアルカリ(食塩から水銀電極法でNaOHとCl2を生産)工場(*1)とHgCl2を触媒として塩ビモノマーを生産する工場がありました。青木は関連の河川底質および川魚の総水銀およびメチル水銀濃度を測定し、それらの工場廃液による水銀汚染の実態を調査・研究しています(青木弘,水銀による環境汚染に関する研究, 第2報,日衛誌, 24, 546-555, 1970)。最も小矢部川河口に近いクロルアルカリ工場(河口から1.5km上流)の対岸には製紙工場がありましたが、調査対象にはしていません。

(*1);この2つのクロルアルカリ工場は、有明海第三水俣病問題が起った時の、10県9海域の対象海域に係る水銀使用工場です。

クロルアルカリ工場(河口から 5 km上流)と塩ビモノマー工場(河口から 4 km 上流)は小矢部川右岸で約1 km離れて操業していました。河口から 2.5 km上流に城光寺橋が通っています。クロルアルカリ工場と塩ビモノマー工場の中間地(A)、塩ビモノマー工場と城光寺橋の中間地(B)、それぞれの右岸と対岸(左岸;川幅 60 m)の底質を採集し、水銀分析を行っています。総水銀濃度は、A右岸;11.7 ppm,B右岸;5.4 ppm,A左岸;2.4 ppm,B左岸;1.6 ppmです。メチル水銀濃度はA右岸;0.014 ppm,B右岸;0.002 ppm,A左岸;0.001 ppm,B左岸;0.002 ppmです。クロルアルカリ工場の廃液が水銀負荷源である可能性は高いです。しかし、底質の採集地Bからだけでは塩ビモノマー工場の廃液が水銀負荷源であるか否かを検討することは出来ません。A右岸の総水銀濃度に対するメチル水銀濃度(MeHg/THg)は 0.12% (0.014/11.7)です。一般的な微生物のメチル化能(1/106)より高いことから、クロルアルカリ工場の廃液がメチル水銀を含んでいた、あるいは微生物が水銀耐性能を獲得したことなどが考えられます。B左岸のMeHg/THgは0.125%(0.002/1.6)であり、A右岸からの流出(塩ビモノマー工場から 400 m;城光寺橋手前 1.1 kmで小矢部川は蛇行している)がB左岸に届いたのかもしれません。また、工場廃液と関連しないと考えられる小矢部川流域 8か所の底質の総水銀濃度は、1ヶ所のNDを除くと、中央値1.6 ppm,範囲 0.9~2.7,例数 7です。メチル水銀濃度は、ND;2ヶ所,Tr(0.001 ppm 未満);4ヶ所,0.001 ppm;2ヶ所です。

クロルアルカリ工場(河口から 5 km上流)と塩ビモノマー工場(河口から 4 km 上流)は小矢部川右岸で約1 km離れて操業していました。河口から 2.5 km上流に城光寺橋が通っています。クロルアルカリ工場と塩ビモノマー工場の中間地(A)、塩ビモノマー工場と城光寺橋の中間地(B)、それぞれの右岸と対岸(左岸;川幅 60 m)の底質を採集し、水銀分析を行っています。総水銀濃度は、A右岸;11.7 ppm,B右岸;5.4 ppm,A左岸;2.4 ppm,B左岸;1.6 ppmです。メチル水銀濃度はA右岸;0.014 ppm,B右岸;0.002 ppm,A左岸;0.001 ppm,B左岸;0.002 ppmです。クロルアルカリ工場の廃液が水銀負荷源である可能性は高いです。しかし、底質の採集地Bからだけでは塩ビモノマー工場の廃液が水銀負荷源であるか否かを検討することは出来ません。A右岸の総水銀濃度に対するメチル水銀濃度(MeHg/THg)は 0.12% (0.014/11.7)です。一般的な微生物のメチル化能(1/10)より高いことから、クロルアルカリ工場の廃液がメチル水銀を含んでいた、あるいは微生物が水銀耐性能を獲得したことなどが考えられます。B左岸のMeHg/THgは0.125%(0.002/1.6)であり、A右岸からの流出(塩ビモノマー工場から 400 m;城光寺橋手前 1.1 kmで小矢部川は蛇行している)がB左岸に届いたのかもしれません。また、工場廃液と関連しないと考えられる小矢部川流域 8か所の底質の総水銀濃度は、1ヶ所のNDを除くと、中央値1.6 ppm,範囲 0.9~2.7,例数 7です。メチル水銀濃度は、ND;2ヶ所,Tr(0.001 ppm 未満);4ヶ所,0.001 ppm;2ヶ所です。

ウグイ、フナ、コイ、およびナマズの総水銀濃度が測定されています。フナ、ウグイ、およびナマズの採集日は1968年6月です。ウグイ、フナ、およびコイについては平均値(検体数1~3)の記述ですので、地理分布の統計学的検討ができません。ナマズの場合、検体数は2か3ですが、総水銀濃度の中央値と範囲が記述されています。これは、検体別の体長と総水銀濃度のデータが記述されていることになりますので、地理分布の統計学的検討を行いました。

ナマズの採集地;1. 国條橋(小矢部川河口から 5 kmのクロルアルカリ工場からさらに 5 km)、2. 国東橋(1より 2.5 km)、3. 五位橋(2より 1.5 km)、4. 小矢部橋(3より 6.5 km)、5. 津沢堰堤(4より 9 km)、5より 2.5 kmで山田川が合流、6. 岩木橋(合流地より 2 kmの小矢部川)、および7. 存覚橋(合流地より2 kmの山田川)です。国東橋の検体数は2です。他はすべて3です。

ナマズの総水銀濃度の国東橋から国條橋に掛けて、小矢部川は大きく蛇行しています。国條橋は国東橋を過ぎて800m先で蛇行が始まり、600mの半径の半円の終わりが国條橋です。そこからまた、一辺が800mの正三角形(底辺が陸地)の角を丸めた蛇行が続いています。すなわち、国條橋右岸がナマズにとっての最良の漁場(流れが停滞する地?)として期待されます。一方、国東橋は蛇行前の真直ぐな流れ(速い?)であったことが、総水銀濃度に反映したのかもしれません。ここは、川魚生態学の専門家に考察をお願いしたいところです。

対照地としての上市川(採集日;1968年7~8月)のナマズの総水銀濃度が報告されています。検体数23,中央値0.68,範囲(0.36-2.30)です。体長の記載がないので統計的な差の検討はできませんが、青木は算術平均での小矢部川流域(1.10)と上市川(0.92)間の差は有意でない、と報告しています。稲イモチ病対策の水銀系農薬の散布時期の採集であったことは、考察に取り入れていません。しかし、国條橋から岩木橋(存覚橋)間の河川水に工場廃液が加わらないので、上市川を対照地として記載したのは工場廃液が水銀負荷源と予断していたということでしょう。青木は、フナとウグイの総水銀濃度ppmの算術平均値において、いずれも有意に小矢部川流域(フナ;0.49,ウグイ;0.58)>上市川(0.32,0.19)であった(p<0.01・p<0.01)、と報告しています。

実際のフナとウグイの採集地(位置関係はナマズの採集地などを参照してください)と総水銀濃度ppm(例数,中央値,範囲)を列記します。フナ;国條橋(25,0.58,0.08-1.20),ウグイ;C;クロルアルカリ工場と塩ビモノマー工場間(5,0.40,0.14-0.70),D;河口に近いクロルアルカリ工場と城光寺橋間(5,0.20,0.14-0.36),国條橋(25,0.68,0.04-1.40),津沢堰堤(5,0.26,ND-0.55),五位橋(5,0.15,0.09-0.20)です。

統計解析は出来ませんが、明らかに国條橋のウグイの総水銀濃度が最高です。フナは国條橋だけの測定です。そうすると、小矢部川流域>上市川であるとした算術平均値の差は検体数の多い国條橋のデータに引っ張られたものということになります。地理分布を無視した平均値の検定は情報バイアスの塊です。工場廃液の影響を無視できない2ヶ所と国條橋のデータを外した津沢堰堤と五位橋のウグイの総水銀濃度(10,0.15~0.26,ND-0.55)は上市川(ウグイ;25,0.18,ND-0.53)のそれらと同等ではないでしょうか。上市川のフナは25,0.29,ND-0.74です。津沢堰堤と五位橋のフナのデータは有りませんが、両者の総水銀濃度が同等であった可能性は否定できません(調査計画に含まれていたが、国條橋以外のフナの採集が出来なかったのでしょう)。小矢部川流域と上市川流域の共通点として水田耕作をしているということは外せないでしょう。水銀系農薬が水銀負荷源のひとつであった可能性は十分あるでしょう。国條橋とて最寄りのクロルアルカリ工場から5 km上流に位置しています。クロルアルカリ工場からの工場廃液の影響を考慮して選ばれた2ヶ所の採集地(C&D)のウグイの総水銀濃度が国條橋のそれらより低いことから、工場廃液だけが水銀負荷源であると説明することは無理だと思います。

これまでのメチル水銀汚染に関する海生研OB会HPへの投稿において、必ず水銀系農薬が水銀負荷源として登場してきました。疫学上の因果関係の評価における「関連の一致性=全国何処でも」,「関連の時間性=水銀系農薬の使用量低下&使用中止とともに汚染レベルの低下」,そして「関連の強固性=米作地帯で顕著な汚染⇔阿賀野川・関川」を説明してきました。

残っているのは「関連の特異性=河川水が流れ込む閉鎖系内湾でメチル水銀汚染が発生する⇔鹿児島湾徳山湾不知火海」に関して、東京湾琵琶湖におけるメチル水銀汚染のことを投稿する予定です。「関連の整合性」に関しては、酢酸フェニル水銀系農薬の空中散布によって相当量(定量的ではないが⇒保存中のセレサン石灰中の添加Hg量の低下することは報告しました)のメチル水銀が生成したことを証明すれば、ますますゴールが近づくと思います。しかし、これとて、酢酸フェニル水銀系農薬からメチル水銀が生成しなければメチル水銀汚染は発生しなかったのだから、既に、事実・事件として逆方向から証明しているといっても過言ではないと思います。いよいよ、全国のメチル水銀汚染の投稿が終わりに近づいています。もう少し、お付き合いください。

公開日 2019年2月8日作成者 上述したようにメチル水銀・エチル水銀の定量は不安定でした。川崎らは川魚中のエチル水銀濃度を当時の最新機器として登場したECD-GCで測定しています。試料ホモジナイズから塩酸-ベンゼンで有機水銀を抽出しています。塩酸の塩素イオン(Cl)が過剰であるため塩化メチル水銀および塩化エチル水銀として抽出されるのでECD(electron chapter detector;電子捕獲検出器)が適応できるとしたものです。当時の最新技術を導入した分析法ではありますが、論文記述の有機水銀分画の精製法では有機水銀以外の有機物が混入した可能性が否定できません。GC分析そのものがRT(retention time;保持時間)だけが定性情報です。したがって、エチル水銀とほぼ同じRT物質を全てエチル水銀として定性・定量するという誤差の存在を否定できません。工場廃液が流入する神通川下流で川魚に高濃度エチル水銀が検出されています(ウグイ;0.69 ppm,アユ;0.09 ppm)。工場下流の熊野川でエチル水銀が検出されたのは当然でしょう(ウグイ;1.54 ppm,アユ;0.35 ppm)。高濃度であれば、GCピークも高く先鋭なので、定量値は比較的正確だと思います。一方、廃液の非流入域の各河川の川魚のいずれからも低濃度ですがエチル水銀を検出しています。ウグイ・アユは回遊・遡上をしますので、一時的であっても神通川下流も生息域なので、エチル水銀が検出される可能性は否定できません。しかし、神通川下流から40 km以上も離れた宮川や高原川のウグイ・アユでもエチル水銀が検出されています。珪藻苔を食むアユにエチル水銀が含まれていたのであれば、その環境水・土壌にもエチル水銀が含まれていたことを示す必要があります。川崎らは、神通川流域の河川底質、および流域土壌の水銀分析(総水銀&有機水銀)をしています。しかし、工場廃液排出地以外のどの神通川流域でも、しかも神通川下流の神通大橋の底質からも有機水銀(メチル水銀・エチル水銀を分別定量していない)を検出していません。


第六章 東京湾・琵琶湖(閉鎖系水域)

東京湾および琵琶湖の海底・湖底の柱状堆積物試料の層別の210Pb(半減期;22.3年)の放射能(Bq/kg;単位当たりの放射能の強さ;ベクレル)とHg濃度(ppb)を測定することで、それぞれのHg堆積量の経年的変動が調査されています。2人の研究者はこれらのHg堆積量の経年変動が水銀系農薬の使用に依存したものと報告しています。水銀系農薬が環境への水銀負荷源であると報告した数少ない研究を紹介します。

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東京湾

坂田は、東京湾への年間水銀総堆積量が495kgであり、東京湾の一年間における日常的なHg出納の内訳は、河川水および大気から70kg、および37kgが入り、海水排出および海面からの昇華で13kg、および49kgが出ていくことを観測によって推定しています(坂田昌弘,東京湾における水銀汚染の現状とその負荷源,日本海水学会誌,60,147-151,2006)。したがって、Hgの年間堆積量と出納量との差である入量450kgが、洪水などの増水時の河川水で運ばれる土壌に含まれていると推定し、1950年代から大量散布された農薬水銀が主な負荷源であろうと報告しています(坂田,ibid,2006)。

東京湾海底柱状堆積物(葛西臨海公園の南東約7km地点で採取;70 cm柱)における水銀濃度の年代別(表面から 4 cm=2000年,54 cm=1900年)測定は、水銀の負荷が1950年代の半ば(1950年;350 ppb,1955年;450 ppb)から急速に増え、1970 年代代前半(1972年;1150 ppb,1974年;1100 ppb)をピークに1980年(750 ppb)までに急速に減少し、1980年以降の低下が緩慢(1984年;550 ppb,2000年;500 ppb)であったことを示しています(坂田昌弘,ibid. 2006)。

海底堆積物中の水銀濃度が急増した1950年代後半からは稲イモチ病対策の水銀系農薬の大量散布があり、水銀法(*1)によるカセイソーダ(NaOH)生産が1973年(有明海第三水俣病問題発生年)まで席巻していました。例えば、1970年の我が国における水銀法用の水銀使用量は 887㌧(全使用量1270㌧の70%)で、農薬使用量は 8㌧(*2)でした(非鉄金属等需要統計年報,1970)。

(*1);食塩水の電気分解で、水銀陰極にNa・Hg;ナトリウム・アマルガム(NaとHgの合金)が生成し、黒鉛陽極にCl2;塩素ガスが発生します。Na・Hgを水に溶かすとNaOH(50%濃度)とH2が産生され、Hgは回収できます。産生したカセイソーダをクロルアルカリと呼んでいます。;純度が高い上に収量効率も高いので、欧州では未だに水銀法によるカセイソーダ生産が続いていますが、2020年までに水銀法を全廃するという目標を掲げています。;本OB会HPの徳山湾第四水俣病問題で記したように、徳山湾のメチル水銀負荷源のほとんどは水銀系農薬だと考えています。水俣病問題に敏感な国民の関心を「水銀系農薬」から逸らすために、「水銀法」が身代わりになったのではないかと思います。上記したように諸外国では未だに「水銀法」が使われています。諸外国で水俣病問題が発生しないのは、魚食量が少ないだけの理由とは考えにくく、無機水銀のメチル化効率がそれほど高くないことの裏付けと考えられます。

(*2);幾つかの報告書を総合的に判断すると、1968年末には水銀系農薬の製造が中止状態だったと考えられます。しかし、実際の統計には1970年で8㌧の水銀で水銀系農薬が細々と製造されていたようです。昭和28年(1953)から昭和44年(1969)までの17年間に水銀系農薬に使われたHg量は6,800㌧です(参議院質問第10号 農薬及び肥料中における重金属等有害物質の含有状況ならびに使用実績に関する質問主意書,峯山昭範,昭和48年7月19日)。

水銀系農薬は1966年に最も使用されました。したがって、坂田が示した1970年代前半のそれらのピークには、NaOH生産に使用した水銀の非回収分が相当量含まれていたと考えられます。海底堆積物中の水銀濃度が低下し始めた1970年代の日本では、水銀系農薬の生産・販売・輸入が禁止され、NaOH生産も水銀法から隔膜法(石綿で陰極側と陽極側を仕切る)やイオン交換膜法に転換されています(1985年まで水銀法生産が続きましたが、翌年、「水銀法」は全廃され、「隔膜法」に使う石綿も人体に有害なため、1999年には全て「イオン交換膜法」に転換されました)。そうすると、1985年以降の緩慢な低下は、農地に残留・堆積していた水銀の東京湾への河川水による運搬が続いたことを説明しています。正に東京湾海底堆積物の水銀濃度変動が人工的な水銀使用量の変動に依存していることを支持しています。

海底堆積物水銀の圧倒的大部分の化学形態は無機水銀であると考えられますが、それらが高率でメチル化したとは考えにくく、魚介類を濃厚に汚染することはなかったでしょう。大気や河川からの水銀の負荷によって東京湾海水中には14 kgの水銀が溶けているそうです(坂田昌弘,ibid. 2006)。東京湾の海水量(内水面積960km2×平均深度15m = 14,400,000m3)から、その平均濃度は約1.0 ng/Lと算出できます。2004年から2006年の3年間の水俣湾海水中溶存態メチル水銀濃度は 0.10 ng/Lです(松山明人,NIMD Forum 2010)。そして同時期の水俣湾のカサゴ総水銀濃度は0.31 ppm(熊本県報告,2010)です。溶存態メチル水銀濃度1.0 ng/L海水は間違いなく濃厚汚染レベルです。坂田(2006)は東京湾の海水中メチル水銀濃度を測定していませんが、東京湾海水中溶存水銀に占めるメチル水銀の割合は1%にも届かなかったと予想します。また、河川水で東京湾に運ばれるHgのほとんどが無機水銀と考えられます。実際、現在、東京湾産魚介類のいずれもメチル水銀汚染魚として漁業規制されていません。

一方、稲イモチ病対策の水銀系農薬の散布は7月中旬から9月上旬の夏季に集中します。その為、1950および1960年代の夏季に河川水によって運ばれた水銀の相当な部分がメチル水銀であった可能性は十分あったでしょう。1969年の群馬県の利根川流域で採集された川魚(ウグイおよびオイカワ等)の平均総水銀濃度が0.49 ppm、水俣湾の魚介類(アサリおよびキス等)のそれらが 0.57 ppmと報告されています(厚生省,1969)。魚介類が生物濃縮する水銀のほとんどがメチル水銀であるため、魚介類の総水銀濃度はメチル水銀濃度と換言することができます。水銀使用工場および水銀鉱山が無く、水量の多い利根川のような河川のメチル水銀レベルが、水俣湾と同等に達した負荷源としては、酢酸フェニル水銀系農薬の散布に由来するメチル水銀が水田から河川へ流出した可能性が高いことが示唆されます。なお、東京湾のスズキは1973年7月に水銀汚染魚として漁獲等の規制対象となっています(文献を提示できません。筆者の記憶です)。汽水域はスズキの生態系の一部ですし、時には河川を遡上するといいます。農薬由来のメチル水銀に汚染された可能性が高いと考えます。

1998年11月~1999年4月に掛けて、東京湾内(湾奥・湾央・湾口)でシロギス、マコガレイ、およびマイワシを採集し、その総水銀濃度を測定しています(張瑞軍ら,東京湾とその周辺海域における魚の水銀濃度,日衛誌,56,492-499,2001)。総水銀濃度は、シロギス(場所,例数,中央値ppm,範囲ppm;湾奥,30,0.031,0.019-0.089,湾央,30,0.031,0.008-0.092,湾口,30,0.030,0.017-0.062)、マコガレイ湾奥,29,0.045,0.008-0.065,湾央,30,0.016,0.007-0.037,湾口,26,0.019,0.006-0.036)、およびマイワシ湾奥,29,0.027,0.005-0.045,湾口,31,0.011,0.001-0.018)です。1999年の東京湾環境のメチル水銀は、すでに環境レベルに落ち着いています。また、張らの調査では、上記3魚種の体長(X)と総水銀濃度(Y)について回帰式を求めています。各魚種で最大の相関係数が得られた例を記します。シロギス(湾央;Y=0.01X-0.088,r=0.82;p<0.001),マコガレイ(湾奥;Y=0.0030X-0.25,r=0.73;p<0.001),およびマイワシ(湾奥;Y=0.0022X-0.015,r=0.28;p=0.14)であり、東京湾のマイワシは遠距離の移動をしない瀬付きイワシと説明されています(張瑞軍ら,ibid,2001)。マイワシはメチル水銀の生物濃縮において食物連鎖経由が占める割合が小さいことが示されています。

ところで、1999年の鹿児島湾では、シロギス(例数10,算術平均値0.13ppm,最大値0.20ppm)、メイタガレイ(7,0.05,0.06)、およびカサゴ(2,0.35,0.36)の総水銀濃度です(鹿児島衛生研究所年報,2000)。カサゴは2例ですが、その値は水俣湾のそれらと同じレベルです。東京湾産魚類の総水銀濃度と単純に比較すると、鹿児島湾産魚類のそれらが相当に高く、メチル水銀負荷源として桜島海底火山説が正しいようにもみえます。しかし、1974年7月~11月のタチウオ(5,2.89,6.13)の水銀レベルが大幅低下したにもかかわらず、1980年代の桜島の活動が非常活発だったことから、「関連の一致性」は水銀系農薬由来のメチル水銀の減衰の方にあると言えるでしょう。また、鹿児島湾、とくに湾奥はカルデラ地形である上に、西桜島水道(水深40m)が湾奥カルデラで発生する夏季の温度躍層(0~80m)下の湧昇流を遮っていることから、閉鎖性は鹿児島湾(湾奥)が東京湾よりも大きいと推測できます。水域の閉鎖性水銀汚染のひとつの要因であることが期待できます。不知火海もそれなりに閉鎖していますが、水俣湾は不知火海に囲まれた内湾なので、その閉鎖性はかなり強いです。1958年12月までの急性水俣病患者はすべて水俣湾沿岸住民からの発生でした。水俣湾外の不知火海沿岸住民からの急性水俣病患者の初発は、工場廃液の排水が1958年9月から水俣湾内の百間港から水俣湾外に面した八幡プール(水俣市八幡町)への変更後、6か月経った1959年2月のことでした。

琵琶湖

横田らが2000年7月10日に近畿大学と共同で琵琶湖(比良沖中央)の水深53m地点から湖底堆積物の柱状採取を行い、その堆積年代を210Pbの層別放射能で推定し、底泥中水銀濃度の経年変動の様態を報告しています(横田喜一郎ら,微量化学物質に関する情報の整理,琵琶湖研究所所報,21,78-84,2003)。また、滋賀県の1963年~1967年における水銀系農薬中水銀の年間出荷量を調べ、水銀系農薬の使用状況を背景として底泥中水銀濃度の変動を説明しています。

湖底堆積物は20 cm柱で、表層が1998年(180 ppb)で最深部が1890年(67 ppb)と記されています。最深部から10 cmまでは1 cmがほぼ5年間で堆積しています。表層から3 cm間は堆積物の重みが掛かっていないらしく、1998年から1979年を示していますが、比重大の水銀負荷が多大だったと考えられる表層から7 cm ~6 cm~5 cmは1960年(227 ppb)~1963年(330 ppb)~1964年(380 ppb)と詰まっています。1944年までは 67~117 ppb(中央値 81 ppb)です。水銀のクラーク数は0.00002%=0.2 ppm=200 ppbですが、琵琶湖の湖底の自然濃度としては 80 ppb位だったと考えてよいでしょう。

実際、琵琶湖沿岸地域に水銀使用工場および水銀鉱山が無いことから、カセイソーダ生産のあった東京湾沿岸の場合とは異なり、ピークは1970年代前半の1969年層(1969年~1978年;346 ppb)になく、1964年層(1964~1968年;380 ppb)にあります。1965年6月(or 5月31日)に公表された新潟水俣病を受け、1966年と1967年に水銀系農薬の使用を抑制するために、農林省は非水銀系農薬使用促進を通達しています〔非水銀系農薬の使用促進について(昭和41年5月6日付け41農政B第802号)(昭和42年5月23日付け42農政B第1072号)〕。また、水銀系農薬の空中散布は1968年に禁止されました。水銀系農薬の実質の生産中止は1968年末で、販売と実質の輸入禁止は1973年10月です(*3)。水銀系農薬の販売および実質の生産・輸入は禁止されましたが、使用禁止は販売(・生産・輸入)の禁止措置に伴う間接的なものでした。2003年3月の農薬取締法改正によって初めて水銀系農薬の使用による罰則が規定されましたが、それまでは罰則がないので、手持ちの水銀系農薬は使用していたと考えられます。

(*3);農薬は登録制です。登録されていない農薬は無登録農薬と呼ばれ、2003年の農薬取締法改正までの法令上は「販売禁止」だけだったようです。実際、水銀系農薬が環境へのメチル水銀負荷源と気付いてからの行政措置は、「非水銀系農薬の使用促進」⇒「空中散布の禁止」と、その進み具合(計画)は農薬製造業者の都合に合わせた予定表といってよいでしょう。そこで水銀系農薬の生産が必然的にほぼ中止されました(上記した1968末の製造禁止は「法」改正ではなく、実際に生産を中止せざるを得なかったということです)。有明海第三水俣病問題が1973年5月22日に報道されたことと、その年の10月に販売・輸入の禁止(実質は農薬登録外措置)が連動しているように見えますが、偶然だったのではないかと思います。2003年の法改正は、2002年に無登録農薬の殺菌剤「ダイホルタン」が山形のサクランボ栽培に使われていたことが判明し、大量のサクランボが廃棄されたことが発端だったとの記憶です。東大の農場で酢酸フェニル水銀系農薬が種モミの殺菌に使われていたことが2008年に報道されました。使用したのは1997~1999年、および2004~2008年でした。2003年以降は罰則付き使用禁止だったので、農場長(教授)は2か月の停職、部下5人は諭旨解雇と処断されたようです。

琵琶湖底泥水銀濃度は1955~1959年層と1988~1994年層が同じレベルであり、1955~1959年層(208ppb)から1964~1968年層(380ppb)までの172 ppbの増加に13年間を要ししています。一方、1964~1968年層(380ppb)から1988~1994年層(206ppb)までの174 ppbの減少に、30年間掛かっています。

横田らは滋賀県における1962年から1967年の年間当たりの水銀系農薬の出荷量をHg量で報告しています(横田ら,ibid. 2003)。1962年;1854(Hg・kg/年),63年;2559,64年;2969,65年;3448,66年;2854,67年;4310です。1966年の非水銀系農薬の使用促進通告によって水銀系農薬の出荷量が減っています。しかし、1966年の米収穫量が思わしくなかったのか、あるいは水銀系農薬の購入が出来なくなるとの予測があってのその確保の為か、翌1967年には1965年の1.25倍(1966年の1.5倍)の出荷量になっています。出荷量はそのまま使用量ではありません。セレサン石灰の使用量は10㌃当たり3 kg【酢酸フェニル水銀量では12.6 g=3000 g×0.0042⇒水銀量では7.5 g=12.6 g×200.59(Hg分子量)÷336.734(酢酸フェニル水銀分子量)】が推奨量です。出荷の最終年が1967年とすると、5,746,700㌃ = 57,467㌶の水田への散布推奨量になります。滋賀県の昭和45(1970)年度の水田面積は65,700㌶でした(しがの農林水産業 平成28年度,滋賀県)。滋賀県の全ての水田に酢酸フェニル水銀系農薬が散布されてはいなかったようです。自家消費用の水田には撒かなかったのでしょうか?

このように稲イモチ病対策の水銀系農薬の経年的な散布の有無の直接的確認はできません。琵琶湖底泥水銀の変動は、表層から4cm(1969年;346ppb)、3cm(1979年;262ppb)、そして2cm(1988年;206ppb)、と示されています。1963年から1964年の1年間に50 ppb(380-330;1.15倍=380/330,出荷量比 = 1.16= 2969/2559)上昇し、1964年から1969年の5年間に34ppb(380-346)低下し、1969年から1979年の11年間に84ppb(346-262)低下し、1979年から1988年の10年間に56ppb(262-206)低下しています。琵琶湖周辺の水田から各河川水(流入河川数は119)により湖内へ運ばれる水銀量が急激にではなく徐々に減少したことを示唆しています。したがって、水銀系農薬散布使用量もまた徐々に減ったと考えられます。琵琶湖の水は唯一南端の瀬田川から宇治川⇒淀川となり大阪湾に流れ出ています(人工的には琵琶湖疏水も流出経路ですが、京都市の水道水源でもあり、懸濁物は流れ出るでしょうが、土砂の流出は限定的だと思われます)。したがって、琵琶湖への119の河川水によって運ばれた水銀系農薬が直線的に瀬田川水系に向かうとは考え難く、それらが未だ湖底に堆積したままだと考えます。

2014年の琵琶湖産ビワコオオナマズに0.856 ppm、ふつうのナマズマナマズ?)に0.42 ppmの総水銀が含まれていたという記事がありました(AERA,2014.3.17)。筆者は琵琶湖湖底の残留水銀のメチル化がその負荷源だと考えます。記事では水銀負荷源は中国から飛来する石炭燃焼に伴う水銀としています。記事中の研究者が主張する因果関係の評価は「関連性の一致性」として全国の山岳地帯で中国からの飛来浮遊物質由来の水銀が計測されていることを挙げていますが(AERA,ibid)、水銀汚染魚の存在が中国からの飛来水銀によるのであれば、「関連性の一致性」は琵琶湖以外の各地の湖沼にも水銀汚染魚が存在していることを示すことでなければなりません。中国で燃焼させた石炭由来の水銀というのであれば、先ず中国本土の水銀汚染(閉鎖系湖沼の魚介類の水銀レベル)が尋常ではないことを示して「関連の強固性」の評価をするべきでしょう。環境系の研究者から疫学的思考が飛散すると悲惨な結論が産みだされるように思います。

現役の水銀・環境研究者の脳裏から、全国で水銀系農薬が大量散布されたという事実が消え去っているのでしょうか。確かに、水銀系農薬のことを持ち出せば、研究費の獲得は望めないでしょう。結局、水銀系農薬の環境汚染に関しては、世間の藻屑となっているのかもしれません。それでも海生研OB会の皆様に伝わっていることを考えると、海生研OB会HPの管理人氏に足を向けて眠れません。鹿児島からは北方向の枕になります。北枕になってしまわないうちに、「農薬水俣病」を含めて、まだまだ投稿していくつもりです。

公開日 2019年2月16日作成者 tetuando


最終章 総合的考察(雑感)

我が国におけるメチル水銀汚染における汚染源の中心に稲イモチ病対策に水銀量として6800㌧も使用された「セレサン石灰」をはじめとする酢酸フェニル水銀系農薬があると主張してきました。最終章では、これまで正しく「公害」であると世界中に報告されている熊本水俣病と水銀系農薬の関わりに気付いた背景などをお伝えしたいと思います。

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1956年(昭和31年)5月1日、水俣市月浦(ツキノウラ)地区読谷(ヨミタン)の5歳4か月の姉と2歳11か月の妹の幼い姉妹を含む4人の原因不明の脳(精神・神経)症状を伴った患者の入院が、新日本窒素肥料(社名→チッソ→JNC)水俣工場附属病院から水俣保健所に届出がありました。それ以前から地元では、大人に脳症状を伴ったヨイヨイ病(患者の様子・症状が踊っているようであったことから、そう呼ばれた/ネコの症状に対しても猫踊り病と呼ばれることもあった)・つきのうら病(月浦地区の住民に特異的に発症したように伝えられる)と呼ばれる奇病がありました。しかし、それらは、まさに大人の精神病ととらえていたのです。水俣保健所に届けたきっかけは、幼い子供に(精神病というべき)脳症状がみられたことにあります。精神病は精神(人のこころ)に邪気が入り込むことによって発症すると考えられてきました。罹るはずはない無邪気な子どもが罹ったことを深刻に受け止めたのが附属病院の細川一(ハジメ)病院長だったということです。

この1956年5月1日は水俣病の公式確認日とされています。2006年からは5月1日を公害としての水俣病を忘れないために「水俣病啓発の日」とし、毎年、慰霊祭などが行われています。

その後の調査によって、5歳4か月の姉(三女)と2歳11か月の妹(四女)の発症前に、すでに1953年12月の5歳11か月の女児の初発を含む10歳以下の女児8(前出の姉妹を加えると10)人、男児10人の小児水俣病患者、1954年5月の39歳男性の初発を含む男性29人、女性16人の急性水俣病患者、および女児3人、男児4人の胎児性水俣病患者が1956年12月までに発生したことが報告されています。これら小児および成人の急性患者は全て水俣湾沿岸住民であり、水俣湾外の出水市や津奈木町はもちろんのこと、水俣湾外の水俣市民からの急性患者の発生は記録されていません。この時、急性患者の性比が、魚食量の性比に由来しているのではないかと考えました。小児の魚食量には性差がほとんどないと考えられます。男児・女児で同等の魚食量(男児≒女児)が、小児水俣病患者発生数における男児10人・女児10人をもたらしたと考えられます。一方、成人の魚食量は 男性> or ≧ 女性と考えられます。しかし、このようにわずかな魚食量の性差でありながら、急性患者発生数が男性29人:女性16人≒2:1の分布です。メチル水銀暴露量は魚食量×彼らが摂食した魚介類のメチル水銀濃度です。水俣湾の魚介類のメチル水銀濃度が極めて高かったことが想起されます。

この急性および胎児性水俣病患者の発生地と発生年月の記録(報告)は1979年発刊の「青本」と呼ばれる「水俣病-20年の研究と今日の課題,有馬澄雄編,青林舎,1979」に掲載されています。しかし、この記録を読み解く上で、1956年12月までの急性患者が全て水俣湾沿岸住民であったことに気付いたのは最近のことで、気付くのにほぼ40年という時間を要しました()。これに気付いておれば、少なくとも現役時代に「我が国におけるメチル水銀汚染」をまとめることが出来たのではないかと思います。もちろん、熊本水俣病にも水銀系農薬の散布が関わっていることは、早くから予想していました。例数は少ないのですが、「青本」に掲載の臍帯中メチル水銀濃度の記録から4月~6月生まれのそれらが最小の季節差があることは確認出来ていました。この季節差を見出した時は、世間の常識がひっくり返ると思ったものです。()胎児性患者の初発時期は水俣湾内・湾外(出水/芦北)で、ほぼ同じです。すなわち、母(妊婦)のメチル水銀暴露量が同じという事実にしっかり惑わされていました。メチル水銀暴露量が魚食量×摂食した魚介類のメチル水銀濃度であることを、ふっ飛ばしていました。

しかし、「工場廃液説」の牙城はそんな季節差(新説ならまだしも珍説のたぐい)で崩れるものではありません。4月~6月に最小の季節差を水銀系農薬散布が原因で発生したと得意げに挙げても、冷静に「7月~9月が最高か」と問い返されます。「工場廃液説」が研究者のみならず世間一般(教科書も)に支持された「公害の原点としての熊本水俣病」の標語なので、「冷静に」に対応できるようです。実際、稲イモチ病対策の水銀系農薬の散布は7月・8月なので、「7月~9月が最高」が疫学における因果関係の評価では、「関連の特異性」を評価する上の真の特異性であるべきです。「散布時に特異的汚染される」のであって、「散布時直前は特異的に汚染されない」とは言えません。統計的結果として「散布時前に汚染レベルが低かった」ことを指摘しただけのことです。

「青本」掲載の臍帯中メチル水銀濃度の例数は57です。出生地は水俣地方住民と記されています。実は、やっと手に入れた季節差は地理分布を検討していなかったのです。時間・地理分布の無い疫学は、捏造ではありませんが、真実を導きだす保障が無いだけでなく、偶然得られた結果を蓋然性がある事象と判断した場合(4月~6月は7月・8月の水銀系農薬散布の直前なので汚染レベルが最も低い⇔一見、蓋然性は有りそう)、分析者(&o)は沼にはまってしまいます。正に、独り善がり説として「農薬説」を展開していたことになります。当時は、地理分布を検討していないことに気付いてなかったのです。「青本」の水俣地方住民という表のタイトルを勝手に水俣湾沿岸住民と読み取ることのリスク(危険性・バイアスというより誤り・エラー)を知らなかったということです。

2009年と2010年に続けて二人の水俣病研究者による原田正純先生の集めた臍帯のメチル水銀濃度についての論文が科学雑誌に掲載されました。二人の研究者のうちの一人は、原田先生と共同研究として投稿していましたが、もう一人は、原田先生の臍帯中メチル水銀濃度のデータに自分で集めたそれらのデータを加えての投稿でした。そこで、&oは原田先生に原田先生のデータを使わせてもらえないかと手紙を書きました。すでに原田先生は病気療養中でしたが、直接電話をいただきました。「学園大の水俣学(紀要)にデータは全て載せてあるから自由に使ってよい」との言葉に、熊本学園大を訪ね、用意された紀要(水俣学研究,第1巻,第1号,2009)を受け取りました。臍帯中メチル水銀濃度の例数は299です。

掲載されたデータは、メチル水銀濃度・誕生日・出生地・分析者です。やっと時間分布と地理分布が検索できるデータに出会ったことになります。前出の2つの論文では、ともに時間・地理分布に関わる論旨が無いわけではありません。両論文ともに地理分布を、&oと同様に地域を出水・水俣・芦北の3地区に分類して検討しています。しかし、臍帯中メチル水銀濃度が高いほうから出水>水俣>芦北という結果が得られている理由について吟味が不足・欠落しています。後者の研究論文では、水俣が出水より低い理由として水俣で多くの死産があったとしています。部分的には正しい考察です。単に地理分布を扱っています。時間分布が組み合わさっていないのです。水俣で死産が多発したのは1955年~1959年の5年間に限られた動向です。また、出水、芦北における死産発生の動向は調査されていません。水俣市民の死産の多発は熊本県県民のそれらとの比較でしたが、芦北さらに出水との比較は為されていません。実際、チッソが工場廃液の排水を循環式(理論上、工場廃液が排出されない)にして以降の臍帯中メチル水銀濃度では、出水>芦北>水俣となっています。それなりに高名な研究者が、最上級とは言えないまでもそれなりのレベルの科学誌の査読を見事にかわし、掲載されています。

しかし、科学論文の基本は、疑問を論理的に解き明かした足跡を記載することです。論文に書かれたことが真実であるか否かについての吟味は、時の研究者の役割と考えています。正に今、先人が「公害」「自然汚染(水銀鉱山/火山)」とした「我が国におけるメチル水銀汚染」をひとりの研究者として様々な観点から見直しています。これまでの記述の全てが真実とはいえないでしょう。しかし、少なくとも真実に近づいていると思います。

2つの論文は原田データを解析したものです。両者ともに臍帯中メチル水銀濃度(対数値)とアセトアルデヒド年間生産量(千㌧)とで相関係数を求めています。相関係数は0.14と非常に弱いものの有意の正相関関係(p=0.039)があります。これは例数が227と大きいことで得られたのでしょう。アセトアルデヒド年間生産量の棒グラフと経年的な各臍帯中メチル水銀濃度を点描すると、高いレベルの臍帯中メチル水銀の動向とアセトアルデヒド年間生産量の棒グラフの先端(あるいは頂点だけの折れ線グラフ)とが妙に一致します。この相関の算出に使用した数値は個々の臍帯中メチル水銀濃度とアセトアルデヒド年間生産量です。例えば、1955年の10例の臍帯中メチル水銀濃度(最小値0.035~最大値2.258, ppm)に対して、アセトアルデヒド年間生産量は10.633(千㌧)というひとつの数値が対応しています。このような数値の取り扱い(時間分布に限定してもかたや誕生日、こなた年間)は間違っていますが、2つの科学誌に査読を受けた上で掲載されています。そんな些細なことが問題の本質ではありません。実際に地理分布を考慮してアセトアルデヒド工場廃液が流された水俣のデータ(例数64)だけで同様の相関係数を求めると-0.124(p=0.326)となんと負の相関係数が得られます。この実体は、二つの論文には載っていません。地理分布を導入せず3地域全ての臍帯中メチル水銀濃度とアセトアルデヒド年間生産量との間には有意の正相関関係があり、本命の水俣だけでは(有意ではないが)負相関関係があるというのは事実ですが、説明出来ないので取り扱わなかったのでしょう。実際には、出水および芦北の臍帯メチル水銀濃度が水銀系農薬の使用量()と正相関していたことの寄与によって得られた地理分布を考慮しない時間分布の結果であったことを統計結果(重回帰分析)で確認しています。()アセトアルデヒド生産量および水銀系農薬の使用量の経年動向が良く似ている。

これが水俣病研究の実態です。これまでの水俣病(メチル水銀汚染)の環境疫学的研究は、予断した原因(この場合、アセトアルデヒド工場廃液中のメチル水銀がメチル水銀汚染源である)を確かであると説明するのが中心でした。上記のように間違った比較で得られたアセトアルデヒド年間生産量と臍帯中メチル水銀濃度の有意の正相関関係を以って、アセトアルデヒド生産に由来する工場廃液中のメチル水銀が原因であると論じています。事実、工場廃液中のメチル水銀は水俣病の原因です。しかし、誰も工場廃液を飲食していません。環境疫学では住民の魚食量と魚食頻度、住民が摂食した魚介類のメチル水銀濃度(*1)を基礎データとして水俣病患者発生の時間・地理分布を検討するのが王道だと思います。しかし、原田データには児の母の魚食量・魚食頻度は聞き取られていません(多分に、魚介類の多食者と決め込んでいます;新潟水俣病の調査の時は、川魚の摂食量を-,±,+,++の4段階で聞いています→海産魚を無視している←汚染源が工場廃液と決めている)。多くの疫学者は頭髪や臍帯のメチル水銀濃度がメチル水銀曝露量の指標であるとして魚食量/回・魚食頻度を聞き取りません。メチル水銀曝露量は魚食量×摂食した魚介類のメチル水銀濃度ですが、魚食量が、少量×多頻度=多量×少頻度という同じ曝露量であれば、頭髪や赤血球中の水銀濃度、すなわち蓄積量は後者の方が大きいという結果を得ています。酒の肴として魚を食べるより、お茶(あがり)を飲みながらにぎり寿司の方がメチル水銀の蓄積量が少ないという結果も得ています(メチル水銀の吸収をアルコールが促進し、お茶のタンニン/カテキンが抑制します)。(*1) ;魚介類のメチル水銀濃度が計測されていることはめったにありません。しかし、魚食量/回・魚食頻度が同等である場合に、症状の軽重が明らかであれば、両者が摂食した魚介類のメチル水銀濃度は、症状の軽い者の魚<重い者の魚、と推測出来ます。疫学調査において魚食量/回・魚食頻度を聞き取っておくことの必要性を示していると思います。

1958年9月~1959年10月の14か月間、工場廃液は水俣川河口左岸側の八幡(ハチマン)プールに投入されました。プールというより実体は沈殿池であり、上澄み液は処理されることなく直接不知火海へ流れ出ました。廃液の懸濁物の沈殿による無機水銀の除去効果はかなり有ったようです。実際、八幡プール地先の底土の総水銀濃度は0.37および1.23 ppmと報告されています。同時に報告された百間港のヘドロは2010 ppmでした。

工場廃液のメチル水銀が直接不知火海へ流出し始めて7か月後に水俣湾外の不知火海沿岸住民から急性水俣病が発生しました。1959年3月、4月、6月、7月、および9月にそれぞれ1人ずつの急性水俣病患者(以下、急性患者と記す)が水俣湾外の水俣市民から発生しています。続いて、同年9月と10月に八幡プールから北東に5 km離れた津奈木村からそれぞれ2人ずつの4人、そして9月と11月に、それぞれ八幡プールから北東に10 kmおよび11 km離れた湯浦町と芦北町からそれぞれ1人の急性患者が発生しています。また、1959年6月、8月、および9月にそれぞれ1人の急性患者が八幡プールから南西に11 km離れた出水から発生しています。すなわち、水俣湾外の不知火海沿岸住民から14人の急性患者が発生しました。14人全員が男性であり、6歳男児を除く13人は33歳から67歳の成人であり、11人が漁師です。正に、一食当たりの魚食量が膨大な者への健康影響が顕著であったことを説明しています。それまで急性水俣病が連続発症していた時期の水俣湾沿岸住民の食べた魚のメチル水銀濃度と比べれば、このように八幡プールから直接不知火海へ工場廃液由来のメチル水銀が流出していた時期の水俣湾外の不知火海の魚のメチル水銀濃度の方がかなり低濃度だったことが示唆されます(*2)。6歳8か月の男児は津奈木村住民で10月に発症しています。水俣湾沿岸では5歳11か月の女児が初発患者ですが、この6歳児が不知火海沿岸住民での初発ではなく、14人中13番目の発症です。父親が重症の急性患者(12番目の急性患者)として診断されたとき、家族の診察中に水俣病と診断されています。父親が重症でなければ見逃されていたかもしれません。軽症という記録が残っており、メチル水銀毒性の閾値が低い(感受性が高い)ことによる発症と考えられます。(*2);百間港から水俣湾内に連続流出していた工場廃液に含まれたメチル水銀は、間違いなく水俣湾外の不知火海へ拡がり続けていたでしょうし、そのメチル水銀が食物連鎖を通して魚介類へ生物濃縮されたことも事実でしょう。しかし、その間、水俣湾外の不知火海沿岸住民は、漁師であっても急性水俣病を発症していません。魚介類のメチル水銀濃度を決定づけるのは、食物連鎖を経由した生物濃縮の基点である環境中メチル水銀濃度と言えるでしょう。不知火海の海水量は水俣湾のそれらの400倍超です。したがって、水俣湾の海水中メチル水銀濃度は、不知火海のそれらの400倍超であったと推測されます。水俣湾の魚介類のメチル水銀濃度が濃厚だったのは、水俣湾の海水中メチル水銀濃度が濃厚だったということでしょう。一方、実際に、魚の超多食者である漁師の急性水俣病発生の閾値を超えることがなかったのは、不知火海海水中メチル水銀濃度・魚介類メチル水銀濃度が、水俣湾のそれらと比べてかなり低濃度だったということが考えられます。ただし、急性患者が発生しなかった時期の不知火海沿岸住民から3人(出水2人・芦北1人)の胎児性患者が生まれています。妊婦の魚の超多食者にとって、流産/死産は避けられたものの、結果として胎児性患者の出生をもたらした魚介類のメチル水銀濃度だったということでしょう。胎児のメチル水銀感受性が最も高い(発症の閾値が最も低い・流産/死産の閾値はもっと低いと予想できる)ことを示唆しています。

工場廃液が百間港から水俣湾に流されている間に、メチル水銀は当然のように湾外の不知火海に流出したでしょう。先の研究者は、メチル水銀が食物連鎖を通して高度に生物濃縮されることが、不知火海への工場廃液によるメチル水銀中毒発生、すなわち水俣病が不知火海沿岸住民でも発生したと説明してきました。食物連鎖を通して魚介類にメチル水銀が生物濃縮されるのは事実です。しかし、先の研究者は定性的な説明に終始してきました。高度という言葉に惑わされます。1958年9月から工場廃液は直接不知火海へ流出しました。水俣湾外からの急性患者の初発は7か月後の1959年3月です。7か月の時間のずれを、先の研究者は食物連鎖によって生じたと説明してきました。一方で、急性患者の発生地の北上をカタクチイワシの回遊(北上)とそれらを食餌するタチウオのメチル水銀の濃厚汚染であるとも説明してきました。しかし、カタクチイワシ回遊説は、水俣湾南西の出水市の急性患者の発生時期を説明できません。1959年10月30日をもって工場廃液の八幡プールからの排出は止められました。食物連鎖に7か月の時間のずれがあるのであれば、 湾外への排水が止まってから7か月後の1960年5月まで、(水俣市民を含む)水俣湾外住民からの急性患者の連続発生がなかった理由を食物連鎖の時間のずれと説明するのでしょうか。実際の湾外住民の急性患者の発生は、芦北町住民の1959年11月で終了しました。上記したように芦北海岸は八幡プールから直線距離で北東に11 km離れています。南西に11km離れた出水市での発症は9月で止まっています。出水市の急性患者の発生を「工場廃液単独由来のメチル水銀」の食物連鎖やカタクチイワシの回遊説で説明するのは、まったく科学(海の生態系)を無視した論述と言わざるを得ません。疫学における関連の一致性(「工場廃液単独説」による食物連鎖説もカタクチイワシ回遊説も患者発生の地区毎の時間分布が工場廃液排出の時間分布と余りに異なっている)が得られていないとの反論・批判を受けることが無かったのでしょう。

「工場廃液単独説」では、工場廃液が不知火海へ直接流入していた一時期の1959年2月~10月に水俣湾外の不知火海で発生した魚の大量斃死を説明しきれないと考えています。1958年9月の工場廃液の直接的不知火海への排出から6か月を過ぎてから、1959年2月から3月に水俣地先で911 kg、4月から7月に水俣・津奈木地先で1,101 kg、および7月から10月に湯浦地先・芦北海岸・田浦海岸域で14,971 kgの魚が大量斃死しています。当然のように、工場廃液の直接的不知火海への流出から6か月経過後の魚斃死は食物連鎖に起因した時間のずれで説明しています。不知火海の潮の流れは基本的に対馬海流に依存するので北西へ向います。そんな潮の流れに乗って八幡プールからの工場廃液由来のメチル水銀も北西方向へ移動すると考えられます。一部は水俣川の河川水の流れに乗って天草御所浦方面へも流れます。魚の大量斃死が時間的に北西方向と御所浦方面に移動したことの説明になっています。さらに、これら魚斃死の中心がタチウオの大量斃死であったことから、先の研究者は、カタクチイワシの回遊が工場廃液由来のメチル水銀水塊の移動であるとし、工場廃液が原因と予断してきました。八幡プールからのメチル水銀によって汚染されたカタクチイワシを食餌とするタチウオの大量斃死が、その移動・回遊に伴い発生したと言い放っています。やはり、定性的解釈に止まっています。魚の大量斃死の時間・地理分布はカタクチイワシの回遊に伴って八幡プールから北西に移動するとの定性的説明は間違っていません。しかし、魚の斃死量は芦北海岸で水俣地先のほぼ16倍です。魚の斃死は8月・9月に芦北海岸で、9月・10月に田浦以南海域で発生していますが、水俣地先および水俣・津奈木地先では7月以降発生していません。これに対する先の研究者による説明はありません。平然と持ちだされるカタクチイワシの移動によってメチル水銀の濃厚汚染水塊もまた移動するという説明を世間が受け入れています。食物連鎖による生物濃縮によって(地理分布に依存しない時間のずれが生じると説明しておいて、突然、カタクチイワシの移動に起因して(地理分布に依存する時間のずれと説明し直しています。

それにしても、工場廃液は長い間、百間港から水俣湾内に流されていました。毎年のようにカタクチイワシは水俣湾内を回遊したはずであり、回遊中にカタクチイワシは濃厚なメチル水銀を鰓から取り入れていたでしょう。 とくに、水俣湾沿岸住民から急性患者が連続発生していた1956年~57年の水俣湾内でのカタクチイワシの汚染レベルは、八幡プールからの工場廃液由来のメチル水銀だけで汚染された湾外・不知火海沿岸のカタクチイワシの場合より高かったことが予想できます。にもかかわらず、1956年~57年の湾内で汚染されたカタクチイワシを食餌した湾外(芦北海岸・御所浦地先)のタチウオが斃死したという記録はありません。カタクチイワシのメチル水銀曝露の主体が食物連鎖ではなく鰓経由であったと考えられます。鰓経由のメチル水銀は赤血球に結合するので赤血球の寿命に依存して保持される魚体内のメチル水銀レベルが変わるでしょう。カタクチイワシが水俣湾内から芦北海岸に移動するのに3~4か月を要します。その間に、メチル水銀レベルの低い不知火海(水俣湾外・水俣地先)を回遊したカタクチイワシのそれらは低下したでしょう。とくに、水俣湾内環境のメチル水銀レベルが高かった1956年・57年の水銀系農薬の散布量は、その普及から日が浅いこともあってそこまで大量でなかったことから、水俣湾内で工場廃液のメチル水銀に濃厚曝露されたとしても、芦北海岸への移動の3~4か月の経過中に漸次その濃厚曝露の赤血球が新しい赤血球に取り替わり、赤血球のメチル水銀レベルは低下したでしょうそのようなカタクチイワシが水銀系農薬由来のメチル水銀に加重曝露しても、そのレベルではタチウオの斃死の閾値に達しなかったのではないでしょうか。

一方、八幡プールから津奈木・湯浦へのカタクチイワシの移動には1か月位掛かるでしょう。八幡プール地先で、湾内ほどではないがそれなりのレベルのメチル水銀に曝露されたカタクチイワシが、そのレベルを維持したまま7月・8月の水銀系農薬の散布に由来するメチル水銀(芦北海岸の7月~9月は濃厚レベルだっただろう)によって加重に曝露されたことで、一機にタチウオの斃死の閾値を超え、タチウオが大量に斃死したという構図が描けます。完全な定量的解析には到達できませんが、鰓経由・赤血球・寿命・3か月・1か月のうち、水産生理学者がカタクチイワシの赤血球の寿命を明らかにしてくだされば、相当な知見ではないかと思います。

出水沖でも魚の大量斃死があったようですが、記録がありません。出水沖のメチル水銀汚染に関わる間接的情報として、1959年2月から8月に鹿児島県獅子島で、7月・8月に出水米ノ津で、多数の猫狂死が発生あったようです。2月から8月の獅子島の猫狂死は、カタクチイワシの回遊に起因すると説明できそうです。しかし、2月~6月の出水沖にカタクチイワシが回遊していると思われますが、その2月~6月に出水米ノ津で猫狂死が報告されていません。カタクチイワシの回遊が魚斃死や猫狂死の時間・地理分布の一部を説明できそうですが、すべてを説明することは難しいようです。「工場廃液単独説」の牙城は出水沖の生態系の異常では崩せません。記憶はあるかもしれませんが、記録はありません。

このようにカタクチイワシの回遊説は定性的には問題のない説明です。一方、報告されている斃死魚はタチウオの他に、スズキ、クロダイ、ボラ、シログチ等です。タチウオ以外は、何れも河口を生態域としています。カタクチイワシは沿岸域を回遊しますが、わざわざ、河口域を選んで回遊することはないでしょう。それでも、カタクチイワシの回遊とともに移動したメチル水銀水塊が満潮とともに海岸線に押し寄せるとの説明があります。ただし、カタクチイワシの回遊に従属して移動するはずのメチル水銀水塊が、急に満潮という潮流に従属するという説明に納得するわけにはいきません。先の研究者たちは、正に、予断の正当性を、その都度探し出し、丁寧に説明しているに過ぎません。

タチウオとそれ以外の魚の斃死量を、魚種(水俣・津奈木地先分:芦北海域部)として記します。タチウオ(505 kg:13054 kg),スズキ(175 kg:628 kg),クロダイ(460 kg:592 kg),ボラ(553 kg:290 kg),シログチ(209 kg:769 kg)です。タチウオ以外の魚がカタクチイワシを専らの食餌にしていないので、斃死量の地理分布にタチウオほどの差がないとの説明もほぼ正しいでしょう。しかし、細かく時間・地理分布をみると、スズキの斃死は水俣地先で、2月・3月に発生しましたが、工場廃液が流出していたにもかかわらず4月以降は発生していません。7月に湯浦地先、8月・9月に芦北地先、9月・10月に田浦以南海域で発生しています。4月、5月、および6月の3か月間は両地域でスズキの斃死は発生していません。その3か月間に限ってスズキが外洋に移動していたはずはありません。水俣地先や芦北海岸へのスズキの斃死の閾値を超えるメチル水銀負荷量が時間的にも地理的にも連続していなかったことになります。少なくとも連続排出されていた工場廃液だけのメチル水銀負荷量では、4月・5月・6月にスズキの斃死の閾値を超えなかったことが示唆されます。また、1959年10月30日までは八幡プールから工場廃液由来のメチル水銀が不知火海へ排出されていました。にもかかわらず8月から10月の魚斃死が水俣地先で発生せず、芦北以北海岸だけで発生しています。したがって、工場廃液以外のメチル水銀負荷源が7月から10月という特異的時期に、特に芦北海岸に濃厚に加わったことが期待されます。7月・8月の稲イモチ病対策に大量散布された水銀系農薬由来のメチル水銀負荷であれば、時間および地理分布特異的に芦北海岸のみならず出水における急性水俣病患者および魚の大量斃死の発生を矛盾なく説明できるのではないでしょうか。

「農薬説」の拠り所は、季節差です。稲イモチ病対策としての水銀系農薬の散布が7月・8月に行われることから、季節要因として7月を境に7~9月、10~12月、1~3月、および4~6月に分類して臍帯中メチル水銀濃度の対数値を従属変数として重回帰分析を行いました。4~6月生まれの臍帯中メチル水銀濃度が有意に最小であったことに酔いしれました。観察期間を水銀系農薬散布が普及した1955年7月から工場廃液の排水に完全循環式を採用した1966年6月までとすると、臍帯メチル水銀濃度は、1~3月>10~12月>7~9月>4~6月でした。しかし、最初の目論見の7~9月が最大であるという結果ではありませんでした。長い間、4~6月が最小の季節差7月・8月の水銀系農薬の散布によって導かれたと堂々と言い放っていました。正に、定性的には正しいのですが、臍帯中メチル水銀濃度が1~3月>10~12月>7~9月>4~6月の順であることの説明から逃げていました。

原田先生の別の論文に、胎児性水俣病患者(以下、胎児性患者と記す)が9月・10月に多く生まれていることが記されています。そして、水俣湾沿岸住民が周年的に魚を多食する、最も多食するのが最漁期である5月~7月、比較的少ないのが12月・1月、という記載です。12月・1月に妊娠すれば9月・10月の出生です。水俣湾魚介類のメチル水銀濃度が濃厚であったにもかかわらず、魚食量が少ない時に妊娠すれば、胎児性患者として生まれる可能性があったと解釈出来ます。一方、魚食量が多いと受精卵の着床が出来ずに流産する可能性があるということになります。臍帯中メチル水銀濃度の高い順の出生月の括弧内に受胎月を入れてみました。 1~3月(4~6月)>10~12月(1~3月)>7~9月(10~12月)>4~6月(7~9月)となります。水銀系農薬散布の影響の強い順(魚介類のメチル水銀曝露量が高いと考えられる順)に並べれば、7~9月>10~12月>1~3月>4~6月ですが、上に記したように、魚斃死は10月までの発生です。したがって、不知火海環境への水銀系農薬由来のメチル水銀量は11月には相当に落ち込むと考えました。 したがって、7~9月と4~6月の海水中メチル水銀レベルの差はかなり大きいと考えられます。魚食量の多い順に並べれば、4~6月>7~9月>10~12月>1~3月となりそうですが、原田の報告による「周年的に魚を多食する」を基本とすれば、5月~7月>12月・1月にのみそれなりの差があると考えられます。

そこで、魚介類のメチル水銀濃度×魚食量で表すことのできるメチル水銀曝露量の大きい順の並びを構築しました。7~9月>10~12月>1~3月>4~6月が予想できます。この並びが「受精卵の着床の難しさ」を表しているとすれば、メチル水銀高濃度曝露者の臍帯の欠損率の高さの並びと解釈出来ます。これを妊娠月として括弧内に出生月を入れると、7~9月(4~6月)>10~12月(7~9月)>1~3月(10~12月)>4~6月(1~3月)となり、括弧内が臍帯中メチル水銀濃度分布における高濃度部分の欠損率の高い順、すなわち臍帯中メチル水銀濃度の低い順の並びになると考えます。それらを高い順に並べ替えると、1~3月>10~12月>7~9月>4~6月となります。出生月別の臍帯中メチル水銀濃度について最小限の矛盾に留めた説明に辿り着きました。

最小限の矛盾は唯一、魚食量順の設定にあります。10~12月>1~3月なのか1~3月>10~12月は微妙です。しかし、魚介類のメチル水銀濃度で10~12月>1~3月は明らかです。したがって、メチル水銀曝露量は7~9月>10~12月>1~3月>4~6月の順でしょう。

1955年からの5年間の水俣市や津奈木町、また出水市米ノ津の出生数の月分布がそれぞれ1~3月>10~12月>7~9月>4~6月であれば、因果関係の評価の5つの原則【①関連の強固性,②関連の一致性,③出来事の時間性,④関連の特異性,および⑤関連の整合性】を丸呑みするほどのデータが得られることになります。①関連の強固性→水銀系農薬由来のメチル水銀濃度は散布時に最も高く、散布前に最も低くなる→7~9月>>4~6月,②関連の一致性→水俣・津奈木・米ノ津のデータが一致,③出来事の時間性→水銀系農薬散布前の5年間(1950~1954年)の出生数の月分布が、1~3月>>4~6月でなく、1~3月>4~6月であれば、水銀系農薬散布が原因で1~3月>10~12月>7~9月>4~6月と言う結果(因果関係)が得られたことになる,④関連の特異性→4~6月の出生数が少ない→受精卵の着床が制限されたという特異性がある,水銀系農薬の散布時期に特異的に受精卵の着床が制限されたという特異性がある,1~3月の出生数が多い→水銀系農薬の散布時期から最も離れた時期の受精卵の着床への制限は小さかった,⑤関連の整合性→7月・8月・9月の妊娠数が少なければ4月・5月・6月の出生数も少ない→ヒトの妊娠期間が280日であるという生理学・生態学的整合性が得られる、となります。したがって、残された調査はメチル水銀汚染地区かつ魚介類摂取量の多い集団(自治体)の1950年~1954年・1955年~1959年の人口動態統計から出生月分布および死産月分布を検索することだと思います。人口動態統計の調査は実験ではありません。統計が残っておれば誰でも役所に行けば閲覧可能です。

最終章としての「我が国のメチル水銀汚染」について総合的考察というより、熊本水俣病が単なる工場廃液による公害でなかったことを披露してきました。水銀系農薬の散布という米石高を驚異的・奇跡的に増やした(1954年5900万石→1955年8000万石)手段が、日本全土をメチル水銀汚染列島にしました。欧米人はアジア人の母国が分からないそうです。メガネを掛け、カメラを持っていれば日本人と言われた時代もありますが、研究者の間では、「頭髪水銀を測れば判る」と言われていたそうです。確かに、全国がメチル水銀に汚染されたのは事実ですが、その間に日本人の平均寿命が伸び、男女共世界一長寿になりました。平均的なメチル水銀曝露による健康影響が深刻ではなかったと言わざるを得ません。一方で、メチル水銀の内部曝露のほとんどが魚介類の摂食によるものです。国民が白米でなく玄米を食べていたら、相当量のメチル水銀に曝露されたと思われますが、当時のビタミンB1摂取法は、玄米でなく麦入りご飯だったことから、米飯によるメチル水銀曝露はほとんど無かったと言えるでしょう。一般人が平均的な魚介類の摂食量で、初期の「水俣病症状=メチル水銀中毒」、すなわち手袋・靴下型感覚障害の症状を呈することはなかったと思われます。しかし、日本列島の各地で「水俣病の疑い」の患者は多数出ました。とくに閉鎖系水域の魚介類を多食した人々には、手袋・靴下型感覚障害が出現していた可能性は否定できません。しかし、魚介類に含まれるタウリンn-3系高度不飽和脂肪酸(IPA,DHA)がそのような神経症状を緩和・修飾した可能性は十分あります。玄米摂食によるメチル水銀曝露の場合、健康影響は魚食の場合より深刻だったことが予想できます。

熊本水俣病および新潟水俣病は基本的にメチル水銀の濃厚汚染がありました。前者は工場廃液、後者は阿賀野川河口から5 kmに架かる泰平橋の左岸下の河川敷に野積みした水銀系農薬の紙袋の梅雨末期の洪水による流失が、濃厚汚染源でした。阿賀野川流域と関川流域(関川第五水俣病)は大米作地帯です。阿賀野川流域の人々が特異的に川魚を多食することはよく知られています。上越地方の人々の川魚摂食量が阿賀野川流域の人々と同等であったら、とんでもないことが起きていたことでしょう。関川流域には15人の水俣病が疑われた患者がいます。患者宅の猫狂死も報告されています。関川第五水俣病は、同時に猫狂死が報告されていることから生態学的な裏付けが得られていることになります。

有明海第三水俣病では9人の水俣病患者がいます。世間的・社会的にはシロ判定(=水俣病でないこと)になっていますが、第四章を読み返していただければ、「疫学調査で」彼らが水俣病であることを証明していると思います。ただし、猫狂死は報告されていません。有明町はカタクチイワシの産地ではありません。ネコが海岸で盗み食いのできる雑魚が放置されていなかったのでしょう(?)。9人の水俣病疑い患者が居たのですから、よくよく調べれば猫狂死が有ったのではないかと思います。

一方、閉鎖系内湾である徳山湾(第四水俣病)では3人の水俣病が疑われる患者、また、鹿児島湾奥(第六水俣病)では4人に手袋・靴下型感覚障害の症状があったと報告されています。両者ともに猫狂死の報告はありません。したがって、余程の魚の多食者だけに健康被害があった可能性はあるでしょう。なお、1960年2月に鹿児島県栗野町や大口市で30匹超の猫狂死が報告されています(南日本新聞,1960. 2. 26-27)。これほど多数の猫狂死が同時発生しています。記事では行商の魚を食べたとされていますが、連続性がないことから、それらの魚が鹿児島湾産であったとしても、鹿児島湾奥がメチル水銀濃厚汚染状態であったとは考え難いです。むしろ動物愛護に反する行為があったのではないかと思います。

メチル水銀汚染といえば、水俣病を想起します。しかし、メチル水銀の連続汚染であれば、必ず生態系の異常が発生すると考えています。そうすると、不知火海沿岸の各地で猫狂死が報告されていますが、阿賀野川流域では、1964年7月上旬の水銀系農薬の野積み・流失後からの10か月間に39匹の猫狂死が、1年間に26人の急性・亜急性の水俣病患者が発生しています。それ以前にも1963年2月に2匹、1964年1月~5月に1匹の猫狂死が報告されていますが、発生地が河川沿いであることだけが共通点であり、発生の時間と場所に連続性がありません。したがって、工場廃液由来の公害を説明するデータではありません。昭電鹿瀬工場が操業を中止したのは1965年1月10日です。新潟水俣病では昭電の操業中止後ほぼ10年間に認定患者だけでも700人近く発症しています。しかし、猫狂死は報告されていません。動物間の寿命の違いを考慮する必要がありますが、まだ気付いていない新潟水俣病の発生原因があるのかもしれません。

これで「我が国におけるメチル水銀汚染」の最終章を終わろうと思います。ささやかではありますが、これからも視点を変えながらメチル水銀汚染をしつこく扱って行きたいと考えています。長々とお付き合い、有難うございました。ここで、メチル水銀に関する新規投稿は少しお休みします。その間は、以前の海生研OB会ブログへの投稿で姿がないのを、水俣病関連過去ログに再投稿したいと思います。

公開日 2019年3月25日作成者 tetuando


メチル水銀汚染関連


セレサン石灰(酢酸フェニル水銀含有農薬)

この年になると、新年を迎えても、特別な何かに出会うことは少ないように思います。この年末・年始は久しぶりに鹿児島でしたので、照国神社に行きました。神社への参拝では、お願いではなく、感謝を伝えるというのが一般的ですが、「水俣病論文」が出版まで行けるように秘かに「お願い」しました。

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とくに何もなく松の内が過ぎました。すると、御利益とは言えないまでも、ひょんなメールが入りました。1月14日のことです。「セレサン石灰が手に入りそうです。」、と10年以上前に、あるブログに残留農薬の健康影響について投稿していた方に、投稿内容に水銀系農薬のことが書かれていたこともあって、メールしたことがあります。当時は、投稿者のアドレスが表示されていたから簡単でした。メールの遣り取りをしている内に、相手の方の勤め先では、一年に数回、廃棄すべき農薬の回収・廃棄処分をやっていることが判りました。そこで、「セレサン石灰が手に入ったら、是非、欲しい」とお願いしました。快い返事をいただきました。その後、暫くして、硫酸銅と酢酸フェニル水銀の入った農薬;水銀ボルドーを送ってもらったことがありました。しかし、その農薬は、「稲イモチ病」対策に使われたものではなかったこともあり、その内、セレサン石灰が回収されるだろう、と思い、分析もせず、送って頂いた箱のままにしていました。実は、まだ、現役時代の教室の片隅に鎮座しています。そして、何の音沙汰もなく10年以上経ったという背景があります。

回収作業時に予告のメールがあったのに続いて、「確保しました。何処に・どのように送りましょうか?」とのメールでしたが、現在、水銀分析をする手段の無いことと「水銀分析者を探します」を伝えました。何とか水銀分析をやってくれる一人の研究者に出会い、送ってもらった「セレサン石灰」をその研究者に渡しました。現在、その結果を待っているところです。

さて、「セレサン石灰」をそれなりに紹介しましょう。酢酸フェニル水銀を0.16~0.42%、増量剤(あるいは基質というべきかもしれません)としてタルク(滑石;モース硬度1→爪より柔らかい→かつては黒板・裁縫用のチョークに使われた,ベビーパウダーにも使われていましたが、アスベストが混ざっていることもあることから、現在は使われなくなった)30%と消石灰(Ca(OH)2)70%が一般的な配合割合です。農薬専門ではない現在では東証1部上場の薬品会社も製造していました。したがって、新聞・雑誌で「酢酸フェニル水銀系農薬がメチル水銀汚染源だった」、という記事を載せるには相当なリスクがあるでしょう。増量剤の消石灰は0.42%の酢酸フェニル水銀がアルカリ域ならば水に溶けるからです。タルクは消石灰だけだと取扱いの注意度(アルカリ度)が高くなりすぎるから加えたのだと思われます。ただ、その後の試験では、タルクの含量を多くする方がメチル水銀の生成量が増すという結果があります。効能は、何といっても「稲イモチ病」の予防と治療です。効能が治療にだけであれば、それほど使われなかったのでしょうが、予防として使えたので、1953~68年の全国における使用量は水銀量で2300㌧という大量なものでした。この農薬が全国的に普及したのは1955年(s30)です。1954年の米石高は、5900万石でしたが、1955年は8000万石の大々大豊作でした。そんな効能(+豊作)があったので、それ以来、農家にとって、このセレサン石灰の大量散布は「必須」の農作業になったようです。7月から、8月下旬(西日本)・9月上旬(東日本)が散布時期です。

塩化フェニル水銀あるいはヨウ化フェニル水銀を使った農薬もありましたが、これらの製剤からのメチル水銀の析出量は微量であったことが確かめられています。しかし、フェニル水銀系農薬の9割以上が酢酸フェニル水銀製剤です。理由は酢酸フェニル水銀の合成が容易だからだと思われます。(CH3COO)2Hg;酢酸第二水銀とベンゼン(正にフェニル基)C6H6を混合して加熱すると酢酸フェニル水銀と酢酸が生成します。合成が容易なものは分解が容易とばかりは言えませんが、酢酸フェニル水銀系農薬は保管中に効能が落ちるので、その年の内に使い終わる量(必要量)を購入しよう、と言われていたようです。分解し易かったという証拠でしょう。このことから、散布中の酢酸フェニル水銀の分解でメチル水銀が生成していたことが想起出来ます。酢酸フェニル水銀は腸管から吸収がほとんど無いことから水銀中毒、もちろんメチル水銀中毒を起こさないと説明され、ほぼ安全な農薬として製造・販売・使用されました。しかし、実際には、散布中に・水田で、メチル水銀の生成があったからこそ、熊本・新潟・有明海・徳山湾・関川・鹿児島湾においてメチル水銀汚染(水俣病問題)が発生したことが説明出来ます。とくに鹿児島湾沿岸には水銀を使用する事業所は無く、「行政サイドは」、桜島の海底火山活動がメチル水銀汚染源である(*1)との暫定的報告を掲げるしかありませんでした。西之島はあれだけ活動しました・しています。その海底火山活動で、辺り一帯、メチル水銀汚染魚の宝庫になったとの報告が聞こえてこないのは何故でしょう。(*1);2022年1月15日トンガフンガ火山で大規模噴火が起きました。フンガ火山西之島と同じように薄い地殻(厚さ〜20 km)の上にできた海底火山で、さらに西之島のように安山岩マグマを噴出する火山だそうです。桜島とは火山の性質が異なっているので西之島フンガ火山一帯魚介類メチル水銀汚染が起こらないことを証明する必要はないのでしょうか???………。

依頼したセレサン石灰の水銀分析の結果報告はまだです。手にした「セレサン石灰」は昭和36年1月10日製造です。57年間に農薬の成分がどのように変化したかという結果しか報告出来ません。酢酸フェニル水銀が分解されなければ、昇華性はほとんど無いので、0.42%の水銀が検出されるでしょう。酢酸フェニル水銀が酢酸水銀(無機水銀)に分解された場合、酢酸水銀はほぼ昇華しないので、検出出来るでしょう。しかし、分解生成物がメチル水銀であれば、昇華性に富んでおり、57年間に跡形もないことでしょう。もう一つの痕跡なしが期待できるのは金属水銀ですが、酢酸フェニル水銀から金属水銀が生成することは無いはずです。「セレサン石灰」からメチル水銀が検出されて、総水銀中のメチル水銀濃度が1%を超えておれば、凄い結果です。私の予想は、「セレサン石灰」試料から水銀は検出出来なかった、です。この場合、間接的に、酢酸フェニル水銀がメチル水銀に分解されたことを説明したことになると考えています。何れ、結果は報告できると思います。

公開日2018年4月15日 作成者tetuando


セレサン石灰 – 分析結果と考察

依頼したセレサン石灰の水銀分析の結果報告が夏至の翌日22日にありました。分析に供した「セレサン石灰」は山本農薬株式会社府中工場で昭和36年1月10日に製造されたものです。タルク29.88%および消石灰(Ca(OH)2)69.7%の増量剤(あるいは基質)に対し、0.42%(Hg換算では0.25%)の酢酸フェニル水銀を含ませた製剤です。結果は前回記述した予想のほぼ範囲内でした。

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見事で慎重な水銀分析を数回繰り返しており、非の打ちどころの無い素晴らしいデータを報告していただきました。57年経った「セレサン石灰」にはHg換算で0.16%(酢酸フェニル水銀換算では0.269%)の酢酸フェニル水銀が検出されました。痕跡(trace)としてのメチル水銀が数回の分析中、常にではありませんが、検出されたということですが、酢酸フェニル水銀に対して1%以下だとの報告です。添加した酢酸フェニル水銀濃度がほぼ2/3に低下していたということです。

ほぼ想定内の結果から、酢酸フェニル水銀 → ベンゼン↑ + メチル水銀↑ + CO2↑の反応式を思い浮かべました。余りに都合の良い反応式の提示に対し、当の分析者のコメントは、『酢酸フェニル水銀濃度が低下しているのは、間違いなさそうですが、低下のメカニズムには、様々な解釈が成り立ちそうですので、メチル水銀の生成・昇華を結論としてしまうには、少し慎重になる必要があろうかとは思います。』でした。「様々な解釈」を具体的に示してくれると有難いのですが、それは、後のお楽しみなのかもしれません。

私の考え(発想or素早い結論の提示)に対し、現役時代はとくに、周囲の多くの研究者から『(議論が)飛ぶ・跳ぶ=飛躍する』と言われ続けました。今も続いているのでしょう。「様々な解釈が成り立ちそう」という専門家のコメントの下で、私の発想を聞けば、多くの場合、私の発想が『飛んでいる』という評価を受けるのは必定でしょう。しかし、『飛躍』の途中にある基礎事実を伝えれば、『飛んでいる⇒とんでもない考え』との評価になるのを止めることが出来るかもしれません。

私の『飛躍した発想』の基礎になった事実は、「Hgが消滅するには昇華以外の経路は存在しない」ということです。したがって、酢酸フェニル水銀濃度が2/3に低下したという測定結果に対し、既に私に与えられた命題は、「1/3の酢酸フェニル水銀が消滅した」に在ります。データを正確に読んだ結果、「酢酸フェニル水銀が2/3の濃度に低下した」との命題に達するのは必然といえばその通りですが、余りに陳腐な発想というのが私の立場です。「1/3の酢酸フェニル水銀が消滅した」を念頭に『昇華の経路の反応式を示した』のが『トンデモナイ』と言われるのは仕方ないのかもしれません。

Hgが放射性元素であれば、当然、α崩壊・β崩壊・γ崩壊によって安定な原子核を持つ元素に変換し、Hgとしては検出されないでしょうし、代わりに他の安定元素が検出されるでしょう。しかし、そもそもHgが放射性元素でないことは紛れもない科学的事実です。ところで、酢酸フェニル水銀は燃焼によって水銀蒸気を生じることは知られています。だからといって、農薬中の酢酸フェニル水銀の1/3が特異的に燃焼し、水銀蒸気として農薬から昇華したと説明するのは無理です。「農薬」は紙袋で保管されものでした。一部が特異的に燃焼したとの説明は、「飛躍」の域を超えた「絵空事」だということです。

専門家に対し、このような単なる可能性に解釈が必要でしょうか。専門外の人々(研究者を含めて)には必要といわれるかもしれませんが、そういう方々にとって必要のない説明のように思います。むしろ、可能性の解釈が事実の解明には障害にさえなるように思います。私が『飛ぶ』のは、「農薬水俣病」を中心に考察機序を構築してきたことの「現れ」だと勝手に思うことにします。

統計ソフトの発達していない時代でしたが、昭和電工の技術研究員およびお抱え研究者が新潟水俣病裁判の被告側の科学的主張のために、セレサン石灰中の酢酸フェニル水銀の消滅についてのそれなりの実験結果を報告しています。二つの実験(調査)について個々のデータが報告されていますので、統計解析をしました。実は、私の「とんだ発想」は、この統計解析を基に出たものであり、『飛んで』はいないのだと思います。北川徹三氏の二つの実験を紹介します。

実験Ⅰ;北川は22検体のフェニル水銀系農薬を集め、フェニル水銀添加濃度、フェニル水銀の種類、製造からの経年月を記録した上で、その農薬原体に含まれるメチル水銀濃度を農薬原体中のフェニル水銀に対する組成比(%)を分析しています。集めたのは15検体の酢酸フェニル水銀製剤と7検体の塩化フェニル水銀製剤です。酢酸フェニル水銀製剤の中の1検体の製造からの経年月が記載されていないので、統計解析は21検体で実施しました。メチル水銀の組成比を従属変数とした重回帰分析です。素データを眺めてみると、経年月が長いもので経年月の異なるものを比較しても差が小さいように思いました。そこで21検体の経年月の中央値(7.5年)より短い群と中央値を含む長い群の二群(A;0,1)と経年月、および両者の積(A×経年月)、および酢酸フェニル水銀製剤か否か(酢酸フェニル水銀製剤=0,塩化フェニル水銀製剤=1)を共変数、また、添加フェニル水銀濃度を説明変数としました。

結果;メチル水銀の組成比は、酢酸フェニル水銀製剤の方が0.63%高く(p=0.009)、添加フェニル水銀濃度が0.1%増えると0.19%上昇する傾向にありました(p=0.072)。また、経年月が長い群の方が1.14%低く、経年月が1年延びると0.06%低下しましたが、共に有意ではありません(p=0.117 & p=0.455)。しかし、経年月の長い群で経年月が1年延びると有意ではありませんが0.12%上昇します(p=0.284)。このようにとくに目立った差は見られていません。その為、一般の研究者であれば、この分析で止めそうです。しかし、経年月が短い場合に低下する組成比が、長い場合に上昇するという統計結果をすんなり受け入れることは難しいです。また、フェニル水銀の最大添加濃度が0.42%であるにもかかわらず、酢酸フェニル水銀製剤の方が塩化フェニル水銀製剤より0.63%高いという統計結果も受け入れにくい数値です。むしろ、塩化フェニル水銀からはメチル水銀が生成しないという現象と捉えたいと思います(これを多くの研究者は&oの『飛躍』と言い放ちますが…..)。そこで、重回帰分析を、酢酸フェニル水銀製剤の農薬原体に限定し、さらに経年月の長さの異なる群別に実施することにしました。

結果Ⅱ;経年月この実験をした北川は、酢酸フェニル水銀の酢酸基の分解によってメチル水銀が生じること、および経年月の増加とともに生成したメチル水銀が減る(消滅する)、と解釈しています。北川は、酢酸フェニル水銀製剤からのみメチル水銀が生成していることから、酢酸基からの脱炭酸反応によってメチル水銀が生成すると解釈しています。また、経年月が5年未満でのメチル水銀組成比が1.22%、それらが5~10年で0.86%、さらに10年を超えると0.54%であったことを、メチル水銀生成量が低下したと解釈するのではなく、生成したメチル水銀の昇華量の増加と解釈しています。これらは、ある意味、『飛躍』した解釈です。メチル水銀の生成機序を、酢酸フェニル水銀 → ベンゼン↑ + 酢酸第二水銀 → メチル水銀↑ + CO2↑ と『>直観的に』解釈し、組成比の差を昇華量の差と勝手に(『 』)解釈しています。

北川のデータそのものを用いた今回の重回帰分析では、農薬原体中のメチル水銀組成比の変動を解析したのであって、農薬原体におけるメチル水銀の動向を算出・解析したわけではありません。しかし、この統計結果から、分解生成したメチル水銀の動向を示唆してくれていると解釈することが『飛んでいる』ことになるのでしょうか。北川の解釈を、ここに示した&o流の重回帰分析が支持していることを示唆しています。

そうすると、今回報告していただいた分析結果は、57年保管後の「セレサン石灰」原体にメチル水銀がほとんど検出できなかったことを、製造後57年経過した「セレサン石灰」原体中の酢酸フェニル水銀が、分解していない安定している)と説明できそうです。正に『飛んだ』説明を加えると、「セレサン石灰」の酢酸フェニル水銀の分解<は、製造後暫くの間続きますが、「セレサン石灰」中の増量剤間(消石灰とタルク)の反応が平衡状態になることで、分解活性が失活すると考えました。

実験Ⅱ;酢酸フェニル水銀(PhHgAc)の分解に、農薬増量剤として使われた消石灰(CaOH)およびタルク(Tarc)の関与についての実験です。8つの検体を用意しています。①PhHgAc 100%・CaOH 0%・Tarc 0%,②PhHgAc 50%・CaOH 50%・Tarc 0%,③PhHgAc 10%・CaOH 90%・Tarc 0%,④PhHgAc 10%・CaOH 80%・Tarc 10%,⑤PhHgAc 10%・CaOH 60%・Tarc 30%,⑥PhHgAc 50%・CaOH 0%・Tarc 50%,⑦PhHgAc 10%・CaOH 10%・Tarc 80%,⑧PhHgAc 10%・CaOH 0%・Tarc 90% この8つの検体に50℃の温熱負荷をかけて、5日、10日、および20日のメチル水銀の生成率をPhHgAc中のメチル水銀の組成比として測定したものです。

メチル水銀組成比を従属変数とした重回帰分析を行いました。PhHgAc濃度、CaOH濃度および経過日数を説明変数とし、Tarc の不添加・添加(0,1)を共変数としました。CaOH 濃度とTarc濃度は共鳴しているので(50:0,90:0,80:10,および60:30の組合せ)、Tarc濃度を説明変数とすると意味のない解析になります。

結果;メチル水銀組成比は、PhHgAc濃度が10%増えると0.05%低下します(p=0.017)。CaOH濃度が10%増えると(Tarc濃度が10%減ると)、0.03%低下します(p=0.045)。経過日数10日毎に0.27%上昇します(p<0.001)。タルク(消石灰)が添加された方が有意ではありませんが0.1%高い(低い)です(p=0.352)。

実験Ⅱからは、経過日数に依存した酢酸フェニル水銀の分解によるメチル水銀生成の進行、また、増量剤がタルクの場合にメチル水銀の生成がより進むことが示唆されています。ただし、増量剤が単独と二種類でメチル水銀の生成の進行についての差は検出出来ていません。農家の納屋で紙袋保管中の「農薬原体」の温熱曝露が50℃になることはないでしょう。実験を計画した北川の意図(多分;酢酸フェニル水銀は分解が早く、その際、メチル水銀が生成する)は達成されているようですが、現実離れの設定(農薬配合率0.42%→10%, 50%,温熱曝露20℃→50℃)ですので、科学的な説得力は乏しいと思います。新潟水俣病裁判における「農薬説の構築」の為の実験というのが背景であったにせよ、このような強引な実験結果を提示したことで、余計に、農薬説が採用されにくい状況をつくったようです。想定外の結果から想定内を証明するのは、科学ではないという教訓の実験だと思います。実験Ⅰで検体数を倍にするだけで情報精度は格段に増したでしょう。焦って結果を求めた実験Ⅱだったと思います。裁判には逆効果だったと思います。結果、実験Ⅰも採用されなかった・されないままの現実・現在を作ってしまったようです。

実験Ⅰからは、酢酸フェニル水銀 → ベンゼン↑ + メチル水銀↑ + CO2↑ が『飛んでもない』結果でないことが伝わって来ます。「農薬によるメチル水銀汚染」の存在を無視しないで欲しいものです。

公開日2018年4月15日 作成者tetuando


臍帯メチル水銀濃度の謎

我が国では、胎児の命綱である臍帯を出自の証明として保存する習慣があります。桐箱に収められた私の臍帯も何度か母に見せられた記憶があります。しかし、保存臍帯は母親の宝なのでしょう、所帯を持ってからも譲渡されることはありませんでした。そんな保存臍帯が語ってくれる貴重な情報の紐解きに挑戦しています。

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胎児性水俣病患者を、正に「赤ヒゲ」医師としても温かく見守ってこられた水俣病研究者でもある原田正純先生は、不知火海沿岸住民の保存臍帯を多数集め、それらのメチル水銀濃度を測定しました。そして、臍帯メチル水銀濃度、および水俣市野口町で操業していた化学工場のアセトアルデヒド年間生産量を同じ時間分布図【以下原田図*1)と記します】に描くことにより、両者の時間変動がほとんど同じであることを見出し、不知火海が化学工場の工場廃液に由来するメチル水銀に汚染されたと説明しました。ところで、環境疫学の基本(時間分布・地理分布が必須)が部分的に欠損した状態で得られたこの結論を、世界中の環境疫学研究者の多くが全面的に受け入れてしまっています。日本の研究者でも水俣湾と不知火海の地勢に詳しくないのは当然でしょうが、因果関係を評価するための疫学において、疫学の基本(時間分布の比較は同じ地域で行う)を吟味しないままに全面的に受け入れるのは問題です。また、強いて言えば科学の発展の妨げになるとさえ思っています。(*1);臍帯は不知火海沿岸住民、すなわち水俣市、芦北郡三町、出水郡市から集められています。アセトアルデヒド年間生産量の動向が工場廃液として排出されたメチル水銀量の動向と見なしています。工場廃液中のメチル水銀は水俣湾から不知火海へ拡散されました。したがって、これらの臍帯中メチル水銀濃度(地理分布は不知火海沿岸と広く)とアセトアルデヒド年間生産量(地理分布は百間排水口と狭い・一地点)を同一の地理分布と見なして時間分布図を示しています。この記述疫学的には不正確な作図によって工場廃液由来のメチル水銀が不知火海に同じ濃度で拡がったという誤った認識を生み出したと考えています。

ところで、2011年になって、それらの臍帯メチル水銀濃度が、提供者の性・誕生日・出生地とともに資料として水俣学研究という熊本学園大学の紀要に投稿された(原田と頼藤,水俣学研究,1,pp151-167,2009)ことを聞きました。そのデータを使うことが出来れば、臍帯メチル水銀濃度の時間分布だけでなく地理分布が得られます。そこで、データの使用を許可してもらおうと熊学大の原田先生への訪問を思い立ちました。訪問の理由とともに訪問日時の確保を手紙で尋ねました。数日後、「治療のため、病院通いが続いているのでお会いするのは難しいと思います。大学には安藤さんのことを知らせておきますので、直接、大学に行って下さい。資料は自由に使ってください。そのために全てのデータを載せたのですから….。」と原田先生から電話がありました。原田先生が亡くなる1年前のことでした。この言葉をもらった私が、臍帯メチル水銀濃度の謎を解き明かす旅に向ったのは言うまでもありません。

環境疫学における原因解明の原則(基本)は時間・地理分布にあります。原田図の内容・中味の実際を知らない間、筆者は世間の水俣病研究者と同じく「不知火海のメチル水銀汚染源は化学工場の工場廃液」だと思っていました。臍帯の提供者が全て水俣湾沿岸住民だと思っていた筆者は、原田と頼藤(2009)のデータが、水俣湾沿岸の何処が最も汚染され、その汚染状態が何時まで続いたのか明らかにしてくれると期待していました。しかし、その目論見は見事に外れました。実際の対象者(臍帯提供者;299人)の出生地は、出水97人、水俣91人、そして芦北3町47人などであり、それなりに広範囲の地理分布でした。ここから、新たな謎解きの旅が始まりました。

原田図は、水俣湾内の百間排水口から放出されていた工場廃液の環境影響を、水俣湾沿岸住民だけの臍帯メチル水銀濃度の時間分布で観察していなかったのです。すなわち、工場廃液の拡散(地理分布)を結果的に無視していました。背景は工場廃液由来のメチル水銀が移動の度に海水で薄められても食物連鎖を経由して高濃度に生物濃縮されるという定性的見地に限定された理論がありました。物事の理論の科学的解明の第一歩は定性的証明ですが、定量的証明が為されて初めて解明にたどり着くと考えています。

そこで、とりあえず初期の目的を果たそうと水俣の91人だけで臍帯メチル水銀濃度の時間分布を描きました。水俣市民の臍帯メチル水銀濃度の平均値は 1956年(s31)が最大であり、アセトアルデヒド年間生産量の最大であった1961年(s36)に、5年も先行していました。工場廃液由来のメチル水銀(原因)が臍帯メチル水銀である(結果)という因果関係があれば、必ず原因(アセトアルデヒド年間生産量 → 工場廃液由来のメチル水銀量)が結果(臍帯メチル水銀濃度)に先行します。確かに、因果関係の評価における時間の先行性は得られていませんが、工場廃液にメチル水銀が含まれていたことは科学的に証明されており、疑う余地はありません。それでも 1959年8月にアセトアルデヒド生産工程における触媒を酸化水銀から金属水銀に替えており、化学反応系を考慮すれば、工程当たりの塩化メチル水銀の副生量が減った可能性は否定できません。しかし、一方でアセトアルデヒド生産量は増大していました。それ故、環境へのメチル水銀負荷量がどのように変動したかを把握していません。時間の先行性が得られていないという矛盾、それも5年(長期間)もずれているという矛盾に、研究者の誰もが気付かなかったということになります。これは、原田図が「公害」としての水俣病の存在を余りに分かりやすく説明したことで、原田図の疫学データとしての科学性を検討する機会が生まれなかったのでしょう。水俣湾沿岸住民だけを対象としてアセトアルデヒド年間生産量と臍帯メチル水銀濃度の時間分布を同時に描くことで原田図の欠陥が明らかになりました。しかし、対象として水俣湾沿岸住民91人だけの臍帯メチル水銀濃度とアセトアルデヒド年間生産量の時間分布を描いた原田図ならば、疫学的には工場廃液がメチル水銀汚染源であることを証明出来なかったと思われます。矛盾していますが、不知火海沿岸住民の臍帯メチル水銀濃度およびアセトアルデヒド年間生産量の時間分布を描いた原田図であったからこそ偶然とはいえ両者の時間変動が一致し、工場廃液がメチル水銀汚染源であると説明出来たのです。

一方、出水および芦北3町における臍帯メチル水銀濃度の最大は、それぞれ1955年と1959年でした。両地域への工場廃液由来のメチル水銀の拡散度がかなり異なっていることが示唆されます。ただし、この場合も十分な例数でないことから早々に結論を得るべきではないでしょう。それでも、工場廃液は1958年9月から翌年10月までの14か月間に、水俣湾外の八幡プールから不知火海へ直接流出しました。これは、1959年に芦北3町のそれらが最大になったことを説明出来そうです。

結局、環境疫学の原点というべき結果の時間および地理分布からの情報は、原因(メチル水銀負荷源)として工場廃液だけでは説明できそうもないというものでした。それでも以前から水銀系農薬もメチル水銀負荷源だろうと考えていましたので、いわば、渡りに舟の情報だったことになります。

それからというもの、知識の限りの統計学(といってもパソコンと統計ソフトという手段)を使って臍帯メチル水銀濃度の時間および地理分布の詳細を検索しました。この場合、時間分布に出生月から得られる季節分布が検討出来ます。すなわち、工場廃液(季節差小)および農薬(夏季に偏る季節差)に由来するメチル水銀をそれなりに区別出来るということです。3地域もそれぞれ要因とすることで、様々な要因を満たす例数は219人に減りましたが、それなりに統計に耐えられそうです。臍帯メチル水銀の大部分は妊娠後期の曝露によるものなので、不知火海沿岸の稲イモチ病対策(予防および治療)のセレサン石灰の散布が行われる7月から8月の夏季の出生児のそれらが最も高くなることが期待されます。

出生地が水俣市、出水市郡、芦北3町の3地域を対象とした臍帯メチル水銀濃度(219例)を従属変数とする重回帰分析の結果は、期待通りのものばかりではありませんでした。稲イモチ病対策の水銀系農薬の散布が7月下旬から9月上旬に行われることに注目し、季節区分は1~3月生、4~6月生、7~9月生、および10~12月生としました。臍帯メチル水銀濃度は1~3月生≧7~9月生>10~12月生>4~6月生であり(統計学的に地域差を調整しても、例数と値が最も大きい出水の結果に強く影響されており、地域の交絡は防げていません)、水銀系農薬の散布時期である 7~9月生が最大ではありませんでした。それでも、4~6月生が最小であったことは、6月が農薬の散布直前なので農薬由来のメチル水銀負荷が最小だったとの説明がとりあえず成立しそうです。都合の良い説明に出会うと、鬼の首を取った気になります。その上、7~9月生のそれらが最大であれば、この説明に矛盾は生じません。しかし、1~3月生のそれらが最大です。そのことを 7月~9月の農薬散布による直接的な影響と説明することは出来ません。まだまだ、例数が少ない場合の疫学のひ弱さに埋もれています。

分析対象の例数が減りますが(基本的には検出力は低下する)、分析対象の期間(時間分布)を農薬普及後アセトアルデヒド生産中限定し、さらに地理分布の交絡を無くすために3地域別に重回帰分析を行いました。例数が減っても、観察期間限定するという工夫で、高い検出力が得られることを期待しました。分類群別に分析するという疫学手法では、地域要因(分類群)が交絡要因(この場合、地域毎に確かに異なった背景がある;出水・農業が盛ん,水俣・工場廃液/閉鎖系内湾,芦北3町・リアス式海岸など)であるかを調べます。臍帯メチル水銀濃度の季節変動において、出水(68例;1071ppb)は13月生>10~12月生≧7~9月生≧46月生(1~3月生>4~6月生は有意差あり)、水俣(49例;466ppb)は10~12月生>7~9月生>4~6月生≧1~3月生(有意差なし)、芦北3町(29例;438ppb)では79月生1012月生≧1~3月生>46月生(4~6月生<10~12月生<7~9月生は有意差あり, 4~6月生<1~3月生は有意差なし)でした。各地域で臍帯メチル水銀濃度の季節変動が全く異なるという結果は、地域要因が交絡要因であることを支持しています。ただし、この場合、交絡というより、それぞれの地域のメチル水銀汚染源がそれぞれ異なる・独立している可能性さえ否定できません。したがって、対象例数が十分であれば、地域要因を交絡要因として扱うのではなく、3地域別に解析すべきであるということが示唆されています。

地勢上、水俣湾沿岸(水俣湾内)には水田に適した地がなく、実際に米作が行われていなかったことで水銀系農薬由来のメチル水銀が水俣湾に注いでいなかったはずです。したがって、水俣湾のメチル水銀汚染源は、ほぼ工場廃液だけであったでしょう。一方、水俣湾外の不知火海に水俣湾から流出する工場廃液由来のメチル水銀負荷があったことは確実です。翻ってみれば、水銀系農薬由来のメチル水銀が水俣湾を含む不知火海に負荷したことも確実です。3地域別に工場廃液および水銀系農薬のそれぞれに由来するメチル水銀の寄与度が異なるだけで、3地域ともに、どちらか一方の影響・負荷だけのメチル水銀汚染ではなかったと考えるべきでしょう。

原田・田尻(2009)は、「不知火海の漁師達は、年中魚を多食するが、5月から7月に最も多く、12月から2月に少ない」と報告しています。水俣の10~12月生=7~9月生+192ppb=4~6月生+327ppb=1~3月生+363ppb(最大の10~12月生と最小の1~3月生間の差でも有意でない,p=0.192)について、1~3月生が最小である理由は魚食量の少ない季節ということで説明できそうですが、その他の季節区分を魚食量で説明するのは困難です。10~12月生【受胎(受精卵が着床する);1~3月】>7~9月生(10~12月)>4~6月生(7~9月)≧1~3月生(4~6月)と書き替えると、受胎月区分の順が魚食量の少ない順になります。水俣湾の魚介類を一定以上摂食すれば、メチル水銀曝露量が受胎の閾値を超えてしまう(着床出来ない)と考えれば、魚食量の少ない母の児だけが出生したでしょう。水俣の臍帯メチル水銀濃度の季節区分は魚食量の少ない順、すなわち、受胎不能(流産)の発生数の少ない順と説明できそうです。水俣湾において、農薬由来のメチル水銀の影響・負荷が有ったとしてもわずかであったことを間接的に説明しています。

芦北3町はどうなっているのでしょう。不知火海の潮の流れの基本は対馬海流ですので、水俣湾の海水は北東の芦北に向かうでしょう。しかし、梅雨や台風で大雨が降って水俣川からの河川水が大量であれば、潮の流れを遮り、水俣湾の海水は、天草・獅子島/御所浦島方面に運ばれるでしょう。そのような潮の流れの一時的な遮蔽を考慮しても、一年を通せば、工場廃液由来のメチル水銀の芦北海域への負荷量は少量だったでしょう。実際、不知火海の海水量は水俣湾のそれらの400倍超です。工場廃液による影響は小さかったと考えられます。その上、芦北3町は7~9月生>10~12月生≧1~3月生>4~6月生です。後者2季節群間の差(1~3月生=4~6月生+449ppb)は有意の傾向です(p=0.069)。4~6月生の臍帯メチル水銀濃度が他の季節区分より十分低いことが示されています。これらの順位は農薬由来のメチル水銀を主な汚染源と見なすには好都合な統計結果です。ただし、芦北3町の解析例数が29と少なく、問題(例数が少ないことによる誤差を拾い上げている可能性)はそれなりに抱えています。

一方、出水への工場廃液由来のメチル水銀の到達は、潮の方向を考慮すれば、芦北へのそれらよりさらに限定的なので、工場廃液をメチル水銀汚染源から除いても良さそうです。また、出水においては水銀系農薬がメチル水銀汚染源のひとつである可能性は十分高いでしょう。実際、出水地区の水田面積は3地域中では圧倒的に広く(芦北3町の4倍強)、出水1071ppb vs 芦北3町438ppbの臍帯メチル水銀濃度の関係を農薬由来でおおかた説明できそうです。しかし、芦北3町のような臍帯メチル水銀濃度の季節順ではありません。出水の臍帯メチル水銀濃度は1~3月生>10~12月生≧7~9月生≧4~6月生です。1~3月生が最大を説明する一つの情報として、冬場の出水沖の不知火海は、偏西風によって結構荒れる為、最漁期の夏場の漁獲魚を乾物とし、それらを冬場に食べるのが習慣化しているようです。農薬由来の高濃度のメチル水銀に曝露された夏場の魚(80%wet)を乾物(20~40%wet)として食べることで、実質の魚食量(固形量)が増え、母のメチル水銀曝露量(魚のメチル水銀濃度×魚食量)が大きくなったと説明できるかもしれません。出水の臍帯メチル水銀濃度の季節順は最大の1~3月生が有意に最小の4~6月生より高く(p=0.039)、次小の7~9月生との差は有意の傾向です(p=0.064)。1~3月生=10~12月生+571ppb=7~9月生+602ppb=4~6月生+616ppbと書き替えることが出来ます。10~12月生=7~9月生+14ppb=4~6月生+45ppbと3季節間の差はほとんどありません。恋路島によってやや閉鎖的な水俣湾と比べ、出水沖の不知火海は開放的な水域であることで、農薬散布の影響がはっきり現れないかもしれません。また、原田・田尻(2009)の言う不知火海の漁師達に出水の漁師達が含まれているかは確かめていません。出水は水俣に比べて農産物は豊富です。魚食量において水俣>出水、さらに、季節による魚食量の偏りが小さいことで1~3月以外の季節区分間での臍帯メチル水銀濃度の差が小さかったと考えることができるかもしれません。

ところで、出水の米ノ津川沿いに製紙工場がありました。製紙工場では木材・木材チップの防黴剤として酢酸フェニル水銀剤が、またパルプの防カビにアルキル水銀剤が使われていました。後者に関しては新聞で報道されましたが(新潟日報、1973/7/1)、南日本新聞では報道されなかったという事実があります。出水沖の不知火海へのメチル水銀負荷に製紙工場由来のメチル水銀が寄与したか否かは全く分かりません。

水俣のメチル水銀汚染源は工場廃液でしょう。それでも20年近く続いた水銀系農薬の散布に由来するメチル水銀が不知火海全体のそのレベルを押し上げていたと考えられます。汚染レベルを脱した(多食者でも中毒閾値に達しない)のは1980年代後半~1990年代前半だと考えています。

芦北3町(+獅子島/御所浦島)では1958年9月~1959年10月の一時期に、多食者において急性水俣病の発症レベルの汚染状態だったと考えられます。実際、1959年7月から11月までに6人が急性発症しています。農薬散布が汚染レベルを高めた結果といえるでしょう。この14か月の工場廃液の直接の不知火海への排出が、芦北3町(+獅子島/御所浦島)の慢性水俣病患者の発生を押し上げたと考えます。

出水を農薬だけの汚染とする証拠は得られませんでした。出水で急性水俣病患者が3人発生していますが、1959年の6月中旬・8月・9月初旬の発症と報告されています。6月中旬の1例は、農薬の散布時期ではありません。残念なことに製紙工場の操業状態の記録は見つかりません。出水の(慢性)水俣病認定患者さんからの聞き取りで、「魚よりアサリを毎日のように食べていた」と聞いた時、『農薬だ』と思ったことがあります。

臍帯メチル水銀濃度の時間・地理分布からの調査は疫学の限界を改めて知ることとなりました。今は、急性水俣病&胎児性患者発生の時間・地理分布から、何か情報が得られないかと挑戦しています。そこから、水俣・466ppb<出水・1071ppbの臍帯メチル水銀濃度の絡繰りのひとつが得られたと思います。水俣湾外の不知火海沿岸住民からの急性患者は、工場廃液が直接的に不知火海に流された期間に限定して発生しています。一方、工場廃液が湾内の百間港に流している間(ただし、農薬散布の普及後)に、水俣湾外から胎児性患者が発生しています。水俣湾の魚介類はメチル水銀濃厚汚染レベルであり、水俣湾沿岸住民の女性が魚をある程度多食すれば、受胎できず、魚食量の比較的少ない母から胎児性患者が生まれた、と考えました。もちろん、さらに魚食量が少なければ、正常児として生まれたでしょう。しかし、水俣湾外居住の妊婦の場合、魚をよほど多食することで胎児性患者を出生しましたが、とくに多食しなければ、正常児を産んだと考えました。すなわち、水俣の臍帯メチル水銀濃度分布は、多食母のデータが欠落し、魚食量の比較的少ない母児の臍帯メチル水銀濃度分布(本来の分布から高濃度域が欠落している)と思われます。一方、水俣湾外(この場合、出水沖)の魚介類のメチル水銀濃度は、水俣湾のそれらよりかなり低かったと思われます。したがって、受胎ができないほどのメチル水銀に曝露した女性は限定的だったでしょう。出水の臍帯メチル水銀濃度は高濃度域が欠落していない、通常の分布と思われます。水俣<出水の絡繰りと考えました。さらに追及しようと思います。

公開日 2018年4月30日作成者 tetuando


続・臍帯メチル水銀濃度の謎 – 胎児性水俣病患者を対象として

原田正純先生が試料とした299人の保存臍帯に22人の胎児性水俣病患者(胎児性患者と後述)のそれらが含まれています。前回、出生地が記載された219人の臍帯メチル水銀濃度の地域差は有意で、出水≫水俣>芦北3町(芦北と後述)と記しました。22人の胎児性患者(水俣9人・芦北5人・出水8人)の臍帯メチル水銀濃度の分布に地域差があるのでしょうか。今回、この地域差に係る幾つかの知見を紹介したいと思います。

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22人の誕生日は1950年7月7日から1965年2月11日の間にあります。そこで、1950~65年の臍帯メチル水銀濃度(従属変数)がどのような要因(説明変数・共変数)によって変動したのかを重回帰分析で確かめました。対象者(その他:胎児性患者)は、水俣53人:9人・芦北30人:5人・出水62人:8人の合わせて145人:22人です。1950~65年の間に発生した事象を統計解析における要因としました。アセトアルデヒド年間生産量は説明変数で唯一の連続値です。その他の要因は時間分布(対象者の誕生日の分布)が異なるとした二区分変数(0 vs 1)です。生産工程の変更(変更前=0 vs変更後=1 ;助触媒⇒二酸化マンガンから酸化鉄,アセトアルデヒド回収法⇒加熱蒸溜法から真空蒸溜法)、排水先の変更(百間港=0から八幡プール=1へ,八幡プール=1から百間港=0へ)、水銀系農薬の散布(普及前=0 vs 普及後=1)、水俣湾地先における漁獲の自粛(自粛前=1 vs 自粛後=0,自粛解除前=0 vs 自粛解除後=1)を説明変数としました。それから、臍帯(メチル水銀濃度)が保持する特質から共変数を探しました。探し当てた共変数は、児の性,児の出生地(水俣,芦北3町,出水),誕生月の季節(1~3月,4~6月,7~9月,10~12月),臍帯メチル水銀の分析法(赤木法=0 vs その他の方法=1)です。そして、胎児性患者(1)か否(0)かという要因を共変数として加えました。

ところで胎児性患者22人のうち3人、その他の対象者145人のうち4人の臍帯メチル水銀濃度が 0 ppmと報告されています。その3人の胎児性患者の全てが出水住民であり、その他の対象者4人は全て水俣住民です。また、水銀分析者5人のうちの1人が全ての 0 ppmの測定者として特定されています。そもそも、臍帯メチル水銀濃度が 0ppmということは有り得ないので、データは採用できないと考えるのが一般的です。しかし、そのような選択をすることは、特定された分析者のデータは全て使えないことになります。そうすると、全体の資料数が大幅に減るので、統計解析が成立しにくくなります。

実は、統計学的な問題を生じさせることなく0 ppmを除外する方法があります。それは、メチル水銀濃度(実数)そのものでなく、その対数値を使います。log10(0) 数学では存在しないので、必然的にデータ群から除外されます。また、本来統計学で数値群(臍帯メチル水銀濃度群)を扱うには、それらのヒストグラム(度数分布)が正規分布することが求められます。臍帯メチル水銀濃度(実数)では正規分布が得られませんが、その対数値をデータ群とするとヒストグラムは正規分布します。もちろん、対象数から0 ppmの検体が減るという負荷が生じますが、正規分布という好条件をもたらします。

対数値を用いた重回帰分析のうち有意の変動があったものを列記します。1950年~1965年の臍帯中メチル水銀濃度の対数値(以下の主語)は、【以下、説明変数】アセトアルデヒド年間生産量に依存して変動をしました(p=0.034)。水銀系農薬の散布の普及後に上昇し(p=0.008)、八幡プールから百間港への再度の排水先変更で低下し(t=3.79, p<0.001, 誤差が小さいとt値が大きいという関係がある)、漁獲規制解除によって上昇しました(p=0.030)。助触媒の変更後、上昇する傾向(p=0.076)にありました。【以下、共変数】出水>水俣>芦北の地域差があり、出水は、水俣および芦北より共に高濃度でした(p<0.001)。1~3月出生>10~12月出生>7~9月出生>4~6月出生(*)の季節差があり、4~6月出生は、1~3月出生(p=0.002)および10~12月出生より低く(p=0.025)、7~9月出生より低い傾向にありました(p=0.066)。そして、これらの有意差の下で、胎児性患者はその他の対象者より高濃度(p=0.011)でした。(*)受胎月に書き直せば ⇒ 4~6月受胎1~3月受胎>10~12月受胎 7~9月受胎となります。魚介類メチル水銀濃度が低い順(受精卵の着床率の高い順 ⇒ 不妊率の低い順)と言えるかもしれません。7月・8月の水銀系農薬の散布による影響の小さい順であることが示唆される、と言うのは言い過ぎでしょうか。

数字の魔術に惑わされそうです。臍帯メチル水銀濃度の対数値でなく実数を従属変数とした重回帰分析では、異なった結果が示されました(度数分布が正規分布していないので当然のことです)。危険率の数値が異なっているだけの要因を挙げます。アセトアルデヒド年間生産量に依存した変動(p=0.040)、水銀系農薬の散布の普及後の上昇(p=0.001)、八幡プールから百間港への再度の排水先変更で低下(t=4.79, p<0.001)です。また、出水>水俣>芦北の地域差があり、出水は、芦北より高濃度(p<0.001)でした。一方、明らかに異なった有意性を示した要因を挙げます。【説明変数】助触媒の変更で上昇(p=0.039),漁獲自粛による低下(p=0.040),および百間港から八幡プールへの排水先変更で上昇(p=0.028)が有意でした。また、【共変数】1~3月出生>7~9月出生>10~12月出生>4~6月出生の季節差があり、4~6月出生は、1~3月出生より低く(p=0.001)、7~9月出生より低い傾向にありました(p=0.052)。そして、これらの有意差の下で、胎児性患者はその他の対象者より高濃度の傾向ありに止まりました(p=0.096)。

t値や危険率(p値)からは、感覚的に実数値による解析結果に頼りたくなります。しかし、重回帰分析は正規分布したデータにおける偏りを検索するのですから、ここは冷静に対数値による解析結果に基づいて考察するべきでしょう。また、客観的な選択理由もあります。対数値による解析では、胎児性患者はその他の対象者より高濃度であり(p=0.011)、実数値によった場合、胎児性患者はその他の対象者より高濃度の傾向あり(p=0.096)に止まっていたことを挙げることができます。胎児性患者の臍帯メチル水銀濃度が、その他の対象者のそれらより明らかに(有意に)高濃度であるべきと考えれば、対数値による解析結果を選択するのが妥当・客観的と言えるでしょう。

胎児性患者は妊娠後期(筆者は、かつての周産期;28週以降の妊娠期を想定しています;現在、周産期は22週以降と規定されています)における胎内でのメチル水銀曝露によって脳神経系の発達が阻害されて発症したと考えています。困ったことに胎児性患者のメチル水銀曝露量の閾値は報告されていません。せいぜい、臍帯メチル水銀濃度が1 ppm以上が胎児性患者の認定基準になっているという現実があります。ところが、さらに困ったことに、胎児性患者でないにもかかわらず1 ppm以上の臍帯メチル水銀濃度の対象者が多数います。地域(胎児性/その他);水俣(5/1),芦北(2/1),出水(4/22)の分布です。臍帯メチル水銀濃度1 ppm以上の対象者における水俣と出水の患者分布に有意差があります(5/1:4/22, カイ二乗値=11.13, p=0.001)。このことは、臍帯メチル水銀濃度は胎児へのメチル水銀曝露量の指標ではありますが、両者の関係が決して定常でないことを示唆していると考えられます。水俣では急性・亜急性の水俣病患者(急性患者と後述)と胎児性患者がほぼ同じ時期に連続発生しています。一方、出水では急性患者の初発(1959年6月)は、胎児性患者の初発(1955年9月)から4年近くも遅れています。すなわち、水俣の魚介類のメチル水銀レベルは相当に高く、魚介類を多食した者と妊婦は、それぞれ、急性発症と流産・死産に至り、比較的少食の妊婦が胎児性患者を出生したのでしょう。一方、出水の魚介類のメチル水銀レベルはそれらを多食した程度では急性発症しないレベルであり、妊婦がそれらを極端に多食したことで胎児性患者の出生に至ったのでしょう。

臍帯は胎盤と胎児を繋ぐ組織であり、母(妊婦)への曝露メチル水銀は胎盤を素通りするのではなく、捕捉できなかった一部が臍帯静脈(動脈血)を通って胎児に運ばれます。胎盤の容量(発達度;重量)が通過率を左右すると考えています。血液胎盤障壁(Blood placental barrier;BPB)機構の一つとして、胎盤組織を担体としたメチル水銀のクロマトグラフィーのようだとの考えです。この場合、メチル水銀の負荷量が担体(胎盤組織)に対して過負荷(高濃度)であれば、通過し易く胎児へと移動するので、胎盤に留まる量が減り、臍帯(胎盤末端)のメチル水銀濃度は低く抑えられるでしょう。また、メチル水銀は胎盤を通過できますが、無機水銀は通過できません。したがって、胎盤組織におけるメチル水銀の無機化(脱メチル化)という代謝活性が高ければメチル水銀の胎盤への負荷量が減り、BPBが存分に働き、メチル水銀の胎盤通過量を減らすことで臍帯にメチル水銀が十分に留まると考えられます。当然、無機化能力の低い胎盤組織の場合、胎児へのメチル水銀通過率は高くなることでしょう。

胎児性患者の臍帯メチル水銀濃度は、例数,幾何平均ppm【95%信頼区間】19,0.835  【0.481 – 1.448】です。疫学の基本は時間および地理分布です。まず、地理分布の偏りを観察するために地域別に分類しました。分類すると必然的に検体数が分散するので、誤差が大きくなってしまいます。仕方ありません。水俣;9 ,0.909【0.482 – 1.715】,芦北;5,0.355【0.046 – 2.740】,出水;5,1.684【0.895 – 3.165】です。時間分布では、検体数が22(0 ppm例を省くと19)でありながら出生年が15年間に渡っていますので、分けると大きなリスクが生じます。出生年で適正に分類することは難しいと判断します。一方、出生月(日)の分布をみると、5/7と6/28、および11/5と1/11との間に大きな間隔(不連続性)がありました。そこで出生月1-5(1/11~5/7)と6-11(6/28~11/5)に分けました。1-5月;7,0.370(0.090 – 1.516),6-11月;12,1.342【1.011 – 1.782】です。また、定番の児の性でも分類しました。女児;7,0.715【0.343 – 1.492】,男児;12,0.914 【0.392 – 2.126】です。

それぞれの要因と単独の関係を分析しました。すると、167検体の解析と同様に、出水>水俣>芦北の地域差があり、出水は芦北より有意に高い臍帯メチル水銀濃度でした(p=0.031)。出生月では6-11月>1-5月の季節差(?)がありました(p=0.013)。また、男児>女児ですが、その差は有意ではありません(p=0.666)。次に、19検体の臍帯メチル水銀濃度(対数値)に対するこれらの3地域、出生月、および児の性の3要因とそれらの交互作用の効果を調整するための分散分析を行いました。

1-5月出生の臍帯メチル水銀濃度(対数値)は6-11月出生のそれらより有意に低く(p=0.003)、水俣および出水のそれらは、それぞれ芦北のそれらより有意に高かったが(p=0.039およびp=0.004)、性差はない(p=0.114)、という結果でした。それぞれの交互作用を調整(無いものとして比較)したことで、単要因で分析した場合より、危険率が小さくなりました。そのため少ない検体数(19)にもかかわらず、167検体の解析と同じ結果を再度、示すことができたということです。先に、魚介類のメチル水銀濃度において水俣>>出水ではなかったかと記しました。地域別に分散分析をやれば、何か分かるかもしれません。ただし、検体数が減るという大きなリスクを含んでいることを忘れてはいけません。

水俣の場合(検体数9)、臍帯メチル水銀濃度(対数値)は1-5月<6-11月であり(p=0.004)、女児<男児の性差がありました(p=0.009)。芦北の場合(検体数5)、1-5月<6-11月ですが(p=0.014)、性差はありません(p=0.797)。出水の場合(検体数5)、臍帯メチル水銀濃度(対数値)には季節差および性差はありません(p=0.718およびp=0.787)。

大上段の構えになってしまいますが、水俣の胎児性患者の出生において、季節差が性差を引き起こしており、出水の胎児性患者の出生には季節要因の係わりが薄く、性差を引き起こす要因となっていないと考えました。

母児の母体血と臍帯血を得て(県立大島病院 & 出水総合医療センターから235組)それらの総水銀濃度を測定したことがあります。出水が対象になっていますが、それほど高濃度の母体血Hg濃度は検出されていません。&oには初産婦と経産婦 & 児の性への拘りがあります。他の研究者(大多数が男性)には「何故か」胎盤機能に出生順・児の性は係わらないという予断癖があります。一姫二太郎は世界中の格言です。そうであれば、初産婦と経産婦×女児と男児の組合せで胎盤機能が異なるのではないかと考えてしまいます。母体血Hg濃度に対する臍帯血Hg濃度から、母体血から臍帯血へのHgの濃縮度(neonateHg/maternalHg;nm比とします)が算出できます。

mn比を従属変数とし、母体血Hg濃度(対数値)、初・経産婦(0 vs 1)×児の性(0 vs 1)を説明変数とした重回帰分析をしました。mn比は母体血Hg濃度が高くなるにしたがって低下します(p<0.001)。初産婦と経産婦でmn比に有意差はありません(p=0.102)。女児より男児の方がmn比は低いです(p=0.037)。しかし、経産婦の男児1 & 1)ではmn比が高くなります(p=0.039)。この結果から、初・経産婦×児の性の4群で胎盤のHg代謝能が異なることが想起されます。4群別でないこの結果は採用しない方が賢明だと考えています。もちろん、この結果が次の解析法の指針になりました。4群別に解析しました。

初産婦の女児の場合;mn比は母体血が10 ppb上昇すると3.76低下する(p<0.001)。初産婦の男児の場合;mn比は母体血が10 ppb上昇すると0.54低下する(p=0.020)。経産婦の女児の場合;mn比は母体血が10 ppb上昇すると0.61低下する(p=0.014)。経産婦の男児の場合;mn比は母体血が10 ppb上昇すると0.50低下するが有意でない(p=0.164)。

初産婦は、とにかく胎児を守る機構が備わっていると言えるのではないでしょう。経産婦でも女児の場合は、何とか胎児を守る機能が働いているようです。女児を守る機構の存在が、Homo sapiens sapiensの繁栄をもたらした根本と言うのは言い過ぎでしょうか…..。

公開日2018年5月21日 作成者tetuando


鹿児島県における月別出生数の経年変動について(予報)

久方ぶりの投稿です。表題についての統計解析が終わってからの投稿だと、何時になるのか予想がつきません。そこで、表題資料を鹿児島県庁で収集している時に気付いたことを中心に報告します。

まず、月別出生数の調査を思いついたきっかけは、前回の投稿である「我が国におけるメチル水銀汚染-最終章 総合的考察(雑感)」に少し記しています。原田正純氏(熊本水俣病で発生した胎児性患者のお父さんと慕われたお医者さんであり、水俣病被害者に寄り添った研究者です)が遺した不知火海沿岸住民の臍帯中メチル水銀濃度のデータの疫学的解析の際に生まれました。

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熊本水俣病は水俣市で操業したアセトアルデヒド生産工場の工場廃液中のメチル水銀が唯一の汚染源の「公害」との説明が常識となっています。そしてそんなメチル水銀に汚染された不知火海の魚介類を多食した住民に「水俣病」が発症したと伝えられています。ところで、これまでの熊本水俣病発生と臍帯中メチル水銀濃度の変動との関係についての調査・研究において、疫学的解析の原則である「時間分布と地理分布」の動向ではなく「地理分布を考慮しない時間分布」だけで「水俣病発生と臍帯中メチル水銀濃度の変動」を説明していたように思います。実際、臍帯中メチル水銀濃度の経時的変動とアセトアルデヒド年間生産量との間で算出された有意の正相関関係が、工場廃液がメチル水銀汚染源であることを証明しているとされてきました。

お気付きでしょうか?臍帯中メチル水銀濃度には出生年月日という時間が有りますが、アセトアルデヒド生産量は年間という時間です。両者の相関関係をみるには、年毎の臍帯中メチル水銀濃度に対し、平均値(さらに算術平均でなく幾何平均であるべき→臍帯メチル水銀濃度の対数値が正規分布するので)、あるいは中央値を当てるのが一般的です。これまでは、両者の正しい時間分布を比較していたのではなく、片や生年月日、此方年間と異なる尺度での比較でした。ある研究者がその矛盾に気付いています。しかし、彼が用いた臍帯中メチル水銀濃度の年間平均値は、胎児性患者の臍帯中メチル水銀濃度を特異的に高いという理由から棄却し、その上で算術平均値を求めています。それは、研究者にとっての独自の研究上の工夫と言えるかもしれません。しかし、彼は臍帯中メチル水銀濃度の地理分布を考慮していません。ところが胎児性患者の臍帯中メチル水銀濃度には出水≫水俣≧芦北という地理分布が有ります(胎児性患者以外の試料では 出水≫水俣>芦北 です)。結果的に出水の胎児性患者に高い臍帯中メチル水銀濃度を省いたそれらの年間算術平均値とアセトアルデヒド年間生産量を比較したことになっています。困ったことにこの比較が部分的に地理分布を導入した両者の時間分布を含んでいることから、それまでの両者の調査・研究の相関関係の考察より、一見、正当性が確保されているように見えます。科学的な視点が欠けた相関関係でありながら、むしろ地理分布が加わった(出水が省かれた)ことで、考察もスムーズに展開されているということです。

彼を含めたこれまでの研究者の視点に、工場廃液が百間港から排出されていた1958年8月までの急性水俣病患者が水俣湾沿岸住民からのみ発生したという事実が組み込まれていません。確かに、それまでの胎児性患者が水俣湾沿岸住民に加えて、出水および芦北の住民からも出生しています。胎児性患者の出生に、母の高濃度メチル水銀曝露(量)があるとの先入観があります。母(妊婦)の高濃度メチル水銀曝露では死産が必発ではないでしょうか。胎児性患者を出生した母のメチル水銀曝露量が一般児を出生した母のそれらより高濃度であるのは確かでしょう。しかし、胎児性患者の母の水俣病症状が軽いことを、母への曝露メチル水銀のほとんどが胎児に移行した結果と、多くの研究者が言い放ちます。それらの母の魚食習慣は胎児性患者を産んだ時にのみ多食したのでしょうか?日頃からの魚の多食であれば、妊娠しない時に急性水俣病を発症したのではないでしょうか。胎児性患者の発生には、メチル水銀曝露量もさることながら、その時期が最も影響するのではないでしょうか。高濃度メチル水銀曝露された母の受精卵が着床できたでしょうか。当時の不知火海沿岸住民の女性に死産・流産が頻発したという調査があり(板井八重子;有機水銀濃厚汚染地域における異常妊娠率の推移についての研究,東京大学博士論文集,1994)、水俣湾沿岸を含めた不知火海沿岸住民女性の異常妊娠率が高かったという事実があります。

受精卵が着床しなければ児は出生しません。原田氏が収集した臍帯のうち水俣市の試料では、急性水俣病患者が頻発していた期間、すなわち1955年から1958年において4月および5月の試料が欠けていました。4月・5月の出生は7月・8月の着床です。出生に着目すれば、4月・5月は水俣湾沿岸での最漁期の一部なので(5~7月が最漁期;原田ら2009)、妊婦の魚介類の多食が死産を誘発したと考えることが出来ます。しかし、4月の死産理由の説明は多分に、4月も最漁期に準じる漁獲があるとの先入観が含まれていると思います。一方、着床に着目すれば、7月は最漁期・8月は水銀系農薬の最散布時期です。したがって、4月・5月および7月・8月のメチル水銀曝露量は、魚食量が同等であれば、7月・8月のそれらが高く、妊婦におけるメチル水銀曝露量が一年中で最も高いと思われます。原田氏の臍帯収集に「水俣病患者世帯への偏り」という選択バイアスが含まれていたでしょう。そのため、魚を多食する女性(妊婦)における7月・8月の受精卵の着床が困難だったでしょう。その為、水俣市住民に限った場合、4月・5月の出生児が欠けた臍帯の収集になった可能性が高かったと考えました。

1958年9月~1959年10月には工場廃液は百間港ではなく八幡プールを経由して直接、不知火海へ放出されました。出水および芦北の環境海水のメチル水銀レベルが上昇したと考えられます。不知火海沿岸環境中のメチル水銀レベルがとくに高かったと考えられた1955年7月(以降水銀系農薬散布が普及)~59年10月における原田氏の臍帯試料のうち4月および5月の出生児数をカウントしました。水俣では16人中0人、出水で19人中2人、および芦北で9人中1人、すなわち全体で44人中3人でした。1959年11月(工場廃液が八幡プールから百間港へ再変更された;水銀系農薬は使用中)から1966年5月(完全循環式排水法に変更;水銀系農薬は使用中)における対象児中の4月および5月の出生児数は、水俣で22人中5人、出水で38人中9人、および芦北で14人中2人、すなわち全体で74人中16人です。両期間における4月および5月の出生児分布に差があり(3/41 vs 16/58, Fisher`s exact test, p=0.040)、試料の収集に選択バイアスがあったことを踏まえても環境中メチル水銀レベルが高かったことが予想された1955年7月~59年10月の臍帯試料の4月および5月の出生数が統計学的に有意に少なかったことが示されています。

人口動態統計によって出生・死産(他に婚姻・離婚・死亡)の情報が得られます。不知火海は工場廃液由来のメチル水銀で汚染されましたが、水銀系農薬由来のメチル水銀の負荷もあったと考え(主張し)ています。当然、全国の閉鎖系水域・海域でも水銀系農薬由来のメチル水銀の負荷があったはずです。そうであれば、稲イモチ病対策の水銀系農薬散布が普及した1955年以来、全国的に7月下旬から9月上旬に水田に散布された水銀系農薬由来のメチル水銀が、水田における夏季の灌水に伴って、周辺水域・海域に流出したと思われます。不知火海以外の閉鎖系水域・海域に流出した水銀系農薬由来のメチル水銀は魚介類に取り込まれたことでしょう。メチル水銀レベルが上昇した魚介類を妊婦が多食することによって、受精卵の着床抑制が発生する可能性を考えました。水田からの水銀系農薬由来のメチル水銀の閉鎖系水域・海域への流出による魚介類へのメチル水銀曝露・生物濃縮には若干のタイムラグがあったでしょう。魚介類のメチル水銀レベルは9月下旬まで上昇した可能性があります。工場廃液由来のメチル水銀の負荷があってベースとしてのメチル水銀レベルの高い不知火海と比較すると、全国の閉鎖系水域・海域のメチル水銀レベルが、受精卵の着床を妨げる閾値レベルに達する時期が遅れたことが予想されます。したがって、全国的には6月の出生がとくに抑制されていたかもしれません。

全国の自治体の人口動態統計は、それぞれの自治体で確認出来ます。そこで、水銀系農薬の普及前からそれらが使用されなくなった後までの期間の鹿児島県の月別出生数を調べました。注目は阿久根市・出水市・出水郡(出水保健所管内)、錦江湾奥の隼人町・福山町・国分市(隼人保健所管内)です。鹿児島県全体、鹿児島市、西之表市・熊毛郡(西之表保健所・屋久島保健所管内)などとの比較です。枕崎市も比較してみたいです。

鹿児島県の統計では1952年(s27)から1968年まで、6月の出生数が最少です。水銀系農薬散布の普及は1955年(s30)なので、s27からs30までの6月の出生数が最少であるからといってこの現象が水銀系農薬の散布によって引き起こされたとは言えません。しかし、s31からs40までは、6月を挟む5月および7月の出生数もまた6月に準じて少ないのです。一方で、s27~s30、s41、s42、およびs43の出生数は6月が最少ですが、5月および7月のそれらは6月に準じて少なくはありません。 s27~s30 に関しては、水銀系農薬の散布が普及前であったことで説明できるかもしれません。 s41、s42、およびs43については次のような理由があったと考えています。

s40の6月に新潟水俣病の発生が公表されました。新潟水俣病の発生に工場廃液(阿賀野川河口から65kmにあったアセトアルデヒド生産工場由来)が関わっているという世間一般の常識は、昭和43年(1968)9月26日に出された水俣病に関する政府の統一見解*1)や新潟水俣病裁判の裁決(昭和46年9月29日;被告・昭和電工の敗訴)を受けてのことです。新潟水俣病における急性・亜急性患者の時間・地理分布は、s64.Aug~s65.Julyまでに阿賀野河口から2km~8kmの左岸集落(下山・津島屋・一日市・江口)の18人と5km~8kmの右岸集落(新崎・兄弟堀・森下・高森)の8人です。被告(昭電)は裁判でこの工場廃液原因説に不自然な時間・地理分布を前面として論争しましたが、「塩水楔説」なる机上の空論(河口域における塩水楔は何処でも発生する自然現象だが、河口から5kmまでしか説明できない/塩水楔によって1964年6月16日の新潟地震津波で流出した新潟港埠頭倉庫(信濃川河口)保存の水銀系農薬が原因と主張/信濃川河口域≪阿賀野川河口のメチル水銀汚染レベルが塩水楔・埠頭倉庫の津波被害と矛盾する)を展開したことが敗訴に直結しました。それまでは、津波流出の水銀系農薬説が被告の主張でした。この政府見解や裁判進行を受けるまでもなく、全国の稲作農家が、それまで肌で感じていた水銀系農薬散布の危険性を避けようと、最も必要な時期(8月中旬)にだけ必要量を散布したことで、最少の出生数は6月でしたが、5月および7月のそれらは散布時期の影響が大きく、出生数が6月に準じて少ないという統計でなくなったのではないかと思います。(*1);政府見解→「新潟水俣病は、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物を含む排水が大きく関与して中毒発生の基盤となっている」→工場廃液はメチル水銀中毒発生の基盤との「見解」であり、それが汚染源であるとの「結論」ではありません。

続いてs41およびs42の5月には農林省から「水銀系農薬に代えて非水銀系農薬の使用を」という農林事務次官および農政局長からの通達がありました。全国の農家、というより農協はこの通達を受け入れようとしたのですが、稲イモチ病に対する水銀系農薬に代わる非水銀系農薬の生産が整っていなかったこともあり、s40とは状況が異なりますが、水銀系農薬散布量が抑えられたようです(*2)。そんなことで、5月・7月の出生に対する水銀系農薬の散布の影響が小さかったと考えます。(*2);水銀系農薬の年間生産量s38;105.4千㌧,s39;131.8千㌧,s40;132.7千㌧,s41;117.0千㌧,s42;60.7千㌧,非水銀系農薬の年間生産量s38;(-),s39;0.4千㌧,s40;6.1千㌧,s41;22.2千㌧,s42;79.5千㌧(石井敬一郎,農薬工業の展望,有機合成協会誌,1968)

水銀系農薬の使用量と6月の出生数に有意の変動関係があることを統計学的に示すことが大切です。水銀系農薬は全国で2300・Hg㌧使用されたこと、都道府県別使用量のデータはありますが、残念なことに使用量の経年変動についての数値データに出会いません。したがって、出生数の変動を農薬の使用状況の経年変化という次元の異なるファクターでの定性的な統計解析に縛られます。選択の余地がなさそうです。それなりの報告への道は遠いようです。いつまで待っても報告できないかもしれません。問題の報告はこの予報にとどまるかもしれません。都道府県別使用量と都道府県別6月(5月・7月)の出生数の変動幅を比較する方法があります。経年的な都道府県別の月別出生数が手に入れば、農薬使用量に対する米生産量を指標とした曝露群と非曝露群との比較なら、それなりの報告ができるのではないかと考えています。簡単にはたら・れば;の世界から抜け出すことはできないでしょう。統計方法の試行錯誤から答えが見つかれば幸いです。

公開日2019年8月8日 作成者tetuando


1952~1962年における鹿児島県各地域の出生数の変動について

人口増の最大の生態学的要因は安定的食糧確保の継続です。しかし、我が国では太平洋戦争後の1947年~1949年に、極端な食糧不足でありながら第一次ベビーブームと呼ばれる年間240万人を超える新生児の誕生を経験しました。人口増に関わる生態学上の視点に「平和」を加える必要があることを学習しました。また、1947年~1949年の第一次ベビーブームの発生要因として、「平和」の確保の方が「食糧」の確保に優先したことも学習しました。

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その後、朝鮮動乱(1950~1951年)による朝鮮特需で経済状態が大幅に上向きました。「平和*1」と「食糧*2」が同時にそれなりに確保されたにも関わらず、出生数は漸減しました。しかし、その後、食糧確保の打ち出の小槌として稲イモチ病の予防・治療の特効薬として水銀系農薬が出現し、その散布が1955年の夏季から全国的に普及しました。その効力の沙汰は、何度かOB会HPに記してきました。米石高は、散布普及前の1954年に5900万石で、散布が普及した1955年に8000万石と、何と作付け状況が136%という大豊作でした。また、神武景気と呼ばれる好景気で戦前最高水準を超える経済回復がありました。ところがこの「食糧」の確保と好景気で人口増が得られた形跡がありません。*1;故郷の小倉では、朝鮮動乱の帰還兵・負傷兵・死亡兵が受け入れられていました。死体を洗う作業日当が8000円(父からの伝聞;アンパン10円、卵30円、電車初乗り大人10円の時代)という記憶があります。小倉の繁華街は米兵であふれていました。北朝鮮・中共軍が優勢だった頃の12/7/1950、小倉市城野米軍キャンプ から出征間じかの黒人兵が集団脱走・暴動を起こしました。その事件を題材にして松本清張( 1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞 )が短編小説を書いています(黒地の絵)。したがって、局所的には「平和」ではなかったかもしれません…..。*2;小学生に限っての脱脂粉乳とコッペパンの給食という最低限のエネルギーとしての「食糧」確保に過ぎなかったのかもしれません…..。

小学3年生時、社会科の授業で教わったのは「米石高8000万石(s30年全国人口;8930万人)」だけど「児島湾の干拓竣工」「八郎潟の干拓推進中」「諫早湾の干拓計画」によって、近い将来、一人一石の「お米」を確保が約束されるだろう、ということでした。正に、平和な時代の食糧確保なので、出生数増による人口増が期待されるはずです。確かに人口は、その後2005年の12800万人まで増え続けました。そして1970年代前半の第二次ベビーブームによって出生数もそれなりに確保されました。しかし、第二次ベビーブームのピークであった1973年の出生数でさえ1952年のそれらを下回っています。緩やかな人口増は出生数の減少分を大幅に上回る高齢者の平均余命の延伸によるものだったということです。それにしても1955年からの「平和な時代の食糧確保」によって出生数が増えなかったのは何故でしょう。

一般論では、教育費の負担増を避けるために産児制限が浸透したことによるとされています。そうでしょうか?我々、大いなる人口集団の第一次ベビーブームマー・団塊世代の国立大学の授業料は年間1.2万円でした。大学出の初任給の半額以下だったのですから、一般論は後付けのように思います。むしろ、子供が少ないので年間53万円(同初任給の2.5倍以上)の国立大の授業料に費やすお金が生まれたように思います。とはいうもの、これまで、「平和な時代の食糧確保」によって出生数が増えなかった理由を真剣に考えたことはありませんでした。そんなとき、胎児性水俣病患者の父と呼ばれた故原田正純医師が遺した不知火海沿岸住民の臍帯メチル水銀濃度の時間、および地理分布によって不知火海のメチル水銀汚染の変動を検索し、同時に、その変動要因を検討する研究に取り掛かっていました。

原田先生が集めた臍帯は299検体に止まっています。その上、実際に統計解析に使用するデータに欠損がなかったのは、水俣83検体、芦北45検体、および出水91検体の計219検体でした。メチル水銀汚染の中心である水俣の検体が相対的に少ないことに戸惑いを感じました。坂本らは(2001)、水俣において死産が特異的に多発したことが水俣の検体の少ない理由ではないかと報告しています(死産児の臍帯は保存されないから)。ところで、3地区(出水・水俣・芦北)の臍帯中メチル水銀濃度の平均値は、出水が有意に最高です(1947~1980年の観察期間を5つに分けたどの期間でも)。メチル水銀汚染の中心である水俣の臍帯メチル水銀濃度の平均値が三地域間で最高でない理由も、やはり、水俣において死産が特異的に多発したことにあると考えられてきました(メチル水銀の高濃度曝露によって死産に至る → メチル水銀高濃度曝露児の保存臍帯の欠損が発生 → 平均値は低くなる)。しかし、水俣における死産の多発は1955~59年の出来事なので、1960年以降の臍帯中メチル水銀濃度の平均値で出水>水俣であることの説明を死産の多発とすることは出来ません。

では、何故、何れの観察期間においても出水>水俣の臍帯中メチル水銀濃度が測定されたのでしょう。調査・研究の展開に「予測・仮定」は必要です。しかし、「予断・思い込み」は禁物です。多くの一般人(研究者であっても)の「思い込み ≒ むしろ一般的知識(常識)と言えるかもしれません」は、ⅰ)臍帯中メチル水銀濃度は児へのメチル水銀曝露量の指標である、ⅱ)メチル水銀は胎盤を通過(素通り)する、というもののように思います。少なくとも筆者は、ごく最近まで臍帯中メチル水銀濃度を「児へのメチル水銀曝露量の指標」と考えていました。ところが、胎盤は受精卵の着床で形成されるのですから、胎盤の成長・発達は児の遺伝子情報に従っています。その上、胎盤の末端でもある臍帯は児と直に繋がっているのですから、臍帯中メチル水銀濃度が児のメチル水銀曝露量の指標との考えがまったくの間違いとは思えません。しかし、一方でメチル水銀に対する血液・胎盤関門(Blood-Placenta Barrier;BPB)は存在しており、メチル水銀は確かに胎盤を通過しますが素通りしているわけではありません。それに胎盤を通過したメチル水銀は血液に含まれて児に運ばれるのであって、胎盤(=臍帯)組織中のメチル水銀が直接胎児に運ばれるのではありません。胎盤を通過した母の血液中の酸素や栄養素が児の血液に取り込まれて児に運ばれることを認識すれば、臍帯中メチル水銀濃度が児へのメチル水銀曝露量の指標でないことを知ることができます。したがって、児へのメチル水銀曝露量の直の指標は、臍帯血中のメチル水銀濃度ということになります。臍帯中メチル水銀は胎盤末端のメチル水銀であり、BPBで胎盤を通過できなかったメチル水銀、すなわち母の曝露メチル水銀の一部ということになります。

BPBは胎盤組織を充填剤、母の血液を展開物質および展開溶媒とする吸着カラムクロマトグラフィーの結果と言えるでしょう。したがって、充填剤(胎盤組織)に対して母の血液中のメチル水銀が、①高濃度であればBPBが効かず(負荷量過多=overload;吸着できない)、母の曝露メチル水銀のほとんどが胎盤を容易に通過し、胎児の血液取り込まれるでしょうし、②低濃度であればBPBが効いて(吸着する)曝露メチル水銀のほとんどが胎盤に止まり胎児の血液に移行るのは限られるでしょう。結果、児へのメチル水銀曝露量は、①では多量になり死産発生の閾値を超えることもあるでしょうが、②では限定的な量に止まり死産には至らず、胎児として成長するでしょう。ただし、メチル水銀曝露の時期と量によっては「胎児性水俣病患者」として出生する可能性があるでしょう。メチル水銀が内分泌撹乱物質(環境ホルモン)と呼ばれたことがあります。そのことを説明していると思います。

工場廃液に含まれたメチル水銀に汚染された水俣湾内の魚介類の多食によって1953年12月(初発)から1958年12月までの5年間に女26人および男39人の急性水俣病患者が発生しました。しかし、その5年間に出水では一人の急性水俣病患者も発生していません。一方、胎児性患者の初発は、水俣湾沿岸住民では急性患者の初発から1年以上経過した後の1955年4月であり、出水住民では胎児性患者の初発(1955年8月)から4年経過後急性患者の初発(1959年6月)がありました。水俣湾沿岸において急性患者が発生していた時期は、正に死産の多発時期でもあり、母の血液中メチル水銀は①(高濃度)の状態だったと考えられます。一方、急性患者や死産の多発が記録されていない出水の母の血液中メチル水銀は②(低濃度)の状態だったでしょう。②の状態であってもメチル水銀曝露の時期と量に依存して胎児の脳神経組織が中毒域に達して胎児性患者の発生に至ったと考えます。②の状態では母の曝露メチル水銀の大部分が胎盤に蓄積したと考えられ、母の脳神経組織へのメチル水銀曝露量が比較的少なかったことが予想できます。胎児性患者の母の水俣病症状が比較的軽かったことを説明していると思います。これまでの通説にある、母への曝露メチル水銀のほとんどが胎児に移行した結果、母の脳神経組織に蓄積(曝露)したメチル水銀が少なかったとの説明とは異なると考えています。

①では胎盤(末端は臍帯)に止まったメチル水銀量が少ないことから臍帯中メチル水銀濃度は低かったと考えられます。一方、②では胎盤に止まったメチル水銀が多かったことで臍帯中メチル水銀濃度は高くなると考えられます、臍帯中メチル水銀濃度が出水>水俣であったことの説明になると思います。

今回の主題は「7月・8月の水銀系農薬散布によって8月・9月の河口域(and/or閉鎖的海域)においてメチル水銀濃度が上昇した魚介類を多食した女性の受精卵の着床が抑制されることによって出生数が減少する」という仮説の検証です。8月・9月の河口域が水銀系農薬由来のメチル水銀に汚染されるという仮説は、鹿児島湾における報告(安藤,2012)が唯一の説明ですが、実証例(evidence)と考えています。8月・9月の出水沖の不知火海域や鹿児島湾奥域における環境中のメチル水銀が受精卵の着床を抑制するレベルであるという仮説を検証しなくてはなりません。すなわち、出生数の減少が5月・6月に特異的に発生したことを検証することになります。

一方、8月・9月の出水沖不知火海環境中メチル水銀レベルで受精卵の着床が抑制されるとすれば、1955~59年に死産が多発した水俣湾沿岸住民は、その間8月・9月を含めた通年の環境中メチル水銀レベルが高かったことが示唆されます。同時期には、通年的に受精卵の着床が抑制されたかもしれません。その場合、ひと月当たりの出生数の平均値が低下すると考えられます。実際、今回得られた人口動態統計から1955~59年の出生数/月の平均値は、人口5万人の水俣で76人(年間917人)、人口13万人の出水市郡で206人(2472人)、人口20万人の大島市郡で492人(5904人)です。出水、および大島市郡の人口を単に5万人で調整すると、それぞれ79人(年間951人)、および123人(年間1476人)と算出できます。出水市郡より大島市郡の出生数が相当に多いようです。それぞれのメチル水銀曝露レベルを、 大島市郡では受精卵の着床は抑制されず《当然、メチル水銀曝露による死産は発生しないと考えます;実際、当時の鹿児島県の死産率 [{ 死産数/(出生数+死産数)}×1000] が60~70台でしたが大島市郡では1未満でした》 、出水市郡では受精卵の着床は抑制されるがメチル水銀曝露による死産は発生せず、水俣ではメチル水銀曝露によって受精卵の着床が抑制される上に死産・流産が発生すると仮定すれば、水俣では年間559人(1476-917;5年間で2795人)の受精卵の着床抑制、および死産の発生(大島市郡-水俣市)、および年間34人(951-917;5年間で170人)死産の発生(出水市郡-水俣市)、また年間525人(1476-951;5年間で2625人)の受精卵の着床抑制の発生(大島市郡-出水市郡)という仮説です。

実際の水俣市における、1955~59年の5年間の出生数は4550人【男2238人、女2312人(出生性比は97;2238/2312)】であり、死産数は216人【男137人、女79人(死産性比は173;137/79)】です(坂本ら,2001)。これらの死産数を出生数に加えて算出した出生性比[(出生男児数/出生女児数)×100]は99【(2238+137)/(2312+79)】であり、平常の出生性比(105 とします)からの死産によって発生した低下部分2(99-97)は全低下分8(105-97)の1/4に止まっています。したがって、残りの3/4の低下部分6は流産・受精卵の着床抑制によって発生したことが示唆されます。水俣市におけるこの5年間の出生の減少数をおおよそ2795人(上記の人口動態統計からの推定値)とすれば、死産数170、流産・受精卵の着床抑制数2625と算出できます。得られた死産推定値(170)と実際の死産届出数(216)にそれなりの差(46)が存在しています。この差は無視できる数値ではありません。強引ですが、46の差はメチル水銀曝露に起因しない死産数と考えることができます。坂本らの報告では(2001)、男児に偏った死産が出生性比を狂わせたと説明していますが、この結果からは、流産・受精卵の着床抑制が出生性比を狂わせた主因と解釈できるでしょう 。

前置きが長くなりました。水銀系農薬散布に起因する環境中メチル水銀曝露レベルの上昇によって、鹿児島市では受精卵の着床は抑制されず、出水市郡では受精卵の着床は抑制されるが死産は発生せず水俣では受精卵の着床が抑制される上に死産・流産が発生するだろう、という仮説にそれなりの蓋然性を持たせるための前置きでした。入手出来た熊本県の人口動態統計は1955~59年分の確認に止まり、1955年7月が境界となる水銀系農薬散布の普及という時間要因を検討するための1955年7月以前のデータが不足しています。一方、鹿児島県の人口動態統計は1952~62年分が得られています。そこで、今回は、鹿児島県(名瀬市/大島郡を除く)・鹿児島市・出水郡市・姶良郡市・名瀬市/大島郡のそれぞれ出生数の変動について個別に統計学的に検討しました。

 昭和27年(1952)から昭和37年(1962)の11年間における各地域区分の出生数を従属変数とします。説明変数として;Ⅰ;水銀系農薬使用普及前(0):普及後(1),Ⅱ;経年(s27=0, s28=1, s29=2…..s33=6, s34=7,…..s37=10),水銀系農薬散布の普及×経年=Ⅰ×Ⅱ,共変数として月別に0・1で分類 →【m1:1月(0):その他月(1),…….. m6:6月(0):その他月(1),………, m12:12月(0):その他月(1)】=m1, m2, m3, m4, m5, m6 m7, m8, m9, m10, m11, m12 とした重回帰分析を行いました。

 鹿児島県(名瀬市/大島郡を除く;1955年人口196万人)における1952~62年の出生数の変動は、Ⅰによって有意ではありませんが59人増加し、Ⅱによって有意に毎月217人減少し,およびⅠ×Ⅱによって有意ではありませんが毎月17人増加しました。また、5月・6月の場合、Ⅰによって有意ではありませんが126人増加し、Ⅱによって有意に毎月247人減少し,およびⅠ×Ⅱによって有意ではありませんが毎月74人増加しました。鹿児島県全体では、水銀系農薬散布の普及前後の出生数は減少ではなく増加しています。一方で、経年的な(1952~62年における)出生数減がみられています。水銀系農薬散布の普及後(1955年7月~62年における)、および普及後の経年的な出生数の変動はともに増加しています。すなわち、米石高の増加という食糧の確保によって出生数が増加した可能性が問えます。鹿児島県では、水銀系農薬散布の普及(1955年)以降の月当たりの出生数を1952年の時点のそれらと比較すると、計算上、全月(1月~12月)対象とした解析では、毎月出生数が200人(-217+17)減少し、5月・6月に限った解析では、毎月出生数が173人(-247+74)減少しています。5月・6月の出生数の減少幅が全月(1月~12月)のそれらよりかなり小さく、鹿児島県では水銀系農薬散布が5月・6月に特異的に影響した可能性を示すことはできませんでした。

 Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年  鹿児島市(1955年人口26万人)における1952~62年の出生数の変動は、Ⅰによって25人有意に減少,Ⅱによって毎月16人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月11人有意に増加しました。また、5月・6月の場合、Ⅰによって7人減少しましたが有意でなく,Ⅱによって毎月15人減少する傾向にあり,およびⅠ×Ⅱによって毎月12人増加しましたが有意ではありませんでした。Ⅰ;水銀系農薬散布の普及前後で鹿児島県の出生数は(有意ではないものの)増えましたが、鹿児島市のそれらは有意に25人減少しています。鹿児島市の出生数の減少が水銀系農薬散布の普及によって発生した可能性は否定できないでしょう。鹿児島市では、水銀系農薬散布の普及(1955年)以降の月当たりの出生数を1952年の時点のそれらと比較すると、計算上、全月(1月~12月)を対象とした解析では、毎月出生数が5人(-16+11)減少し、5月・6月に限った解析では、毎月出生数が3人(-15+12)減少しています。5月・6月の出生数の減少幅は全月(1月~12月)のそれらより若干小さく、鹿児島市の5月・6月の出生数への水銀系農薬散布による影響が鹿児島県のそれらより大きい可能性は有りそうです。

 Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年,Ⅲ工場廃液排水地の変更  出水市郡(1955年人口13万人)における1952~62年の出生数の変動は、Ⅰによって80人有意に減少し,Ⅱによって毎月37人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月30人有意に増加しました。5月・6月に限ると、Ⅰによって58人減少する傾向にあり,Ⅱによって毎月28人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月22人有意に増加しました。出水市郡では、水銀系農薬散布の普及(1955年)以降の月当たりの出生数を1952年の時点のそれらと比較すると、計算上、全月(1月~12月)対象とした解析では、毎月出生数が7人(-37+30)減少し、5月・6月に限った解析では、毎月出生数が6(-28+22)人減少しています。5月・6月の出生数の減少幅が全月(1月~12月)のそれらよりわずかに小さく、出水市郡の5月・6月の出生数への水銀系農薬散布による影響が鹿児島県および鹿児島市より大きい可能性は有りそうです。しかし、この統計結果からは、出水市郡の妊婦の多くが魚介類をそれほど多食しなかったと考えざるを得ません。出水市郡の住民から多くの水俣病患者が発生したという一般的事実とは異なる結果です。

ところで、出水郡市沖の不知火海には、;1958年9月~1959年10月まで工場廃液排水地の変更(水俣湾内百間港から水俣湾外八幡プールへ)によって工場廃液由来のメチル水銀が直接排出されました。そこで、この工場廃液の排水地変更期間を説明変数として加えて重回帰分析を行いました。ただし、排水地変更期間が14か月の短期間であったことから、観察期間は1952年~59年に限定しました。出生数の変動は、Ⅰによって156人有意に減少し,Ⅱによって毎月37人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月30人有意に増加し、Ⅲによって15人減少しましたが有意ではありませんでした。しかし、要因Ⅲ工場廃液排水地の変更によって出生数が有意でないものの減少したことは、出水市郡沖不知火海のメチル水銀レベルの変化があったことが示唆されます。

実際に、工場廃液の排水先変更に関わる変動については、回帰係数(15)に対する標準誤差(11)が大きいことから、工場廃液の季節(各月)との関係が大きく異なり回帰係数が大きく変動した可能性が考えられました。そこで、観察期間をそのまま1952~59年として、各月別に同様の重回帰分析を試みました。各月別の重回帰分析では、Ⅰ;水銀系農薬散布の普及によって出生数が有意に減少したのは、6月、8月、および11月の3か月に限られていました。また、Ⅱ;経年的な有意の出生数の減少は、1月、3月、4月、6月、7月および8月の半年に及んでいました。8月は水銀系農薬の散布の最盛期であることから、11月における受精卵の着床抑制ではなく、死産の異常発生があった可能性が指摘できるかもしれません。また、Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布普及後の経年的出生数の有意の増加があったのは、3月、6月、および8月の3か月に限られていました。すなわち、Ⅰ・Ⅱ・Ⅰ×Ⅱの要因の何れによっても有意の変動があったのは6月および8月に限定されていたのです。その上、6月および8月は、Ⅲ;工場廃液排水先変更によって出生数に有意の減少がみられています。

そこで、次に1952~59年の6月・8月に限定し、Ⅰ・Ⅱ・Ⅰ×Ⅱ、およびⅢを説明変数とする重回帰分析を行いました(6月と8月の差は両月を共変数として調整しました)。出生数の変動は、Ⅰによって215人有意に減少し(p<0.001),Ⅱによって毎月37人有意に減少し(p<0.001),およびⅠ×Ⅱによって毎月60人有意に増加し(p<0.001)、Ⅲによって56人有意に減少(p=0,001)しました。出生数は、A期;1952年1月から1955年6月までは毎月37人減少し、B期;1955年7月から1958年8月までは毎月23人(-37+60)増加する一方でA期よりも毎月215人少なく、C期;1958年9月から1959年12月までは毎月23人増加する一方でA期よりも215人少なく、B期よりも56人少ないと算出できます。1952~59年の6月・8月以外の月の場合(各月の差は各月を共変数として調整しました)、出生数の変動は、Ⅰによって145人有意に減少し,Ⅱによって毎月37人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月43人有意に増加し、Ⅲによって8人減少しましたが有意ではありませんでした。出生数は、A期;1952年1月から1955年6月までは毎月37人減少し、B期;1955年7月から1958年8月までは毎月6人(-37+43)増加する一方でA期よりも毎月145人少なく、C期;1958年9月から1959年12月までは毎月6人増加する一方でA期よりも145人少なく、B期よりも8人少ないと算出できます。正に、水銀系農薬散布に由来するメチル水銀の負荷の影響が6月および8月に特異的に見られていると言えるでしょう。

一方、観察期間を1952~62年と期間を延ばし全月を対象とした出生数の変動は、Ⅰによって83人有意に減少し,Ⅱによって毎月37人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月30人有意に増加し、Ⅲによって19人有意に(減少でなく)増加しました。したがって、Ⅲの要因による出生数の変動は、1958年9月~1959年10月までの工場廃液排水地の変更期間中の6月・8月に特異的に発生したと捉えることができそうです。出水市郡では急性水俣病患者が1959年6月、8月および9月にそれぞれ1人ずつ3人発生しています。この時期の6月・8月では出水市郡沖の不知火海のメチル水銀レベルが特異的に高かったことが示唆されます。翻ってみれば、出水沖の不知火海が濃厚なメチル水銀汚染であったのは、工場廃液が八幡プールから不知火海へ直接放出されていた期間に限られていたことが示唆されます。この工場廃液の不知火海への直接放出が、不知火海のメチル水銀汚染の基盤レベルを押し上げたことも示唆しています。

ここで、1952~59年の5月・6月に限定し、Ⅰ・Ⅱ・Ⅰ×Ⅱ、およびⅢを説明変数とする重回帰分析を行いました(5月と6月の差は両月を共変数として調整しました)。出生数の変動は、Ⅰによって228人有意に減少し(p=0.002),Ⅱによって毎月28人有意に減少し(p=0.002),およびⅠ×Ⅱによって毎月56人有意に増加(p<0.001)、Ⅲによって60人減少する傾向(p=0.058)にありました。6月・8月の場合と比べると、要因Ⅱを除くその他の要因Ⅰ・Ⅰ×Ⅱ・Ⅲによる回帰係数の絶対値が大きいにも関わらず、有意性はそれぞれ低いという結果でした。5月・6月では死産が極少なく、受精卵の着床抑制が相当数発生し、6月・8月では死産がそれなりに発生した上に、受精卵の着床抑制が相当数発生したと考えました。出水市郡のうち出水市に限定した統計解析をするべきですが、地区を分けることによる各月の出生数の絶対数が少ないことから生じる標準誤差の拡大を防ぐことができません。出水市郡の規模で統計解析した理由でもあります。やや強引ですが、出水市郡の5月・6月の場合も、工場廃液由来のメチル水銀に水銀系農薬由来のメチル水銀が加わり出生数が、受精卵の着床抑制によって減少したと考えました。

Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年  鹿児島湾奥沿岸の姶良郡市(1955年人口18万人)における1952~62年の出生数の変動は、Ⅰによって23人減少する傾向にあり(p=0.082),Ⅱによって毎月37人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月15人有意に増加しました。また、5月・6月の場合、Ⅰによって35人増加しましたが有意でなく(p=0.175),Ⅱによって毎月52人有意に減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月34人有意に増加しました。出水市郡沖の不知火海には水俣湾からの工場廃液由来のメチル水銀が基盤的に負荷していたと考えられますが、鹿児島湾奥には水銀系農薬だけがメチル水銀負荷源と考えられます。それ故に、Ⅰによる出生数の減少が有意ではなく、減少傾向に止まったと考えました。

ところで、カルデラ地形の鹿児島湾奥では夏季に表層から水深80mにかけて温度躍層が形成されることで海水の入れ替わりが制限されています。したがって、天降(あもり)川や別府川によって運ばれたであろう水銀系農薬由来のメチル水銀が湾奥に長く止まる可能性が考えられます。そこで、観察期間を1952~64年に延ばしてⅠ・Ⅱ・Ⅰ×Ⅱを説明変数とし、出生数の変動について重回帰分析を行いました。全月を対象とすると観察期間が1952~63年ではⅠによって出生数は有意に32人減少し(p=0.014)、1952~64年ではⅠによって出生数は有意に41人減少しました(p=0.001)。5月・6月を対象にすると、観察期間が1952~63年ではⅠによって出生数は43人減少する傾向にあり(p=0.065)、1952~64年ではⅠによって出生数は有意に52人減少しました(p=0.020)。対象が全月および5月・6月にかかわらず、出生数減少に有意性が高くなり、その絶対値が大きくなっています。したがって、水銀系農薬散布が続いている間、鹿児島湾奥のメチル水銀レベルは逐次上昇し、出生への影響(受精卵着床の抑制作用)が高まった可能性があると考えられます。

 Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年  名瀬市/大島郡(奄美大島)は1953年12月に本土復帰しました。人口動態統計も1954年からの記載でした。そこで観察期間は1954~62年としました。Ⅰ、ⅡおよびⅠ×Ⅱによる出生数の変動はいずれも有意ではありませんでしたが、Ⅰによって3人増加し,Ⅱによって毎月24人減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月12人減少しました。また、5月・6月の場合でも、Ⅰ、ⅡおよびⅠ×Ⅱによる出生数の変動はいずれも有意ではありませんでしたが、Ⅰによって17人増加し,Ⅱによって毎月13人減少し,およびⅠ×Ⅱによって毎月17人減少しました。奄美群島の基幹作物はサトウキビです。そのため、奄美大島での稲作は限定的であり、重回帰分析は奄美群島では水銀系農薬散布が普及しなかったことを反映した結果と言えるでしょう。

 Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年  人口26万人の鹿児島市の場合、観察期間が1952~62年ではⅠ、Ⅱ、およびⅠ×Ⅱによってそれぞれ有意の出生数の変動がみられましたが、その絶対値(符号は増加+・減少-)はそれぞれ25-、16-、11+でした。鹿児島市での観察期間を1952~59年と短くすると、ⅠおよびⅠ×Ⅱによる出生数の変動に有意性が認められませんでした。Ⅰ、Ⅱ、およびⅠ×Ⅱによる出生数の変動の絶対値(符号は増加+・減少-)はそれぞれ19-、16-、10+でした。また、5月・6月に限定した場合、観察期間が1952~62年におけるⅠ、Ⅱ、およびⅠ×Ⅱによる出生数の変動は有意ではありませんでしたが、その絶対値はそれぞれ7-、15-、12+でした。観察期間が1952~59年でもⅠ、Ⅱ、およびⅠ×Ⅱによる出生数の変動はそれぞれ有意ではありませんでしたが、その絶対値はそれぞれ16+、15-、13+でした。観察期間が短いことで出生数の変動の向きが異なった上に、有意性もみられていません。鹿児島市の魚市場に一部、鹿児島湾奥産の魚介類が水揚げされていることから、観察期間を長くすることで水銀系農薬散布が毎年繰り返されることを鹿児島湾奥の魚介類のメチル水銀レベルが上がったこととして反映したのかもしれません。

 水俣湾からの工場廃液由来のメチル水銀が基盤的に負荷していたと考えられる出水沖不知火海沿岸の人口13万人の出水郡市における観察期間1952~62年のⅠ、Ⅱ、およびⅠ×Ⅱによる出生数の変動は、それぞれ83-、37-、および30+であり、水銀系農薬だけがメチル水銀負荷源と考えられる鹿児島湾奥沿岸の人口18万人の姶良郡市における同じ観察期間のそれらは、それぞれ23-、37-、15+です。人口規模の順(鹿児島市>姶良市郡>出水市郡)と出生数の変動の絶対値の大きさ(鹿児島市<姶良市郡<出水市郡)とは逆転しています。鹿児島湾奥のカルデラ地形が鹿児島市(鹿児島湾央)と姶良市郡(鹿児島湾奥)における水銀系農薬散布の影響の差を生みだしたと考えられます。出水市郡(不知火海)は姶良市郡よりも水田面積が広い上に水俣湾からの工場廃液由来のメチル水銀が加わっていることが両者の水銀系農薬散布の影響の差として表われていると考えます。したがって、ⅠおよびⅠ×Ⅱの出生数の変動への影響の本体がメチル水銀である可能性が高いと言えるでしょう。さらに、出水市郡においてⅢ要因;1953年9月~1954年10月の工場廃液排水地の変更によって6月および8月の出生数が有意に減少しており、8月・9月の出水市郡沖の不知火海における魚介類のメチル水銀レベルが高く、死産や受精卵の着床抑制が発生した可能性が高いことを示唆しています。

 1952年~62年までの全国(昭和30年の人口8930万人)の月別出生数のデータがあります。これまでと同様の重回帰分析を行いました。Ⅰ;水銀系農薬使用普及,Ⅱ;経年,Ⅰ×Ⅱ;水銀系農薬散布の普及後の経年です。出生数はⅠによって有意に244,890人減少し、Ⅱで有意に毎月8,099人減少し、Ⅰ×Ⅱによって有意に毎月7,310人増加しています。全国でも水銀系農薬に由来するメチル水銀による出生数への影響があった可能性を十分問えるでしょう。

 ところで、全国の月別出生数は多い順に、1月>3月>2月>4月>8月>9月>12月>7月>10月>5月>11月>6月であり、6月の出生数は全てのその他月のそれらより有意に少数でした。鹿児島県に関わる各調査地域においても6月の出生数が全てのその他月のそれらより有意に少数でした。各調査地域の月別出生数は多い順に、鹿児島県(除大島郡市);1月>4月>2月>9月>10月>8月>11月>12月>3月>7月>5月>6月  鹿児島市;1月>9月>8月>10月>12月>2月>7月>11月>3月>4月>5月>6月  出水市郡;1月>2 月>4 月>12月>9月>7月>8月>10月>11月>3月>5月>6月  姶良市郡;1月>2 月>4 月>9月>3月>8月>10月>11月>5月>7月>12月>6月  大島郡市; 4月>11月>10月>1月>12月>9月>5月>8月>2月>3月>7月>6月  月別出生数の順のパターンにおいて、大島郡市だけがその他の調査地域とかなり異なっていることも、大島郡市除くその他の調査地域における出生数の変動要因に水銀系農薬散布が関わっていることを説明しているのかもしれません。

 ここまで、鹿児島県の各調査地域、とくに出水市郡および姶良市郡の出生数の変動に対して水銀系農薬散布が関わっていることが示唆されました。しかし、疫学における関連の一致性を得るために、水俣、および芦北をはじめとする熊本県、および新潟市、および阿賀市をはじめとする新潟県の人口動態統計から、今回と同様の統計解析をする必要があるでしょう。熊本県、および新潟県在住の読者の皆さんに期待したいと思います。

tetuando


酢酸フェニル水銀系農薬によるメチル水銀汚染 -1952~1961年における鹿児島県各地域の出生数と死産率の変動について

我が国の稲作においてニカメイチュウの退治、および稲イモチ病の予防と治療によって収穫量を確保することが重要課題でした。ニカメイチュウの駆除として有機塩素系および有機リン系農薬を使用することで満足な効果が得られました。一方、稲イモチ病対策としての水銀系農薬(商品名 セレサン石灰,主剤 酢酸フェニル水銀)の散布が1953年に始まり、2年後の1955年には全国的に普及しました。実際、1954年に5800万石だった米石高が1955年には8000万石という大豊作を得て、水銀系農薬散布が稲作には切っても切り離せない技術・農作業という意識・認識が出来上がったようです。米石高の安定的確保をもたらした各種農薬散布でしたが、初夏の風物詩である「ホタルの乱舞」があっという間に衰退したように、水田を取り巻く小河川において生態系の異常が発生しました。その後、食生活の欧米化によるパン食の定着に伴う米飯離れによって引き起こされた余剰米の問題を解決するため、減反政策が推進されました。暫くの時を経て、再び「ホタルの乱舞」が山里に近い小河川で見られるようになりました。まさに、「ホタルの乱舞」の衰退が様々な農薬散布によって引き起こされていたことの説明となっています。

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ところで、水銀系農薬は7月下旬から9月上旬に集中して散布されました。夏季の水田では、稲の生育保護のため午前中に水を抜き(昼間の稲の茎・根の過熱防止)、夕方に水を溜める(夜間の稲の茎・根の保温)という潅水(河川水中ミネラルの追加による肥料効果→生育強化としても重要な農作業)が行われます。大量の水を使う潅水によって水田に散布された水銀系農薬の一部が、用水路、小河川、および河川を通して河口海域に運ばれたはずです。そのため、水銀系農薬散布による稲イモチ病対策が行われていた時、夏季の河口海域においてはそれらの散布量に比例したメチル水銀の負荷が生じ、そのような河口海域に生息する魚介類がメチル水銀に汚染されたことが示唆されます。今回、筆者は水銀系農薬散布によって夏季の魚介類のメチル水銀レベルが上昇し、それを多食した妊婦における出生数および死産数への影響について統計学的に検討しました。

鹿児島県の人口動態統計から、市町村別、あるいは保健所管内別の、さらに年度別および月別の出生数および死産数を得ました。1952年(s27)から1961年(s36)までの出生数および死産数については市町村別の集計でした。1954年の死産数は欠損していました。1962年からは出生数は保健所管内別に記載されていましたが、死産数の記載は中止されていました。なお、鹿児島県全体の出生数および死産数については1953年12月25日の奄美群島市町村の本土復帰による変動を避けるため、1954年度からは奄美群島市町村のそれらを差し引いたものを利用しました。対象地を鹿児島県、鹿児島市、姶良市郡(国分市・隼人町・加治木町・姶良町・溝辺町・蒲生町など)、および出水市郡(出水市・阿久根市・高尾野町・野田町・東町・長島町)としました。

統計解析は主に重回帰分析を行い、有意水準は5%未満としました。各月の出生数を従属変数とする重回帰分析では、観察期間を1952年から1961年の10年間とし、説明変数(時間)として水銀系農薬の散布普及前の1955年7月まで(pest=0),その8月以降の普及後(pest=1),1952年からの経年(y0;1952年=0,1953年=1………… 1960年=8,1961年=9),さらに水銀系農薬散布の普及後の経年変動(pest×y0)を用いました。また、1月から12月の各月を共変数(各月=0,他月=1,m1, m2, m3, m4, m5, m6, m7, m8, m9, m10, m11, m12)としました。なお、出水市郡の場合、工場廃液の排出先;八幡プール(hati2;1958年8月まで=0,その9月以降1960年1月まで=1,その2月以降=0)、および工場廃液排水先;百間港への再変更(rehya;1959年10月まで=0,その11月以降=1)を説明変数として追加しました。

死産の変動については、出生数および死産数が得られたことから、算出した死産率【(死産数÷(出生数+死産数))×1000】を従属変数とする重回帰分析を行いました。説明変数および共変数については出生数の重回帰分析に準じています。

平均人口13万人の出水市郡の10年間の観察期間における月平均出生数±標準偏差は235±61人です。各年別の平均の月出生数は、s27- 329人, s28- 290人, s29- 271人, s30- 206人, s31- 195人, s32- 234人, s33- 227人, s34- 215人, s35- 206人, s36- 176人です。観察初年度329人の出生数が最終年度176人と10年間で出生数はひと月当たり153人減少しました。また、s30年およびs36年の出生数が前年から大きく減少しています。次に、s27~36の平均の月出生数は、1月- 324人, 2月- 263人, 3月- 209人, 4月- 253人, 5月- 202人, 6月- 188人, 7月- 231人, 8月- 234人, 9月- 233人, 10月- 224人, 11月- 223人, 12月- 237人です。1月、2月、および4月の出生数が多く、6月、5月、および3月の出生数が少ないです。

出水市郡の出生数の変動を重回帰分析で検討しました。出水市郡の出生数は多い順に1月>2月>4月>12月>8月>9月>11月>10月>3月>5月>6月でした。月別の差を調整すると、1952年から1955年までの水銀系農薬散布の普及前は経年的に毎月36.4人減少し(p<0.001)、1955年8月以降の水銀系農薬散布の普及後には毎月133人減少し(p<0.001)、その普及後の経年的には毎月4.0人(-36.4+40.4)増加しました(p<0.001)。計算上1957年の各月の出生数は、1955年のそれらと比較すると、125人(-133+4×2)減少しました。また、1957年9月からの工場廃液の排水先が八幡プールへの変更後に毎月5.4人減少しましたが有意ではなく(p=0.587)、1960年2月からのその排水先の百間港への変更後に毎月37.8人減少しました(p=0.013)。ところで、受精卵の着床抑制による出生数減少が5月・6月に現れ、死産の発生による出生数減少が水銀系農薬の散布が行われる7月・8月に現れると予想しました。そこで、観察期間を5月から8月の4か月間に限定して重回帰分析を行いました。

5月から8月までの4か月間の出生数では、5月・6月が7月・8月よりも有意に39人少ない出生数でした(p<0.001)。月別出生数を調整すると、出生数は1952年から1955年までは経年的に毎月31.7人減少し(p<0.001)、1955年8月以降の水銀系農薬散布の普及後には毎月190.8人減少しました(p<0.001)。また、その普及後の経年的には毎月17.9人(-31.7+49.6)増加しました(p<0.001)。さらに、1957年9月からの工場廃液の排水先が八幡プールへの変更後に、毎月35.5人減少する傾向にあり(p=0.052)、1960年2月からのその排水先の百間港への変更後に毎月86.4人減少しました(p=0.001)。計算上1961年の5~8月の各月の出生数は、1955年のそれら(5~8月の各月の出生数)と比較すると、205.3人(-190.8+17.9×6-35.5-86.4)減少しました。観察期間を年間を通した1月~12月の場合と水銀系農薬散布の影響が大きかったと予想した5月~8月の4か月間に限定したことで、どの要因(説明変数)に関わる従属変数(出生数)の変動幅が、前者より後者で大きくなり、それぞれt値も大きくなりました()。排水先が八幡プール、百間港のどちらであっても、工場廃液由来のメチル水銀は一年中不知火海に多かれ少なかれ負荷していたことは客観的事実ですが、この5月~8月という観察期間に特異的に出生数が変動しました。したがって、5月~8月の4か月間に水銀系農薬の散布が直接的に出生数に影響しており、正に、水銀系農薬散布に由来するメチル水銀が出水沖の不知火海に相当量負荷したことが示唆されます。その上で、工場廃液が直接不知火海に排出された期間における出生数の変動は減少傾向に止まりました。(*);t値が大きくなると偶然に出現する確率が小さくなります。すなわち、両者に差が無いという命題に反し、両者に差が有るという確率が高くなることを示します。

不知火海における潮の流れの基盤は対馬海流であり、主流は八幡プールから北東に向かいます。それでも梅雨時や台風期における水俣川(八幡プールは水俣川河口に隣接しています)の増水によって工場廃液が、河川水に乗って熊本県天草・御所浦島に向かい、その後南西(すなわち鹿児島県獅子島・長島→出水沖)に転向する流れがあります。そのような潮の流れは、それなりの時間を経過して出水沖に到達するでしょう。実際、1958年9月に工場廃液を八幡プールから排出してから10か月経過した1959年6月に出水市(出水市郡地区の中では最北東部にあり・八幡プールから11km南西に位置します)で急性水俣病患者が初発し、続いて8月と9月に1人ずつ発生しました。出水市沖の環境中メチル水銀レベルが相当に高かったことが示唆されます。一方、工場廃液の主流先の津奈木町(八幡プールから5km北西に位置します)からの急性水俣病患者は、1959年9月と10月に2人ずつ発生しました。工場廃液の地域的流出割合は調べられていませんが、カタクチイワシの回遊割合からすると北西の津奈木・芦北方面が主流です。工場廃液が単独のメチル水銀負荷源だとすると、急性水俣病患者の時間分布で津奈木町で出水市より発生が遅いことを説明出来ません。ただし、津奈木の急性水俣病患者の発生が9月および10月という時間分布は、水銀系農薬の散布後という水銀系農薬がメチル水銀負荷源とする因果関係の時間性が確保されています。一方、その地理分布では津奈木町4人>出水市3人なので、工場廃液の主流が北西(津奈木・芦北)方向であることを説明しています(因果関係の整合性)。不知火海へ負荷したメチル水銀が工場廃液単独ではなく、水銀系農薬由来のメチル水銀が加わっていたことが明らかになったと言えるでしょう。

次に鹿児島湾奥に位置する人口20万人の姶良市郡の出生数の変動について重回帰分析を行いました。姶良市郡の各年の月毎出生数(年,出生数);27- 473, 28- 443, 29- 424, 30- 353, 31- 375, 32- 344, 33-332, 34- 313, 35- 278, 36- 253, 37- 233, 38- 235, 39- 228 、s27~s39の各月出生数(月,出生数);1月- 482, 2月- 361, 3月- 323, 4月- 350, 5月- 308, 6月- 271, 7月- 296, 8月- 319. 9月-356, 10月- 318, 11月- 313, 12月- 286です。姶良市郡の出生数は1月>2月>4月>9月>3月>8月>11月>10月>5月>7月>12月>6月の順に多いでした。出水市郡の月別出生数と比較しすると12月の出生数が少ない特徴がみられました。1952年から1961年までを観察期間とした場合、月別の差を統計的に調整すると、1952年から1955年までの水銀系農薬散布の普及前は経年的に毎月37.3人減少し(p<0.001)、1955年8月以降の水銀系農薬散布の普及後には毎月26人減少する傾向にあり(p=0.077)、その普及後の経年的には毎月21.5人(-37.3+15.8)減少しました(p=0.002)。計算上1957年の各月の出生数は、1955年のそれらと比較すると、69人(-26.0-21.5×2)減少しました。

姶良市郡については、次に、観察期間を1964年まで3年間延ばした場合の重回帰分析を行いました。月別の差を統計的に調整すると、1952年から1955年までの水銀系農薬散布の普及前は経年的に毎月36.9人減少し(p<0.001)、1955年8月以降の水銀系農薬散布の普及後には毎月41.4人減少し(p=0.001)、その普及後の経年的には毎月23.6人(-41.4+18.0)減少しました(p<0.001)。観察期間の長短に関わらず出生数における月別の差は12月のそれらを基準として算出されました。観察期間が3年延びたことによって、12月と各月との差の幅は、6月を除き、それぞれ縮小していました。12月と6月の出生数の差は、1961年までの観察期間では12.7人でしたが、1964年までと3年延ばすと、13.6人とわずかだが広がりました。出生に関わる環境変動が特異的に6月に発生した可能性は否定できないでしょう。6月の出生数減少に関わる事象として8月・9月の着床抑制を挙げた場合、わずか3年間で夏季の鹿児島湾奥の環境中メチル水銀レベルが上昇した可能性を問うことが出来るでしょう。実際、観察期間の延長は水銀系農薬散布の普及前ではなく普及後の3年です。それらの散布普及前の出生数の経年変動は、観察期間を延ばしたことでわずか0.4人(37.3-36.9)だが縮小しました。一方、それらの散布普及後のその経年変動は2.1人(21.5-23.6)と減少幅が増し、それらの散布後の出生数の減少幅は15.4人(26.0-41.4)拡大しました。したがって、観察期間を3年間延ばしたことによる回帰係数の変容が水銀系農薬散布の普及によって起こった可能性が高いことを支持しています。カルデラ地形の鹿児島湾奥における夏季の温度躍層の出現によって8月・9月の環境中メチル水銀レベルの上昇が増強されたことが示唆されます。

人口180万人の鹿児島県における1952年から1961年の出生数の変動を、重回帰分析を用いて検討しました。鹿児島県の出生数は、1月>4月>2月>9月>10月>8月>11月>12月>3月>7月>5月>6月の順に多かったです。1952年から水銀系農薬散布の普及前まで、出生数は経年的に毎月217.2人減少しました(p<0.001)。しかし、その普及後は経年的に毎月186.4人(-217.2+30.8)減少しましたが有意ではありません(p=0.362)。また、水銀系農薬散布の普及後に16.1人減少しましたが有意ではありません(p=0.873)。鹿児島県においては水銀系農薬散布の普及が出生数の変動に影響したことは示せませんでした。

坂本ら(2001)は1955~1959年の熊本県の人口動態統計から、メチル水銀に汚染された水俣湾の魚介類を多食した水俣湾沿岸住民の妊婦に死産が多発したことを報告しています。坂本ら(2001)は、男児に偏った死産が発生し、通常時の出生性比である105~106が、出生数4550人の内訳;♂2238/♀2312で算出された97に低下したと報告しました。一般的な死産発生の原因のほとんどは母側の病態による胎児への血流の滞りが知られています(90%以上;全国の死産統計より)。母へのメチル水銀の高濃度曝露によって母体血の胎盤への血流が滞ったのであれば、確かに死産は頻発したでしょう。しかし、胎児への血流の滞りによる死産の発生であれば、胎児の性に依存したとは考えにくく、死産性比は105~106に近似したと予想できます。しかし、実際の死産性比は173(死産数216人:♂137/♀79)であり(坂本ら,2001)、この死産性比173は、胎盤への血流が極端には滞らなかったことを説明しています。正に、母への高濃度のメチル水銀曝露によって胎盤において血液胎盤関門が機能せず、母体血のメチル水銀が胎盤に止まらず胎児に移ったと考えられます。メチル水銀中毒による死産が男児に女児より多く発生したことから(死産性比173)胎児におけるメチル水銀感受性は明らかに男児に女児より高いと言えるでしょう。

 死産数は死産届(妊娠12週以降の流産・死産は届け出る)の統計です。出生届で得られた出生数に死産届で得られた死産数を加えて算出した期待出生性比は99【(137+2238)/(79+2312)→2375/2391】で、正常値105~106と比べかなり低いです。死産届の対象でない妊娠11週までの自然流産が頻発したことが予想されます。妊娠・受精卵の一部に、妊娠11週までの流産(80%)、12週~21週の死産(周産期:妊娠22週以降に含まれない死産;11%)、22週~28週の死産(4%)、29週~43週の死産(5%)が発生し、出生まで至らないことが知られています。いわゆる流産(11週まで)が死産の4倍(80%÷20%)発生しています。ここで、妊娠11週までの流産でも水俣の死産と同じ173の流産(死産)性比だったとして算出した男女別の流産数を加え、これらの流産・死産が発生しなかったとして期待される出生性比は、(137×5+2238)/(79×5+2312)→2923/2707≒108と算出できます。正常値よりやや高いです。着床後(妊娠2週以降)の胎盤形成後の胎児にはメチル水銀感受性に女児より男児に強い性差があり、水俣では、妊娠12週以降の死産性比173と同等であったことが予想されます。一方、受精後1週間内で発生する着床抑制であれば、受精性比と同等の性比が期待できるでしょう。105~106と同等と考えられます。妊娠11週までの流産の1/5が受精後1週以内の着床抑制による流産として期待出生性比を算出すると、(116+137×4+2238)/(110+79×4+2312)→2901/2738≒106であり、通常の出生性比が得られます。したがって、坂本らの「死産が男児に偏ることで出生性比が女児に偏る」という示唆は、メチル水銀に汚染されていない現在の流産と死産の発生割合からの算出であれば、ほぼ言い当てているようです。しかし、メチル水銀の汚染下で過剰発生したと予想した死産(届)数と同数程度の妊娠1週までの着床抑制、および死産届の4倍程度あったとする妊娠2週から11週までの流産を無視することは出来ないでしょう。

 1952~1961年の平均人口27万人の鹿児島市での毎月の平均出生数は450人でした。また、水銀系農薬散布の普及後に毎月40人の出生数減(8.9%;40/450)がありました。一方、人口13万人の出水市郡の1952~1955年の平均出生数は274人であり、水銀系農薬散布の普及後に135人の出生減(49%;135/274)がありました。すなわち、出水市郡で鹿児島市の5.5倍の出生数減がありました。出水市郡に特異的な出生減の原因として8月・9月の出水沖不知火海がメチル水銀で濃厚汚染され、漁獲された魚を多食した妊婦における受精卵の着床抑制が過剰発生し、5月・6月の出生数が過減少したと予想しました。一方、7月・8月は水銀系農薬の主な散布時期です。そこで、出水市郡でも水俣と同様にメチル水銀汚染によって死産数(死産率)が増加した可能性を考えました。(死産数/(出生数+死産数))×1000で算出される死産率は、人口規模が調整されます。そこで、死産数ではなく人口が調整される死産率の変動を検討しました。鹿児島県各市町村の年月別の死産統計資料は1961年までの記載に止まっていました。なお、1966年および1967年に農林省は水銀系農薬の使用を止め、非水銀系農薬への切り替えを要請しています。そのため今回の統計解析では水銀系農薬の使用中止後までの観察が出来ませんでした。

鹿児島県の月別死産率は高い順に、3月>7月>6月>8月>5月>9月>10月>2月>11月>12月>4月>1月です。水銀系農薬散布による河口周辺海域のメチル水銀汚染が8月から始まると予想されますが、鹿児島県において月別死産率が最も高いのは3月であり、水銀系農薬散布との関連は考え難いです。重回帰分析による鹿児島県の死産率の変動は、1952年から経年的に毎年2.0上昇し(p=0.032)、1955年8月以降は、経年的に2.3(2.0+0.3)上昇しましたが有意ではありません(p=0.783)。水銀系農薬散布の普及前後(1955年7月までと1955年8月以降と)で11.1低下しました(p<0.001)。鹿児島県の死産率は経年的に上昇しました。水銀系農薬散布の普及によって環境中メチル水銀負荷量が増え、死産率は上昇すると予想しました。しかし、鹿児島県の死産率は有意に低下しました。鹿児島県において不知火海と鹿児島湾は閉鎖系海域ですが、その鹿児島県全土に占める割合が高くはありません。したがって、鹿児島県において水銀系農薬散布に由来するメチル水銀が影響する水域割合が小さいことを反映した結果だったのかもしれません。

鹿児島市の月別死産率は高い順に、5月>6月>4月>7月>3月>9月>8月>2月>11月>10月>12月>1月です。4月の死産率が鹿児島県と比べ鹿児島市に極めて高いですが、1月のそれは鹿児島県と同様に最小ですがそれほど低くありません。これらの事象が鹿児島県の人口の10分の1を占める鹿児島市の中心都市の特徴によってもたらされたと考えられますがはっきりしません。鹿児島市の月別死産率は5月・6月に高い。5月・6月は水銀系農薬散布時期ではないことから、それらが5月・6月の死産に影響したとは考え難いです。重回帰分析による鹿児島市の死産率は、1952年から経年的に毎年7.4低下しました(p=0.016)。水銀系農薬散布の普及前後(1955年7月までと1955年8月以降と)で60低下しましたが(p<0.001)、1955年8月以降には経年的に毎年4.9(-7.4+12.3)上昇しました(p<0.001)。鹿児島市の死産率は、水銀系農薬散布の普及後に低下し、経年的に低下しましたが、水銀系農薬散布の普及後には上昇しました。水銀系農薬散布の普及によって環境中メチル水銀曝露量が増すことで死産率が上昇するとの仮説ですが、鹿児島市の死産率は有意に低下しており、鹿児島市の死産率に、水銀系農薬散布による環境へのメチル水銀負荷の影響があったと説明することは難しいです。しかし、水銀系農薬散布の普及後の経年的な4.9の死産率の上昇に目をやれば、水銀系農薬散布による環境へのメチル水銀負荷が死産率を上げたと説明出来るかもしれません。

姶良郡市(鹿児島湾奥地域)の月別死産率は高い順に、8月>9月>12月>3月>5月>10月>7月>6月>11月>2月>1月>4月です。12月の死産率が鹿児島県と比べ姶良市郡に極めて高いのですが、6月および7月のそれらは鹿児島県および鹿児島市と比べてかなり小さいです。姶良市郡における月別死産率の高い月が8月・9月であり、姶良市郡の水銀系農薬散布が8月中心ならば、6月・7月の死産率が低いことも加わって、死産の発生にそれらが影響した可能性は否定できません。重回帰分析の結果、姶良郡市の死産率は、1952年から経年的に毎年6.2上昇しました(p=0.017)。1955年8月以降には1955年までの経年的上昇をほぼ相殺する低下があり【0.07(6.21-6.78),p=0.023】、経年的な変動はほとんどありません。鹿児島県、および鹿児島市では、水銀系農薬散布の普及後に死産率が有意に低下しましたが、姶良市郡ではその普及前後(1955年7月までと1955年8月以降と)に死産率は有意ではないがわずかに上昇しました(p=0.993)。また、死産率が8月・9月に高く、6月・7月に低かったことを考慮すれば、鹿児島湾奥における水銀系農薬散布の環境への影響について詳細に検討すべきでしょう。ところで、姶良市郡では観察期間が1952年から1961年までの場合、水銀系農薬散布の普及後の出生数は減少しますが有意ではありませんでした。しかし、観察期間を3年間延ばし1964年までとすると水銀系農薬散布の普及後の出生数は有意に低下しました。カルデラ地形の鹿児島湾奥では夏季の温度躍層の形成に伴う海水の垂直循環の滞りという特徴があり、河川水から湾奥に流入した農薬由来のメチル水銀の停滞が折り重なったことが示唆されます。実際に、本研究の観察期間から十数年後の1970年代前半の鹿児島湾奥の海水中メチル水銀は汚染レベルでした(Ando et al, 2010,安藤, 2012)。姶良市郡における死産数の水銀系農薬散布による影響についての検討には観察期間の延長が必要だと思いますが1962年以降の死産数の記載はありません。今後、姶良市郡の死産数の統計を入手することで、改めて死産数を調整した出生数の変動についての統計学的解析を果たしたいと思います。

出水郡市の月別死産率は高い順に、5月>3月>8月>9月>6月>7月>10月>2月>11月>1月>4月>12月でした。重回帰分析による出水郡市の死産率の変動は、1952年から経年的に毎年9.3上昇しましたが(p=0.013)、1955年8月以降には経年的に毎年4.7(9.3-14.0)低下しました(p=0.003)。また、水銀系農薬散布の普及前後(1955年7月までと1955年8月以降と)で42.1上昇しました(p=0.013)。工場廃液の直接的不知火海への放流による死産率への影響は、有意ではありませんが1.8上昇しており(p=0.816)、その上昇幅は、水銀系農薬散布の普及後の経年的死産率の低下分を幾分相殺しています。工場廃液由来のメチル水銀の出水郡市沖の不知火海環境への影響が大きくはないが影響している可能性があることが示唆されます。また、百間港への工場廃液の排水先再変更後に死産率は、有意ではありませんが12.7上昇しました(p=0.282)。

工場廃液が直接不知火海へ放出されたのは14か月間です。死産率に対する工場廃液の2つの排出先の影響は、不知火海への直接的な放出開始時からの14か月間ではわずかに1.8の上昇に過ぎません。しかし、不知火海への直接的な放出が止まってから(本来、工場廃液の不知火海環境への直接の曝露は無いはず)の観察期間27か月間で12.7上昇しました。工場廃液の不知火海への直接の放出が直ぐに死産率を上昇させていません。しかし、不知火海への工場廃液の放出が連続することで不知火海の環境中メチル水銀濃度が徐々に上昇したのは事実でしょう。そのような環境に水銀系農薬由来のメチル水銀が加わることで、工場廃液放出の停止後も工場廃液由来のメチル水銀の大部分が閉鎖系海域である不知火海に留まったことが示唆されます。水銀系農薬の散布が7月・8月に行われたことで、それらの死産率への影響に季節差があると考え、季節別(1月~4月,5月~8月,および9月~ 12月の3季節群とした)に重回帰分析を行いました。

1月~4月間の死産率は、水銀系農薬散布の普及前には経年的に15.3上昇し(p=0.001)、普及後には5.3(15.3-20.6)低下しました(p=0.002)。また、水銀系農薬散布の普及後に57.3上昇しました(p=0.030)。また、工場廃液の直接的不知火海への放流による死産率への影響は6.7低下し、その後、工場廃液の排水先が百間港に戻った後に1.6上昇しましたが、ともに有意ではありません(p=0.544 and p=0.924, respectively)。水銀系農薬散布の普及後に死産率が有意に上昇しましたが、1月から4月は水銀系農薬の散布時期ではないことから、その理由を水銀系農薬散布の影響とは考え難いです。

5月~8月間の死産率は、水銀系農薬散布の普及前には経年的に2.1上昇しましたが有意ではありません(p=0.736)。その普及後には経年的に14.1(2.1-16.2)低下する傾向にありました(p=0.086)。また、水銀系農薬散布の普及後に82.8上昇しました(p=0.025)。一方、工場廃液の直接的不知火海への放流による死産率への影響は有意ではありませんが20.9上昇し(p=0.309)、その後、工場廃液の排水先が百間港に戻った後に60.1上昇しました(p=0.034)。したがって、5月から8月の間、水銀系農薬散布によるメチル水銀負荷量の増大に加え、工場廃液由来のメチル水銀が加わって死産率が上昇した可能性が高いことが示唆されました。食糧供給の確保が期待される水銀系農薬散布によって出生数が増え、さらに死産数が減れば、死産率は低下します。実際、水銀系農薬散布後の死産率の低下幅は1月~4月の20.6に対し5月~8月の16.2と後者の方が小さいです。すなわち、水銀系農薬散布期間が含まれる5月~8月の方が、それらの散布時期を含まない1月~4月よりも死産率の低下幅は小さく、5月~8月の方が1月~4月より食糧の安定的確保による死産率の低下効果が小さく、一方で、水銀系農薬散布に由来するメチル水銀の負荷(曝露)による死産率の上昇影響は5月~8月の方に偏り、1月~4月に極めて小さかったことが予想できます。死産率への水銀系農薬散布の影響は、食糧の安定的確保による低下とメチル水銀の負荷による上昇の相加的効果かもしれません。

9月~12月間の死産率に有意の変動は見られませんでした。水銀系農薬散布の普及前には経年的に16.3上昇し(p=0.361)、普及後にはわずかに0.7(16.3-17.0)低下し(p=0.358)、水銀系農薬散布の普及後に20.4上昇しました(p=0.426)。また、工場廃液の直接的不知火海への放流による死産率への影響は6.3低下し(p=0.607)、その後、工場廃液の排水先が百間港に戻った後は1.6上昇しました(p=0.938)。それ故、9月から12月の間は、水銀系農薬散布の普及および工場廃液ともに死産率への影響は小さかったと考えました。

死産率の変動が出生数に影響したことが予想されることから、死産数を説明変数として追加し3季節別に重回帰分析を行いました。なお、死産数を説明変数として使用し、出生数が含まれる死産率(【死産数÷(出生数+死産数)】×1000)を避けました。

1月~4月の死産数を調整した場合、出生数は、水銀系農薬散布の普及前には経年的に45.9人減少し(p<0.001)、普及後には9.1人(-45.9+55.0)増加しました(p<0.001)。また、水銀系農薬散布の普及後に158.9人減少しました(p=0.007)。工場廃液の直接的不知火海への放流による出生数は有意ではありませんが10.0人減少し(p=0.686)、その後、工場廃液の排水先が百間港に戻った後に有意ではありませんが52.6人減少しました(p=0.161)。

5月~8月では、死産数が1人増えれば出産数が1.3人減る傾向にありました(p=0.058)。そのような死産数を調整した【調整しない】場合、出生数は、8月に比べ7月、5月、および6月にそれぞれ10.8人(p=0.276)、39.8人(p<0.001)、および55.9人(p<0.001)少ないが【8月に比べ7月、5月、および6月にそれぞれ7.1人(p=0.472)、35.8人(p=0.001)、および50.2人(p<0.001)少ないが】、水銀系農薬散布の普及前には経年的に38.3人【31.7人】減少し(p<0.001)【p<0.001】、普及後には16.3人(-38.3+54.6)【17.9人(-31.7+49.6)】増加しました(p<0.001)【p<0.001】。また、水銀系農薬散布の普及後に189.3人【190.8人】減少しました(p<0.001)【p<0.001】。工場廃液の直接的不知火海への放流によって出生数は34.2人【35.5人】減少し(p=0.048)【p=0.052】、その後、工場廃液の排水先が百間港に戻った後に80.3人【86.4人】減少しました(p=0.001)【p=0.001】。2度の工場廃液の排水先変更が、それぞれ出生数を有意に減少させています。したがって、5月~8月の出水沖不知火海環境中に、工場廃液の八幡プールからの排出中には、水銀系農薬由来のメチル水銀に工場廃液由来のメチル水銀が加わったこと、さらに、百間港への再変更後には、その両者のメチル水銀の残留と水銀系農薬由来のメチル水銀が加わったことが示唆される。観察期間として水銀系農薬散布時期を含む5月から8月とし、その期間に発生した死産数を調整したことで、水銀系農薬散布が出生数を減少させる原因だったことがより明らかになった。なお、死産数を調整しない場合の月別の出生数の差が死産数を調整した場合により大きくなったことから、5月・6月の出生数が減少する理由のほとんどが、死産数の増加ではなく、受精卵の着床抑制の過発生である可能性が高いです。

9月~12月の死産数を調整した場合、出生数の有意の変動は、水銀系農薬散布の普及後の93.0人の減少に限定されました(p=0.001)。その他の要因による有意の変動はありませんでした。水銀系農薬散布の普及前には経年的に29.2人減少し(p=0.119)、普及後には7.1人(-29.2+22.1)減少しました(p=0.252)。また、工場廃液の直接的不知火海への放流によって15.0人増加し(p=0.244)、その後、工場廃液の排水先が百間港に戻った後に10.0人増加しました(p=0.634)。9月~12月の出生数の経年的変動に水銀系農薬散布は影響しなかったことが示唆されます。出生数は何れの季節別でも水銀系農薬散布普及後に減少し、その減少幅は1月~4月で158.9人、5月~8月で189.3人、および9月~12月で93.0人でしたが、水銀系農薬散布時期が重なる5月~8月にとくに大きかったです。種々の農薬使用によってお米の安定的かつ量的供給能力の増大を得たにも関わらず出生数は経年的に減少しました。出水平野を持つ出水市郡において出生数の減少が、とくに5月から8月に観察され、さらに工場廃液が直接的に不知火海へ流されて以降に観察されました。したがって、出水市郡の出生数の減少がメチル水銀汚染によって引き起こされたと説明できます。

ここで各観察地域別および3季節別の水銀系農薬散布の普及後の出生数の変動を、死産数を調整した重回帰分析を行いました。鹿児島県;3季節とも有意ではありません。鹿児島市; 1月~4月だけが有意。姶良市郡;3季節とも有意ではありません。すなわち、出水市郡だけが3季節とも有意でした。鹿児島県の各地域における水銀系農薬の散布と出生数の変動との関係において、鹿児島県の観察地域毎に関連の一致性は得られませんでした。一方で、出水市郡だけが工場廃液由来のメチル水銀が負荷する地域であることから、出水市郡においてのみ工場廃液由来のメチル水銀負荷という基盤の上に水銀系農薬由来のメチル水銀負荷の追加による特異的なメチル水銀汚染状態であったことが示唆されます。工場廃液に水銀系農薬が加わったメチル水銀汚染が発生していたと考えられる熊本県における芦北郡および天草郡の町村における人口動態統計によって得られる出生数・死産数の変動の様態が出水市郡のそれらと同じであれば、関連の特異性とともに関連の一致性が得られることになります。不知火海全域、全国の稲作地帯の出生数および死産率(死産数)への水銀系農薬散布の影響について調査・研究できる機会が与えられることを希望しています。

季節を3分割して死産数を調整した不知火海に対峙する出水市郡の1952年から1961年における出生数の変動を観察しました。季節別には、とくに5月~8月の出生数が減少しました。8月および9月の受胎数が減れば5月および6月の出生数が減るでしょう。7月および8月に死産が多発すれば7月および8月の出生数が減るでしょう。工場廃液由来のメチル水銀が基盤的に、さらに年間を通して負荷している出水沖不知火海に7月・8月の水銀系農薬散布に由来するメチル水銀が河川水で運ばれ、8月および9月の不知火海への追加的負荷によって生態系の魚介類のメチル水銀レベルが高まったことが予想されます。そのようなメチル水銀に汚染された魚介類を多食した妊婦において受精卵の着床抑制が過発生すれば出生数は減少することが予想されます。また、5月から8月の月別には5月の死産率が有意ではありませんが6月、7月、および8月に比べ高かったです。5月から7月が出水沖不知火海の最漁期です。死産率上昇の要因としてのメチル水銀曝露量増加において、魚食量の増加が水銀系農薬散布に由来するメチル水銀曝露による魚介類中メチル水銀濃度の上昇を上回っていたことが示唆されます。いずれにせよ、出水沖不知火海において水銀系農薬由来および工場廃液由来のメチル水銀汚染が発生していたことは明らかと考えます。なお、出水市とその近郊地域の水銀系農薬散布は自治体主体による空中散布であったという記録があります(いずみ,出水市報)。魚食を経由したメチル水銀曝露によらず、散布された水銀系農薬を直接的曝露による死産が発生していた可能性も否定できないでしょう。

公開日2020年6月20日投稿 作成者 tetuando


水俣病関連


新潟水俣病公表後の新聞記事

新潟水俣病は昭和40年6月12日に阿賀野川下流域の河口から1.5 kmの下山地区と3 kmの津島屋地区に合わせて5名の水俣病患者が発生したとして公表されました。新潟水俣病の発生域は、中・高校生用の教科書で阿賀野川流域と記されています。熊本水俣病は、水俣湾沿岸住民が初発患者です。二つの水俣病のメチル水銀汚染源の所在は、初発患者の時間分布および地理分布の情報によって、熊本水俣病は水俣湾内に在り、新潟水俣病は阿賀野川下流域の下山・津島屋地区に在る、と考えられます。実際、前者は水俣湾内の百間港・百間排水口と特定されています。しかし、後者は、阿賀野川流域ではありますが、河口から65km上流の昭電鹿瀬工場であるとされています。昭電鹿瀬工場との特定に至った経緯が、その後の新聞記事から分かります。

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新潟水俣病問題の最初の報道記事には、二人の新潟大教授の話として『こんどの中毒は工場廃水によるものか農薬か、あるいはその他のものか、まったく原因がつかめないため、14日(65.6.14)から20人以上の調査団を現地に派遣して、中毒者の発見、分布状態をつかみ、原因を究明したい』と掲載されています(新潟日報,65.6.13)。メチル水銀汚染源の所在地が患者の時間・地理分布によって明らかになることを、二人の新潟大教授はしっかり把握し、はっきりと指摘しています。ただ、原因がつかめないとだけ述べればよいところを、患者がメチル水銀中毒者であるからといって、工場廃水・農薬・その他のものと可能性を順位付けして述べています。

しかし、翌14日の社説では『今回の阿賀野川流域の患者については、その原因が、はたして上流の工場からの汚水によるものか、農薬によって川と魚が汚染されたものであるか、まだ明らかでない』と記しています(新潟日報,65.6.14)。前日の二人の新潟大教授の話を受けた社説でありながら、すでに『上流の工場からの汚水によって川と魚が汚染された』との主旨が見えています。しかし、まだ『農薬(水銀系農薬)による汚染』は否定していません。それでも、前日の6月13日にはまだ工場廃水とだけの表現であり、何処々々のと特定していません。実際、その当時、アセトアルデヒド生産工場は、阿賀野川河口から東に900mの新井郷川沿いの日本ガス化学と阿賀野川河口から65km上流の昭和電工の二か所に在りました。また、新井郷川の河川水の一部は阿賀野川に流れ込んでいます。にもかかわらず、一日にして阿賀野川上流の昭和電工が対象になっています。予断は禁物なのに…..。この先入観に囚われた『汚染源の特定論」が、その後の貴重な研究者の意見の実施を妨げたように思います。

一方、半谷(東京都立大教授)は、『水俣湾の水銀汚染の海底のどろについて調査した結果、汚染源を中心に泥の中の水銀含量がだんだん減少しながら拡がっていることがはっきり出た。こんどの場合も汚染源をつきとめることはさほど困難なことはないと思う』と述べています(新潟日報,65.6.15)。前日までの記事ネタを取材した記者と異なる記者の取材による記事だったのかもしれません。この日以降の記述で、半谷の二文字に会うことはありませんでした。

この半谷の意見は貴重であり、汚染源(発生場所)を特定する方法を、実例を示して紹介しています。

半谷の意見がなぜ貴重かといえば、汚染源発生場所が最も汚染物質の濃度が高いということを水俣湾の例で示しているということです。新潟水俣病問題の調査は熊本水俣病問題の教訓を生かして行われたとされていますが、半谷の参加はなく、その意見を汲み取った跡も見られていません。結局、阿賀野川のメチル水銀汚染調査として、患者調査対照地を右岸河口域の松浜漁港地区とし、左岸下流域で実施しています。一方、環境調査は、下流域の河川底質の水銀測定は実施したものの、底質水銀の地理分布では汚染源所在地を特定することはできませんでした。半谷の意見を尊重しておれば、汚染源所在地が調査時点で阿賀野川下流域から消滅していた可能性を想定すべきです。ところが、65km上流の昭和電工鹿瀬工場に直接関連した排水口や廃棄物処理のボタ山などの土壌水銀は何度も機会をつくり調べています。既にメチル水銀汚染源が工場廃液だと言っているようなものです。鹿瀬工場と下流域の患者発生地区との中間(中流域)の環境調査も実施してはいますが、少数例に止まっています。汚染源所在地からの距離とともに汚染物質の濃度が低下するというような明確な調査目的が無かったのでしょう。また、患者調査の一環として1458人の住民の頭髪総水銀測定実施されています。しかし、その対象者のほとんどが河口から15kmまでの集落住民であり、中・上流域の住民60人で(全対象者の4.1%)、その内、鹿瀬地区住民4人です(*1阿賀野川流域における患者調査と環境調査との接点が曖昧です。鹿瀬工場が汚染源所在地である可能性は否定できないでしょう。その可能性を吟味する上で、鹿瀬工場周辺の環境調査および住民における患者調査は共に必須です。しかし、環境調査は、鹿瀬工場と直接的に関連する限定された場所に止まり、患者調査は4人です。このような調査の結果を基に、新潟水俣病裁判では昭電鹿瀬工場の廃液が新潟水俣病におけるメチル水銀汚染源であると特定しました。当然のように、裁判では、実態とはかけ離れた理論を構築し、被告(昭電)の完全敗訴を引き出しています。一方、これらの調査研究班の結果を受けた政府見解では、工場廃液は新潟水俣病におけるメチル水銀汚染源の基盤であるとしながらも、汚染源であると特定していません。調査研究班に対しても、政府自体にも、それなりの逃げ道を作っています。(*1当時の患者調査は、ほぼ下流域住民だけを対象にしており、中・上流域の患者の存在を想定していなかったと言えるでしょう。しかし、認定患者の1/4は中・上流域の住民です。2015年12月末日時点の認定患者数は、下流域529人(75.1%)、中・上流域174人(24.7%)、その他1人(0.1%)の704人です。当時の調査対象地が適切でなかったということになります。なお、鹿瀬工場の在った鹿瀬町住民における認定者は3人です。頭髪総水銀濃度の測定対象者4人との関係は知り得ません。その4人中の3人が認定者だったとすると、1965年の頭髪総水銀濃度が水俣病認定の資料になったように思われます。1965年に頭髪総水銀濃度を測定していない人々から認定者が出なかったことになります。メチル水銀汚染源所在地においては、その後遅発性発症者が出なかったということでしょうか…..。

鹿瀬工場からの廃液がメチル水銀汚染源であるならば、汚染源所在地を中心に土壌中の水銀含量がだんだん減少しながら広がっているのだから、鹿瀬工場から整然と水銀濃度が低下しているデータを示すことができていれば、昭電は愚の根も出なかったはずです。そのような調査が何故計画されなかったのかは明らかではありません。確かに、鹿瀬工場と直接的に関連する地点で高濃度のメチル水銀を検出することは、相当な結果です。高濃度の総水銀は、鹿瀬工場内からそれなりに検出しています。しかし、決め手となったのが、排水口に生えた水苔(総水銀濃度130~460ppm)から、0.02ppm相当のメチル水銀を検出したことです。現在の一般的知識からは、そもそも、総水銀130ppmの水苔が生きていることは有り得ないはずです。したがって、実際は水苔に付着した土壌の総水銀濃度と考えることができます。そうであれば、460ppmという超高濃度の総水銀濃度の検出も問題ありません。0.02ppmは130ppmの0.0154%です。無機水銀として塩化第二水銀(HgCl2)を100ppm、Wisconsin川の底質に加え、12週間培養したところ、メチル水銀が200ppb相当生成したという実験結果があります。無機水銀の0.2%のメチル水銀が生成したことになります。水苔の0.02ppmのメチル水銀は、土壌中の無機水銀のメチル化によって生成する濃度より低いようです。この水苔の0.02ppmのメチル水銀が昭電鹿瀬工場の廃液がメチル水銀汚染源であるという決定的証拠という、狐につままれる実態があります。鹿瀬工場の廃液がメチル水銀汚染源であるとの予断による研究班の調査であったことで、結論が決まっていたのでしょう。

上記したように、政府の答申は工場廃液説ではなく、工場廃液基盤説です。実際、中流域の数少ないデータの中にも、工場廃液説を否定できる、少なくとも工場廃液が汚染源であるための必要条件を満たせないデータがあります。予断を基にした調査によって得られた膨大な資料はあるのですが、工場廃液説としての答申に行きつかなかったのでしょう。その上、政府(政権)側は知らなかったかもしれませんが、新潟水俣病裁判を通して官僚(厚生省・農林省・通産省)側は、1964年6月下旬から7月に掛けて河口から5kmの阿賀野川に架かる泰平橋下の左岸河川敷に大量の紙袋入りの水銀系農薬が野積みされていたことを知っていた節があります。官僚側の巧妙な道筋の構築の下で政府答申がなされたのかもしれません。

政府は官僚のオリエンテーションによって、新潟水俣病のメチル水銀汚染源を工場廃液と特定せず、基盤となっていると答申しました。農薬(稲イモチ病対策の酢酸フェニル水銀系農薬の大量散布)説が明らかにされても問題が起きないように、表現したのかもしれません。

6月13日・14日に書かれている農薬は、正に水銀系農薬を指していると思われます。水銀系農薬は主に種子殺菌用3-4月に使用)とイモチ病対策の散布用7-9月に使用)との二種類です。この時点では、昭電による塩水楔説の発言前なので、記者を含め、新潟水俣病と前年の新潟地震との関わりがあったことを誰もが予想しなかったことでしょう。その上、水銀系農薬による種子殺菌も農薬散布も阿賀野川流域で特異的に使用されたのではなく、全国の稲作・水田で競って使用されました。したがって、種子殺菌と散布に使った水銀系農薬が、この阿賀野川下流域の5名の水俣病患者のメチル水銀汚染源であると特定できないことは、容易に判断できるでしょう。むしろ、それらが汚染源でないと言えるほどです。しかし、疫学調査では、これらの水銀系農薬の使用については調査すべきです。もちろん、調査団を差し置いて、水銀系農薬は汚染源でないと考えるのは記者の自由です。しかし、この記事によって読者は、昭和電工鹿瀬からの工場廃水とほぼ特定されたと捉えたのではないでしょうか。しかし、調査団は、患者に水銀系農薬使用について調査しています。また、対照地として下山地区の対岸(川幅1km余の右岸河口域)の漁師町の松浜地区を選んでいます。調査団は下流域の左岸下山・津島屋地区にメチル水銀汚染源があることを想定しています。正しいと思います。

2015.3.24(投稿済)….再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年10月7日再投稿(加筆・訂正あり)


生態系の異常から知る熊本水俣病と新潟水俣病の違い

近年、メチル水銀の生物濃縮は哺乳類を除く水棲動物の場合、経口・経腸(食物連鎖・メチル水銀は血清中たんぱく質に結合)に加えて経鰓(エラ呼吸・メチル水銀は赤血球たんぱく質に結合)の濃縮経路が存在すると考えられています。ところが、熊本および新潟の水俣病問題において「公害は食物連鎖(経口・経腸)による生物濃縮がその基盤システム」とされ、その発生状況が水棲生物の食物連鎖網における生態系の異常の時間・地理分布を通して調査されてきました。分子の大きい有機物を鰓経由で血液に取り込むことはないでしょう。しかし、遡上魚では海水下および淡水下で鰓の塩類に対する代謝を変える(海水中では塩類吸収を止め、淡水では積極的に塩類を取り込む)ことで、それぞれの環境で生存・活動が可能になります。メチル水銀(CH3Hg)は有機物・有機金属(炭素Cと水銀Hgが直接結合している)なので鰓は塩類として認識しないはずですが、鰓に集まった赤血球分子内のシステイン-システインのS-S(硫黄原子-硫黄原子)結合にS-CH3-Hg-Sとして結合・取り込まれると考えられます。先人研究者の水俣病研究でどうにも説明出来なかったことの答えのヒントが、メチル水銀がエラ経由で生物濃縮することを認識することから生み出されることが期待されます。

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新潟水俣病関連の調査では昭電鹿瀬工場(阿賀野川河口から 55km上流)の操業中の 1963年の 8月稲イモチ病対策の水銀系農薬散布時期)に阿賀野川上流域の①石戸(河口から41km上流)・②佐取(同37km)及び中流域の③新郷家(同24km)で採集された魚齢3-4か月の幼魚(ウグイ;主に水生昆虫を食むが雑食性 vs オイカワ;草食性の強い雑食性→食物連鎖レベルからするとウグイの方がオイカワより高位、すなわち水銀レベルは;ウグイ>オイカワと考えられる)の総水銀濃度が①石戸;ウグイ7.5ppm  >オイカワ5.8ppm,②佐取;ウグイ5.2ppm  オイカワ 6.2ppm,③新郷家;ウグイ4.6ppm  オイカワ 5.9ppm、と報告されています(水俣病,pp217,青林舎,1979)(*1)。①石戸(鹿瀬工場から 14km下流)、②佐取(同18km)、および③新郷家(同31km)と鹿瀬工場からの距離がかなり異なっており、幾つかの支流からの河川水が加わっているにもかかわらず、幼魚の総水銀濃度はほぼ同等です。この状況では、少なくとも、工場廃液が唯一のメチル水銀汚染源であるとの説明は難しいと思います。(*1);これらの川魚の水銀分析は、新潟水俣病問題が1965年6月に報告された後に、ある大学の研究室からホルマリン漬けの川魚の存在の連絡があり、複数の研究機関で実施されました。ホルマリン(ホルムアルデヒドの水溶液)漬けの試料なので、当時のジチゾンを使用した水銀分析法では分析値が実際より低かった可能性は否定できません。すなわち、川魚の真の総水銀濃度がさらに 1 ppm くらい高かったことも考慮する必要があると思います。

 4 ppm超という高レベルの総水銀濃度であることを月齢3~4か月の幼魚が食物連鎖を通して生物濃縮したとする説明には無理があります。もし、そんな幼魚がメチル水銀を食物連鎖を通して生物濃縮しながら成長すれば、一年魚のメチル水銀(≒総水銀)レベルの期待値は数10 ppmに達します。そんなメチル水銀汚染魚が生き続けることはあり得ません。すなわち、阿賀野川上流・中流の川魚がほとんど斃死していたことになります。しかし、そのようなことは全く報告されていません。

また、②佐取と③新郷家のオイカワ>ウグイという総水銀レベルの逆転した関係を食物連鎖を経たメチル水銀の生物濃縮だけでは説明できません。しかし、これらの阿賀野川の上流域・中流域の川魚の総水銀濃度が非常に高いという事実が、操業中の昭電鹿瀬工場からメチル水銀が流されていたことを証明するものと言われてきました。それでも、1963年5月には昭電鹿瀬工場から 10km下流(河口から 55km上流)に揚川ダムが竣工し、ダム水路式発電が開始しています。①②③の河川水が鹿瀬から直接流れ込んだものではなく、揚川ダムで一旦停留したことを忘れてはいけないでしょう。一方、8月は稲イモチ病対策の水銀系農薬が大量散布される主たる期間です。阿賀野川流域の水田から水銀系農薬に由来するメチル水銀が阿賀野川本流・支流に流出し、鰓(えら)経由で川魚の血液に生物濃縮された分が含まれている可能性は否定できないでしょう。しかし、ここでは、鰓経由のメチル水銀の生物濃縮についてはひとまず棚上げして次に進むことにします。

熊本水俣病のメチル水銀汚染レベルの歴史(時間的・地理的変動)は生態系の異常から確かめられます。;①1950~漁師達が競って、チッソの百間排水口(百間港)に漁船の繋留をしたことに始まり【船底に付着したフジツボや二枚貝等が工場廃液などの有機物の腐敗による酸素欠乏によって死滅・剥離することで、普段なら船足確保のために必須の船底掃除をすることなく、船を百間港に繋留するだけの労作で(重労働せずに)船底掃除が完了します。さらに木造船であれば船底に濃厚なメチル水銀が浸み込むことでトリブチル錫に似た船底塗料のような働きで船底生物の付着予防が完了します】、②1952~排水口周辺で多数の浮魚の発生(これも沿岸域において酸欠状態であったと考えられます)、③1952~水俣湾内の排水口に比較的近い海岸で二枚貝が育たず、口を開けた状態で腐った(懸濁物食の動物=低次動物への影響,口の開いた二枚貝を食べたカラスが飛行中に落下することも観察されています⇒正に、飛べない=筋力低下というMeHg中毒症状です)、④1953~水俣湾に飛来した冬鳥をトリモチで捕獲できた(筋力低下で飛び立てない⇒正に、メチル水銀中毒症状です)、⑤1953年8月、ネズミが大繁殖した(実はネコがほぼ全滅した=原田正純医師の記録では74匹死/121匹飼育)、という生態系の異常例です。

①~⑤はMeHg汚染における世間の常識である食物連鎖の例として語り継がれています。しかし、食物連鎖の低次から高次へと正しく連続していません。③二枚貝(一次消費者)よりも②魚(数次消費者を含む)が先に発生しています。したがって、②の原因がメチル水銀の食物連鎖による毒性発現ではなく、単に濃厚な工場廃液(化学的酸素要求量が極めて高くなる⇒酸素欠乏)による無酸素化・酸欠であることの説明として成立します。ネズミの大繁殖に関しても、大繁殖したのはクマネズミです。ドブネズミでなかったという記事は見当たりません。クマネズミ(漁網の被害が甚大だったので大騒ぎした=当時、家ネコはネズミ退治のために飼育しており、餌はとくに与えていません)が大繁殖し、ネコが狂死したのであれば、食物連鎖に逆行する生態系の異常になります。しかし、ネコの食餌がクマネズミではなく魚であれば、食物連鎖に沿っていることになります。後々には、ネコ狂死がメチル水銀の濃厚汚染の指標とされています。それでも、全滅するほどのネコ狂死は水俣湾沿岸だけであり、八代海の島々や出水、芦北では全滅するほどではありませんでした。水俣湾沿岸では季節差の小さなメチル水銀の濃厚汚染状態であり(毎日排出される工場廃液が汚染源)、八代海では季節に依存した(工場廃液とは異なる汚染源の存在)濃厚汚染が発生していたことが想起されます。①と②を除く③→④→⑤が食物連鎖に沿った生態系の異常であったと言えるでしょう。

すなわち、ネコの狂死数/飼育数の分布を比較すれば、メチル水銀汚染の実態(最も汚染の酷い場所=汚染源の発生場所)を特定することができるかもしれません。ただし、水俣のような漁業地のネコは、北海道のヒグマのように積極的に漁労はしないでしょうから、ネコ狂死の初発地が汚染源の発生地であるとは特定しにくいと思います。単発的なネコ狂死は1937年、1942年、および1949年にも発生したという記録が残っています。ただし、疫学的には単発的なネコ狂死は、水俣湾の魚のメチル水銀レベルが濃厚であったということを説明できるものではありません。しかし、水俣でネコ狂死が多発し、急性・劇症患者が連続発生したのが1953年で一致しています。すなわちネコとヒトが魚食という点では同じ食物連鎖レベルであることを示しています。高次消費者としての哺乳類のメチル水銀中毒では、正に食物連鎖だけで説明できるようです。

ネコが全滅するほど被害が大きかったのはネコにとってタウリン摂取が必須であり(ネコにおけるタウリン不足は網膜萎縮によって視力を失う;カツブシは単に好物だから飛びつくのではなく、視力維持のための必須栄養素であるタウリン確保のための優良な食餌であることをネコが知っているということのようです;100g当たりのタウリン量 → カツオ 80mg >イワシ 20mg,ネコに → カツブシ >煮干し?!?)、水俣湾沿岸で最も手軽なタウリン獲得法は、動き回るネズミを捕えることではなく、煮干し作りのために天日干しの動かないカタクチイワシを失敬することだったということでしょう【水族館の大水槽でマグロとイワシの群れが放たれていても、マグロはイワシ群を追跡捕獲しないようです…..マグロは水族館から与えられる食餌を待ち望み獲得する(給餌を得る) ⇔ 生物は最も有効な(楽な)エネルギー獲得術をすぐさま会得するようです】。

熊本大でネコ発症実験が多数例、行われました。しかし、水俣から連日、熊本大に送られた水俣湾の魚(高次消費者・経口/経腸濃縮)を食べさせたにもかかわらず成功しませんでした。それは熊大に送った魚(魚肉)のメチル水銀レベルが一次消費者(カタクチイワシ・経鰓濃縮)ほど高くなかった(*2)という単純な理由だったと考えられます。(*2);経口・経腸のメチル水銀が最初に集積されるのは肝臓なので実験ネコ用に送られてきた肉ではなく内臓を食餌させれば発症しただろうと考えます。

えら経由(経鰓)のメチル水銀は赤血球に結合・取り込まれているので、酸素供給が滞るほど高いメチル水銀濃度の結合でないかぎりカタクチイワシの行動に異常は見られないでしょう。実際、 多くの魚種(経口・経腸によるメチル水銀の生物濃縮が主体)で大量斃死が確認されましたが、カタクチイワシ(経鰓によるメチル水銀の生物濃縮が主体)の斃死は確認されていません。それでも、カタクチイワシの目・鰓・内臓を除去しない丸ごとを食餌にするので、鰓経由で赤血球に結合したメチル水銀および経口・経腸で生物濃縮したメチル水銀を丸のまま食することになり、実験ネコのメチル水銀曝露量が十分に確保されることが期待できます。

ところで、住民の水俣病の発症が単純に魚食量に依存したと考えたのか、食した魚介類の種類についての調査報告が見当たりません。新潟水俣病の患者がとくに二ゴイ(魚食性の強い雑食性)を食したという報告があるように、熊本水俣病の患者がどんな魚介類をどのくらい食していたかという調査が為されておれば、水俣湾のメチル水銀の地理分布(汚染度分布)が推測できたと思われます。魚が生物濃縮したメチル水銀による中毒で水俣病が発生したという知識を背景とし、阿賀野川下流域のメチル水銀汚染問題における疫学調査では、住民が摂食した川魚の種類および量が調べられています。熊本水俣病事件の経験を活かした新潟水俣病の一部の疫学調査【この場合、住民のメチル水銀曝露量(魚種・魚食量)の推定】が適切であったことが伝わってきます。

熊本水俣病の公式発見(1956年5月1日)は水俣湾内南西の月浦・坪谷(ツボタン;百間排水口から 1.5kmの距離)の海岸に住んでいた幼い姉妹(5歳と3歳)の発症でした。この一家は家の下の磯で採った貝類【状況では二枚貝(一次消費者)と推測される】を毎日のように食していたそうです。しかし、ご両親もこの姉妹の姉さん(12歳)も、その時は発症していません。身体の小さな幼い姉妹の食した量がご両親や姉さんより少量であっても、体重あたりのメチル水銀曝露量が中毒量を超えたということでしょう(脳神経系の発達期にあたる幼児にとってメチル水銀感受性が高いことの現れと考えられます)。3歳の妹さんは現在も存命ですが、5歳の姉さんは発症後3年たたずに亡くなっており、体重当たりの二枚貝(???)の摂食量がとくに多かったことが指摘できます。一方、新潟では幼い子たちの急性・亜急性水俣病の発症は報告されていません。新潟水俣病がアセトアルデヒド生産工場の廃液による長期連続メチル水銀汚染公害であるとするには、幼い子たちに急性・亜急性患者が発生していない点で、熊本水俣病との関連の一致性が得られていません。当時、阿賀野川流域でシジミを日常的に食していた家族が無かったのかもしれませんが……。

ネコ発症実験は、当時の水俣保健所長がヒバリガイモドキ(ムール貝に似た二枚貝;岩礁に付着して浮遊物を吸引捕食する)や煮干しを食餌として初めて成功しました(7匹中5匹が発症)。一次消費者【この場合、ヒバリガイモドキやカタクチイワシ=煮干し →どちらもエラ呼吸( 経鰓)で生物濃縮されたメチル水銀が赤血球に結合している → 丸のままの個体】を食餌とすることが発症の決め手であると指摘したいと思います。煮干し(一次消費者)を食べたネコが発症することを熊本大研究者が把握しておれば、ネコの食餌確保も容易だったでしょう。実験ネコへの食餌の確保のための水俣湾での漁が徒に終わったのはシャレにもなりません。熊本大研究者は水俣湾沿岸住民に多数の元気なネコを預け、その発症の一部始終の報告を求めています。預けられたネコ達は自由摂食でしたので、煮干し作りのための干したカタクチイワシを失敬したことでしょう。預けられたネコがすべて発症したそうです。熊本大研究者(医学者)のネコ発症の一部始終への関心は高かったことでしょう。しかし、ネコの預かり先の住民の健康状態に関心を持たなかったようです。それらの研究者が住民の健康状態に関心を寄せず、ネコが発症することが最大関心事だったとは、情けない話(*3)です。住民が一見すると元気だったのかもしれません。しかし、ネコが発症したのですから、住民のメチル水銀曝露量は尋常ではなかったと思われます。飼い猫の発症という項目が水俣病認定の疫学条件に含まれても良いように思います。(*3);原田正純医師は、水俣病の原因の検証についての講話中にしばしば話題にされていた。

一方、新潟水俣病では熊本水俣病で見られた低次消費者における異常の発生を経験することなく(*4)、突然のように高次消費者においてメチル水銀中毒(生態系の異常)が発生しています。実際は、急性水俣病患者が1964年8月初発し、ネコ狂死の連続発生もまた同年8月から始まりました。新潟では、新潟水俣病が公表された後、すなわち急性・亜急性水俣病患者および狂死ネコの発生が終息した後に、ネコ発症実験が阿賀野川の川魚を餌として行われています(1966年1月まで3か月間飼育)。結果は、実験ネコ1例の各臓器中総水銀濃度が測定されていますが「発症した」とは報告されていません。熊本大研究室でも水俣湾産魚を餌としたにもかかわらず実験ネコは狂死しませんでした。(*4);ところで、新潟水俣病の発生後の調査で、阿賀野川流域の生態系の異常としては発生地が限定されていますが、1963年夏の下流域において、1例のネコ死(狂死か否かは未確認)、および川魚の立ち泳ぎがあったとのことです。その上、川魚の立ち泳ぎに関わると思われる川魚のヤス漁(魚突き漁)が子供達の間で流行ったと報告されています。1963年夏の阿賀野川下流域の川魚が弱っていたことを説明する記録と言えるかもしれません。ただし、1963年8月に阿賀野川中流・上流で採集された3-4か月齢の幼魚の総水銀濃度が4-7ppmという高濃度であったことは前述しましたが、上・中流域で川魚の立ち泳ぎなどは報告されていません。もし、これらの現象がメチル水銀汚染によって発生していたのであれば、夏季の稲いもち病対策として水田に大量散布した酢酸フェニル水銀系農薬(セレサン石灰)由来のメチル水銀が、阿賀野川全流域の汚染源であり、それらのメチル水銀が下流域に集積したことで、下流域に限定されたこのような事が発生した可能性が問えるのではないでしょうか。

実験ネコの肝臓・腎臓・脳の総水銀濃度はそれぞれ10074,および1.7ppmと報告されています。の1.7ppmは、熊本の発症ネコの推定閾値 4.1~8ppmに遠く及んでおらず、「発症していない」可能性が極めて高いと考えられます。一方で腎臓の74ppmは、熊本の発症ネコの推定閾値6.8~12ppmを大幅に超えています。この差異が、実験ネコに与えた川魚中のメチル水銀濃度が熊本の実験ネコに与えられたヒバリガイモドキのそれらよりも相当に低かったことから生じたのではないかとも考えられますが、1例の報告では何の結論も得られません。水俣湾沿岸でのネコは煮干し用のカタクチイワシ(一次消費者)を食して自然発生的に狂死に至ったようですが、阿賀野川下流域の水俣病患者宅の家ネコは患者が主として食したニゴイのお裾分けで発症・狂死したと思われます。それ故、ネコ発症実験でも食餌としてニゴイを用いたことが予想出来ます。しかし、1965年7月以降(26人目の急性・亜急性患者の発症年月)のニゴイのメチル水銀レベルではネコの食餌量に限界があるために、ネコ発症の閾値を超える曝露量に達しなかったと考えられます。したがって、阿賀野川下流域の濃厚なメチル水銀汚染が1964年夏から翌1965年夏までの短期間に止まり、長期連続的に続かなかったことは明らかでしょう。

これが、筆者の熊本と新潟ではメチル水銀汚染源が異なるという発想に繋がっています。新潟の急性・亜急性患者1965年7月までに発症した26人に過ぎません。この26人は阿賀野川左岸(日本海を見て)の河口から1.5~6 km16人右岸の河口から5~8 km8人です。昭和電工鹿瀬工場は河口から65 kmの上流で操業していました。残りの650人を超える認定患者(2015年12月末日時点で、総数で704人、阿賀野川中上流域の住民は174人)の多くは、熊本・鹿児島で申請すれば認定されていないかもしれません。ほとんどが比較的軽い慢性中毒患者(*5)です。*5);昭電鹿瀬工場の操業中止後に発症したとして、当初、遅発性患者と呼ばれました。メチル水銀中毒の閾値を超える曝露によって直ぐには発症せず、閾値超えから数年後(追加のメチル水銀曝露が無い⇔操業中止によって工場廃液由来のメチル水銀の曝露は有り得ない)に遅発的に発症するという型破りの中毒様式です。本来の中毒学でいう中毒とは閾値を超える曝露量の反応であり、閾値を超えた曝露によって反応(中毒)しないことを本来の中毒学では説明できません。

新潟におけるネコの狂死の報告は1965年5月で途切れており、その後ネコ狂死があったという統計データはありません(*6)。八代海においては長島・獅子島・御所浦島で1959年2~5月にネコ狂死が集中しています(*7)。出水での報告は1959年8月です。工場廃液はそれまで水俣湾内百間港に排出していましたが、1958年9月から1959年10月までは水俣川河口の八幡プールから直接八代海に流出しました。八幡プールから流出した工場廃液由来のメチル水銀は水俣川の流れによって水俣地先の対岸の島々へ運ばれたことで、島々に至る漁場のメチル水銀レベルは1958年9月以前より上昇したでしょう。しかし、1958年9月から1959年1月 までに水俣地先の対岸の島々のみならず八代海沿岸でネコ狂死は見られていません。1959年2月4月の水俣地先の対岸の島々でのネコ狂死が工場廃液由来のメチル水銀だけを原因としていると一般的に考えられていますが科学的に検証されていません。ただし、1959年5月のそれらの島々でのネコ狂死の発生に、これらの島々の漁場がカタクチイワシの漁期であったことと関係しており、水俣地先から回遊してきたカタクチイワシのメチル水銀の大部分が八幡プールから流出した工場廃液由来であるといえるでしょう。ところで、8月水銀系農薬の散布期であり、出水地区のネコの狂死に工場廃液のメチル水銀に水銀系農薬由来のメチル水銀が加わっている可能性が問われます。新潟と熊本では河川(阿賀野川)と内湾・内海(水俣湾・八代海)という地理条件は異なっていますが、メチル水銀中毒は魚の摂取を通じて発生しているので、ヒトでの発症は漁獲規制によって収束に向かうでしょうが、それまで魚を食べていたネコが突然、食習慣を変えてネズミだけを食べるようになるとは考えられません。にもかかわらず、熊本でも新潟(とくに新潟)でもネコ狂死が途絶えています。両地域の魚のメチル水銀が中毒レベル以下に低下したのでしょう。新潟で発見された26人急性・亜急性患者発生メチル水銀短期濃厚汚染(すなわち、昭電鹿瀬の工場廃液に含まれたメチル水銀によって食物連鎖網の低次から高次捕食者へと順次、生態系の異常が発現した長期連続汚染ではない)と考えるのが妥当でしょう。(*6);新潟・阿賀野川下流域においてネコ狂死の発生は1965年5月で止まりました。また、急性・亜急性の水俣病患者の発生は同年7月で止まっています。したがって、少なくとも1966年以降の阿賀野川下流域では、急性・亜急性の水俣病患者が発生するメチル水銀汚染レベルではなかったことの説明・状況証拠と言えそうです。(*7);長島・獅子島・御所浦島でネコ狂死が観察されたということは、当然、急性・亜急性の水俣病患者が複数発生していた可能性が極めて高いと思われますが、報告例はありません。長島・獅子島・御所浦島の住民が、水俣病は「水俣の病気・公害病」という認識だったとすれば、医療の過疎地でもあったそれらの島々では「水俣病患者」の発見に至らず、報告されなかったに過ぎないと思われます。

新潟の慢性患者の発症のピークは1970年です。何と、熊本・鹿児島の慢性患者発生のピークも1969・70年です【因果関係のクライテリアにおける関連の特異性が一致している(発生地域が異なっているにもかかわらず、慢性水俣病発生のピーク時において両者が一致している。ただし、新潟・昭電鹿瀬工場は1965年1月10日に操業中止し、熊本・チッソ水俣工場は1966年6月に排水循環方式が完成し、1968年5月18日に操業中止した。両者の工場廃液の排水が止まった時期が異なっている) → 慢性水俣病患者の発生要因が同じである可能性が問われるが、両者の工場廃液の排水時期の時系列が異なっていることから、発生要因を唯一工場廃液と特定することは無理である】。ネコ狂死は熊本・新潟共に1970年ごろの報告はありません。ヒトとは異なりネコの慢性発症は知られていません。ネコ狂死の発生は急性・亜急性水俣病患者発生の前触れ・信号と言えそうです。新潟では、阿賀野川中・上流域でのネコ狂死は報告されていません。昭電鹿瀬からの工場廃液のメチル水銀が急性・亜急性中毒を発現させるほど高濃度であったと説明できません。ネコ狂死を伴い1964年8月~翌年7月までに急性・亜急性発症した阿賀野川下流域の26人の水俣病患者のメチル水銀汚染源が、中・上流域の慢性発症患者のそれらと同一とは考えられません。昭和電工は1965年1月、チッソは1968年5月に無機水銀を触媒としたアセチレンからのアセトアルデヒド生産を中止しています。水俣も新潟もアセトアルデヒド生産工場の廃液をメチル水銀汚染源とする公害、というのが世界標準の認識(世間の常識)です。しかし、1953~1960年とされている水俣での急性・亜急性発症も(水俣病,pp185,青林舎,1979)、それ以降の慢性発症の大部分もチッソのアセトアルデヒド生産中でした。しかし、新潟では、昭電鹿瀬の操業中に10人、中止後半年間に16人が急性・亜急性発症しましたが、全ての慢性水俣病患者は昭電鹿瀬の操業中止後に発症しました。水俣と新潟の一致点はアセトアルデヒド工場が在ったということだけのようです。両者を同じ公害で括れるのでしょうか。誰も疑問に思わなかった・思っていないという歴史が続いています。

2015年1月17日(既投稿)-再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年10月9日再投稿(加筆・訂正あり)


生態系異常から知る熊本水俣病と新潟水俣病の違い-その2

熊本水俣病患者の発生が水俣湾沿岸に止まらず、広く八代海(不知火海)沿岸に拡がったのは、1958年9月から翌1959年10月までの14カ月間、工場廃液の排水先が百間港(水俣湾内)から八幡(ハチマン)プール(水俣川沿いの廃水溜め沈殿池・上澄み廃液は八代海に溢れ・漏れ出た)に移ったことが原因だとされている。しかし、そのことが科学的に証明されているわけではない。熊本水俣病におけるメチル水銀発生源がアセトアルデヒド生産に由来する工場廃液だけであるとの意識の下では、それらが直接的に八代海へ流出したことによって、メチル水銀の濃厚汚染が広く八代海に拡がったという結論に行き着くだろう。しかし、日本政府は水俣病特措法で水俣病の発生地域は八代海沿岸全域ではなく、その一部に止まる(*1)と規定している。(*1);日本政府は工場廃液由来のメチル水銀の拡散によるその影響(水俣病の発症)が限定的であると主張していることになる。また、政府が主張する「水俣病」は「水俣病と認定される条件を満たす症状を有するメチル水銀中毒症」であり、単にメチル水銀中毒症状を有していても「水俣病」とは認めていない。科学ではなく主張に過ぎない。

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工場廃液が直接的に八代海に排出されはじめると、水俣湾外八代海沿岸住民から急性・亜急性水俣病(急性・亜急性)患者が 14人(13人の成人と 1人の小児)発生した。13人の成人のうち11人が漁師であり、1人の小児は漁師(11人中の 1人)の息子であり、全員が男性であった(*2)。漁師に偏りさらに女性に発生しなかった水俣湾外住民からの急性・亜急性患者の特徴は、魚食量が極めて多かったことにあると思われる。ただし、魚食習慣が一朝一夕に変化しないことを考慮すれば、彼らの魚食量が急増したのではなく、摂食した魚介類のメチル水銀濃度が排水先変更以前と比べると、相当に上昇したと考えられる。水俣湾外住民からの急性・亜急性患者は、工場廃液が八幡プールから直接八代海に排出されはじめた1958年8月から1959年2月までの6か月には発生しなかったが、19593八幡プールのある水俣市八幡地区(水俣湾外)住民の】から、八幡プールからの排出を止めた1959年10月翌月11月までの9か月間に発生している。因果関係の評価における時間の先行性(原因が結果に先行している)があることから、工場廃液の八幡プールへの排水先変更が関係していた(起因=”きっかけ”にはなった)可能性は十分高い。(*2);工場廃液が八幡プールから排出・流出され始めたのは1958年8月である。この排水先変更以前には、水俣湾沿岸湾内)住民から 65人【男 39人(内 10歳以下の男児 10人)・女 26人(内 10歳以下の女児 10人)】の急性・亜急性水俣病急性・亜急性)患者が発生していたが、水俣湾外の八代海沿岸住民から急性・亜急性患者は発生していない。なお、水俣湾沿岸および水俣湾外の八代海沿岸のそれぞれの住民からの急性・亜急性患者の性比(男/女)に有意差があり(39/26 vs 14/0, Fisher’s exact test, p=0.003, 成人に限定した場合 29/16 vs 13/0, Fisher’s exact test, p=0.012】、メチル水銀曝露条件(魚食量&摂食魚類のメチル水銀濃度)が異なることが示唆される。一方、胎児性水俣病患者(胎児性患者)は 1955年9月・出水米ノ津、1957年4月・芦北田浦、および1957年8月・出水米ノ津の水俣湾外の八代海沿岸で3例、単発的に生まれている。ただし、この時期、水俣湾内沿岸では多数(18人)の胎児性患者が連続的に生まれている。ところで、胎児性患者の母は水俣病の症状が見られるが軽症である(原田正純,日本ハンセン病学会誌,78,p55-60,2009)。胎児性患者は当初、母親がそろってほぼ無症状であるとして、水俣病ではなく脳性マヒと診断されていた(水俣病,pp85,青林舎,1979)。ところで、胎児性患者の母のメチル水銀曝露は急性・亜急性水俣病レベルであったが、胎盤を通して胎児にメチル水銀を移送したことで母の症は軽症化したと説明されたこともある。この説明はメチル水銀中毒の時間分布を無視しているようである。母が急性・亜急性水俣病を発症するメチル水銀曝露レベルであれば、受精卵が着床しただろうか。また、着床したとしても胎児が死産せず満足に成長しただろうか。どちらも考え難い。すなわち、胎児性患者の母の魚食量は普段から少なく、無症状・軽症状のメチル水銀曝露レベルだったはずである。それ故、彼女ら(母)の受精卵は着床し、流産・死産は避けられたのだろう。ただし、母の曝露したメチル水銀の一部は胎盤を通過するので、胎児のメチル水銀曝露レベルは、母の2倍(臍帯血MeHg濃度/母体血MeHg濃度)にも達し、脳神経系の成長・発達段階におけるメチル水銀曝露によって重篤な症状を潜在したまま出生したと考えられる。まさに、胎児性患者の誕生である。

一方、1959年2月から7月に亘って八幡プール地先では、大量の魚斃死が観測されている。しかし、それまで工場廃液が百間港から排水されていた期間(アセトアルデヒド生産開始の1932年以来1958年8月まで)、このような大量の魚斃死は水俣湾外ではもちろん水俣湾内でも発生していない。1959年11月から翌1960年1月までの工場廃液は八幡プールに溜めたまま流出させなかったとされているが、1960年1月末からは、排水先再び百間港へと変更された。1959年11月以降、直接的八代海への工場廃液の排出を止めてからはもちろん、再び百間港からの排水に至ってからも水俣湾内外で大量の魚斃死はみられていない。1958年 8月までの水俣湾内の魚類の異常行動としてカタクチイワシ魚群の飛び跳ねが観察されている。湾内における工場廃液由来のメチル水銀の一部は水俣湾内の生態系(海水・底土・動植物)に取り込まれただろう。それでも大部分のメチル水銀が湾内の海水中メチル水銀レベルを魚類の異常行動を引き起こすほど高めたが、魚の大量斃死を発生させるレベルに達しなかったのだろう。一方、百間港から排水された工場廃液由来のメチル水銀は水俣湾内を経由して湾外に拡散しただろうが、水俣湾外の八代海ではカタクチイワシ群の飛び跳ねさえも観察されていない(*3)。水俣湾の海水量を1とすれば八代海のそれらは 400である。したがって、単純計算で海水中メチル水銀レベルは水俣湾が1ならば八代海は 1/400である。工場廃液由来のメチル水銀が水俣湾外の八代海の大量の海水で希釈され、その海水中メチル水銀は低レベルであったはずである。したがって、水俣湾沿岸で急性・亜急性患者が多発していた時期に水俣湾内で大量の魚斃死が発生しなかったにもかかわらず、工場廃液が直接水俣湾外に流出しただけで、水俣湾外の八代海で大量の魚斃死が発生したことの説明は難しい。工場廃液由来のメチル水銀に加え、何らかのメチル水銀の上積みがあったことが予想できる。(*3);細川新日窒水俣工場附属病院長談話より → 外洋(筆者の解釈では多分水俣湾外の八代海と思われる)で捕獲したカタクチイワシを捕獲直後、ネコに餌として与えてもネコ水俣病を発症しなかったが、一か月にわたって水俣湾内の生け簀で泳がせた後のそれらでネコを飼育すると発症した。;筆者の加筆……..湾内の生け簀で泳がせたことでネコ狂死(メチル水銀中毒死)を発生させたカタクチイワシ群の生態系の異常(飛び跳ねなど;とくにメチル水銀レベルが 1/400 の外洋から 1 の湾内の生け簀に移した直後・際の……)については述べられていない……..。

ところで、1959年8月~10月の間、八幡プールから工場廃液に含まれたメチル水銀が流出し続けていたにもかかわらず、八幡プール地先(報告は水俣地先・津奈木地先である)で魚斃死は発生していない。しかし、1959年8月には八幡プールから北東に15㎞以上離れた芦北地先、および北北西に11㎞程離れた御所浦島地先大量魚斃死が発生している。また、9月には引き続き芦北地先および芦北地先よりさらに 10km(八幡プールから北東に25㎞以上離れた田浦以南海域(芦北地先以北)で大量魚斃死が発生している。さらに 10月には引き続き田浦以南海域で発生している。魚斃死量は 2~7月水俣地先・津奈木地先では 6か月間合計 2,132kgであったが、9・10月田浦以南海域では 2か月間でそれらの 6.5倍 の13,846kg9月だけで 8,461kg61%)であった。魚の大量斃死が、八幡プール地先で 8月以降に発生しなかったことに加え、八幡プールから流出した工場廃液由来のメチル水銀だけで発生したとされる 6か月間( 2~7月)の八幡プール地先の 6.5倍量が 2か月間9・10月)の田浦以南海域で発生したことを工場廃液由来のメチル水銀だけが原因だと説明できない。7月下旬から 8月下旬の水田に大量散布された稲イモチ病対策の酢酸フェニル水銀系農薬(セレサン石灰)由来のメチル水銀が河川を経由して海域に流れ出たものが加わっていた可能性が極めて高いと考えている。

1959年2~5月には八幡プールから北北西に11km程離れた御所浦島(熊本県)および北西に14km程離れた獅子島(鹿児島県)でネコ狂死(ネコ踊り病とも呼ばれたネコのメチル水銀中毒の特異的な症状を示している)が連続発生している。工場廃液のメチル水銀が八幡プールの側を流れる水俣川の流れに乗って御所浦島・獅子島方面へ運ばれたと予想される。また、御所浦島・獅子島方面はカタクチイワシの群れの回遊ルートの一つでもあり、ネコ狂死が連続したことを説明することが出来る。

多くの水俣病研究があるが、狂死数/飼育;観察ネコ数(ネコ狂死比)などの動物の生態系の異常を扱った調査はほとんどない。八代海沿岸でのネコ狂死比は、水俣湾沿岸74/121が知られているのみで、水俣湾沿岸以外では調べられていない。それでも、水俣湾から遠く離れた(約38km)八代市において、ネコ狂死(分子)は観察されていない。したがって、八代市ネコ狂死比は、(分母は調べられていないが)間違いなくゼロである。魚介類のメチル水銀レベルが食物連鎖を経由した生物濃縮によって水俣湾外の八代海の隅々までも水俣湾内と同等になり、八代海沿岸全域から急性・亜急性の水俣病患者が発生したという主張は、八代市のネコ狂死比ゼロという事実と相反している。だからといって水俣病特措法で水俣病発生地域は八代海沿岸の一部にかぎられるという政府の主張の方が正しいということではない。政府(特措法)は水俣病認定患者発生地域と記述すべきところを水俣病発生地域と言い換えており、科学的見地からは 0 or 1 の定性的判断に止まっている。本来ならば、カキやムール貝などの付着性二枚貝のメチル水銀濃度の時間・地理分布を明らかし、人々のメチル水銀曝露量(摂食魚介類の平均的メチル水銀濃度×魚食量)の推定値から定量的に軽症から重症の水俣病発生の可能性から発生地域を示すべきである。

本来の疫学(記述疫学)では、メチル水銀曝露における中毒ネコの時間・地理分布を描く。しかし、何時、中毒が発生したかとネコに聞いても答えてくれない。したがって、中毒発生の時間分布を得ることは出来ない。それでも、急性中毒死であるネコ狂死は、人々の目に曝されるだろうから、ある程度の正確さで、その時間・地理分布が推定できる。さらに、ネコ狂死の地理分布は高濃度メチル水銀曝露の地理分布と一致することが期待される。実際、ジョン・スノウはロンドン・ブロードストリートのコレラ流行の原因が公共給水ポンプ(高濃度曝露源)であることをコレラ患者ではなくコレラ死者の地理分布を描くことから特定している(ロベルト・コッホがコレラ菌を発見する 30数年前に病因を特定したことから疫学の原点と言われている)。ただし、熊本の場合、ネコの主たる漁労が人々の漁獲物を失敬することであり、その上、その漁獲物がカタクチイワシのような回遊魚であれば、それらが漁獲された場所をメチル水銀発生源地とすることは出来ない。回遊コースの何処かが発生地ではある。1957年2~4月排水先変更前)に水俣湾外の津奈木合串で多数のネコ狂死が発生した。水俣湾の恋路島から直線距離で13km北東に離れた場所(合串)でネコ狂死が多数発生したのであれば、既に水俣湾外の八代海が濃厚なメチル水銀レベルであったことになる。しかし、その報告を受けた水俣保健所長が現地調査したところ、水俣湾近辺での漁獲物密漁による発症だったということが判明している(水俣病,pp832-833,青林舎,1979)。八幡プールへの排水先変更前メチル水銀濃厚汚染域水俣湾内に限られたこと、同時に、水俣湾外メチル水銀レベル水俣湾内より相当に低かったことを裏付けている(再び*3を参照)。すなわち、水俣湾内回遊しメチル水銀の生物濃縮を果たしたカタクチイワシの魚群の一部が、捕獲されず八代海遡上しさらに生物濃縮を果たしても、それらのメチル水銀レベルが、湾内捕獲されたカタクチイワシのそれらより十分に低かったこと(*4が示唆される。事実、排水口変更前水俣湾外八代海沿岸ネコ狂死見られていないことがそれを説明している。(*4);カタクチイワシのメチル水銀の生物濃縮の主体が鰓・呼吸経由であって経口/経腸・食物連鎖経由でないことが期待される。

一方、新潟における急性・亜急性患者宅のネコ狂死比(狂死ネコ数/飼育ネコ数)の地理分布は、左岸側の下山(河口から1.5~2 km)で5/19,津島屋(2~4km)で16/28,一日市(4~5km)で7/21,および上江口(5~7km)で1/13,右岸側の新崎・胡桃山(河口から5~6km)で5/10,および高森・森下(6~8km)で5/12, また、横越(左岸10km)・京ヶ瀬(右岸13km)で0/13(この地区に急性・亜急性患者は居ないので、ネコ狂死比を観察する対照地としている)である。新潟の26人の急性・亜急性患者の発生地は河口から最も離れた森下地区(右岸河口から8km)であり、森下地区より上流域での急性・亜急性の発症者が居なかったことの状況証拠として横越・京ヶ瀬のネコ狂死比ゼロを挙げることができる。また、ネコ狂死比の最高は津島屋である。しかし、ネコ狂死比は、下山(5/19)および一日市(7/21)と津島屋(16/28)間に有意差がない(p=0.185 and p=0.313)ことから、統計学上、津島屋にメチル水銀発生源が在ったと特定出来ない。しかし、ネコ狂死は津島屋で初発している。時間分布からは初発地のメチル水銀濃度が最高であった可能性は高いはずである。それ故、津島屋のネコ狂死比が最も高いという統計学上の有意差が有って然るべきだとの意が強くなる。観察ネコ数が少ないことを考慮した統計を考え(工夫し)、観察ネコ数における狂死数非狂死数との分布の比較を試した。津島屋(狂死数16:非狂死数12)と下山(5:14)、および一日市(7:14)の分布の差は、前者(カイ二乗検定;p=0.037)は有意であるが、後者(p=0.098)は傾向に止まった。ネコ狂死比でなく、狂死数と非狂死数との分布を用いた統計結果が使えそうであるが、やはり曖昧である。

しかし、ネコ狂死の時間分布の情報(津島屋で初発)が有るので、とりあえずは津島屋にメチル水銀発生源があったと言っても良いかもしれない……..。観察開始時を津島屋のネコ狂死の初発時として観察ネコの狂死の発生数と発生時間経過生存分析によって比較できる。実際の計算はお手上げだが、統計ソフトのお陰で、データを入れるだけで結果が得られる。Kaplan-Meier法で累積生存曲線の地区別比較を Loglank検定した結果である。津島屋と下山では、津島屋で僅かに早く狂死が進行し、その率も高いが有意ではない(カイ二乗値=2.903,p=0.088,ただし、狂死数と非狂死数との分布有意差がある;p=0.037)。津島屋と一日市では、津島屋で有意に早く狂死が進行し、その率も高い(カイ二乗値=4.007,p=0.045)。下山地区に近い津島屋地区に最も濃厚なメチル水銀発生源が在ったことが期待される。急性水俣病初発患者が、1964年8月に発症した下山(阿賀野川左岸・河口から 2km → 下山地区でも津島屋隣接の下山)地区住人であることからもメチル水銀発生源地がほぼ特定出来ると考えられる。通常、疫学では初発地が原因の所在地である。しかし、この統計学では初発地が原因の所在地であると同定出来なかった。翻ってみれば、原因の所在地が移動したと捉えることが出来る。正に、泰平橋(河口から 5km)の左岸河川敷に野積みした水銀系農薬の紙袋群が7月上旬・梅雨末期の大雨・洪水で河口域に流失し、その後、河川水によって連続的に日本海に流れ出たことが予想できる。これらのデータは、阿賀野川河口から 65km上流の昭和電工鹿瀬アセトアルデヒド生産工場からの工場廃液のメチル水銀が阿賀野川河口域のネコ狂死の発生源であることの説明になってないのは明らかである。

ところで、阿賀野川の流れのほんの一部は左岸河口から2kmの通船川(*5)を抜けて信濃川に入る。通船川入口から対岸方向200m離れた左岸側阿賀野川に長径270m・短径100mの紡錘形の中州がある。その辺りの河川底に多くの(泰平橋下左岸河川敷に野積みした水銀系農薬の洪水による)流失農薬が止まり、環境のメチル水銀濃度を高めていたと考えている。この中州は、正に下山地区に近い津島屋地区という位置に在る。阿賀野川の川魚漁に関しては、居住地に近い所が漁場のようである。それに、患者宅の飼いネコが対象なので、患者が食べた魚と同じものをネコに与えていたとして良いだろう。それ故、阿賀野川下流域の比較的狭い地域におけるネコ狂死の時間・地理分布は、正しく、メチル水銀発生源地を示している。(*5)多くはWikipediaから引用・編集;1730年新発田藩は、信濃川に合流して日本海に注ぐため、洪水を繰り返していた阿賀野川の河道を直接、日本海に流出させるための捷水路(ショウスイロ)を開削した。しかし、翌年春の融雪洪水で決壊し、むしろ大々的に現在のように阿賀野川河口が日本海に開けたという。決壊によって出来た池は、現在、貯木場として機能している。信濃川に通じる手前1km辺りは焼島潟と呼ばれ、通船川はそこまでであり、1967年に設置した山の下閘門(船のエレベーター)排水機場を抜け新栗ノ木川と合流し、新川として信濃川と繋がっている。通船川と信濃川との水位差は、2m前者が高いそうである。現在、津島屋にも閘門排水機が設置されているが、設置年は検索できなかった。1964年6月16日の新潟地震の津波によって、製紙工場(パルプ生産)のために通船川近辺に貯木されていた85%は日本海に流失したようである。しかし、焼島潟からの流失は65%に止まっている(岩淵洋子ら,海岸工学論文集,53,p1326-1330,2006))。焼島潟付近の流れが新栗ノ木川の流れに遮られているとの情報ではと思われる。

1966年9月19日に焼島潟で採集した泥土の総水銀濃度は19.0±6.9ppm(5.6-37.4ppm,n=27)である。1966年10月14日に上記の通船川入口から200mの中州で採集した泥土の総水銀濃度は0.44ppmと報告されている。これらのデータから、1964年7月上旬に河口から 5kmに掛かる泰平橋下の阿賀野川左岸河川敷から流失した紙袋入りの水銀系農薬の多くが河口から 2kmの中州辺りに到達・堆積しただろう。そして、水銀測定のために河底土を採集するまでの期間(2年3か月)に阿賀野川の流れによって、それらの大部分は日本海に流失したのだろう、中州の泥土に一旦堆積した水銀のほとんどが流失して1ppmも残らなかったようである。しかし、中州の泥土に堆積した水銀の一部が、通船川を通って焼島潟に停留・残留したのであれば、焼島潟の泥土に水銀が20ppm近く残留・堆積したことを説明できるのではないだろうか。昭電(横国大・北川徹三)が主張した塩水楔説(*6)では説明できないネコ狂死の時間・地理分布および泥土の総水銀地理分布だと考えられる。(*6);1964年6月16日の新潟地震で発生した津波によって新潟港埠頭倉庫に保管中の水銀系農薬が信濃川河口から日本海に流出し、阿賀野川河口沖に漂流した。ところが、阿賀野川における夏季の渇水期に、満ち潮とともに漂流していた水銀系農薬が海水で阿賀野川河口に運ばれ、阿賀野川の河川水を押し上げながら河口から 8km近くまで運ばれたとの主張(説)である;比重の大きい海水に含まれた水銀系農薬が、比重の小さい河川水に流されることなく、河川水に楔を打つような状態で河口から 8km近くまで運ばれ、阿賀野川下流域をメチル水銀で汚染したと主張し、工場廃液説を真っ向から否定した。

ネコ狂死(急性中毒)はメチル水銀高濃度曝露の指標だろう。 ネコの慢性メチル水銀中毒の症状が分かれば、より低いレベルのメチル水銀汚染の指標に出来るはずである。しかし、ネコのメチル水銀中毒の結末は致死である。水俣病の発生が公表された1956年5月1日以来、熊本大の研究者の多くは、ネコ狂死が水俣病の原因を解く鍵と考えたようである。1958年9月、熊本大武内は、水俣病症状が有機水銀中毒例に一致すると発表した。有機水銀説は駅弁大学・ヘッポコ大学の戯言と揶揄され続けた。しかし、熊本大喜田村は早速、狂死ネコの臓器中総水銀の測定を試みている。

喜田村の専門は公衆衛生学であり、狂死ネコだけでなく、各地からネコを集め、様々な比較試料としている。それなりの意図を持って臓器中総水銀濃度を比べたということである。この臓器中総水銀測定実験で特筆すべきは、自然発症群と実験発症群が揃えられていることであるが、残念な事に、ネコの性・体重(年齢)・臓器重量などの記述がないことから、ネコにおいてメチル水銀が食物連鎖を経由して生物濃縮されることに関わる幾つかの要因を統計学的に調整出来ないデータになっている。したがって、以下のネコの臓器中総水銀濃度の統計学的な比較・検討は単なる数値の大小に止まるものである。

腎臓中総水銀濃度は、自然発症ネコ3匹で算術平均±標準偏差; 20.8±10.9ppm,幾何平均・95%信頼区間 19.1ppm・5.4-66.9ppm、実験発症ネコ4匹で 20.1 ± 10.8ppm,18.4ppm・8.9-38.2ppm だったが、両者の差はない(p=0.936・p=0.926)。自然発症ネコ(脳,9.2±1.6ppm,9.2ppm・1.8-45.6ppm,n=2;肝臓 62.2 ± 21.6ppm,42.0ppm・42.0-83.9ppm,n=6)・実験発症ネコ(脳,12.8 ± 5.1ppm,12.0ppm・7.3-19.6ppm,n=5;肝臓 74.3 ± 32.0ppm,69.5ppm・52.4-92.1ppm,n=9)の各臓器中総水銀濃度もほぼ同じである。もちろん有意差はない。それに肝臓中総水銀濃度に対する脳中総水銀濃度は自然発症ネコで14.8%、実験発症ネコで17.2%である。測定例数が少ない(とくに自然発症ネコの脳は2検体)ので統計学的な差は検討しにくいが、自然発症群と実験発症群の差はないと考えて良いだろう。

各臓器とは;肝臓・腎臓・脳・毛などである。メチル水銀曝露源(魚など)を摂取すれば、即、脳神経系に取り込まれることはないはずである。いかにも、摂取したメチル水銀がそのまま毒物として作用するのであれば、魚を摂取する度に、その量に応じて脳神経系はダメージを受けるはずである。そうであるなら、海洋に囲まれて生活する人々(海洋人)は年齢とともにメチル水銀中毒症になり、その症状も進むはずである。我が国の偉人達が、一切、魚食をしなかったというなら、前記したことが事実である可能性は高いだろう。しかし、海洋人の魚不食が事実でないことに疑う余地はない。

メチル水銀中毒に引き金があることが期待される。経口曝露のメチル水銀は、まず肝臓に運ばれる。肝臓中の総水銀濃度は、発症群(平均値;69ppm,最小値-最大値;37-146ppm,検体数;n=15),芦北健康群(50ppm,5-301ppm,n=18),天草健康群(26ppm,9-58ppm,n=7),熊本対照群(2.6ppm,0.6-6.6ppm,n=5),大分対照群(1.7ppm,0.7-3.7ppm,n=8)である。平均値は環境中(摂食魚)のメチル水銀レベルを表していると考えられる。発症群>芦北健康群>天草健康群>熊本対照群>大分対照群という肝臓中総水銀濃度の平均値であり、そのまま環境中メチル水銀レベル順として良いだろう。発症群と芦北健康群との差は有意ではないが(p=0.354」、天草健康群との差は有意である(p=0.001)。発症群の最小値(37ppm)を発症の閾値(threshold)と仮定する。芦北健康群から37ppm未満の14検体を除く、75,85,172,および301ppmの4検体が閾値超である。天草健康群の37ppm超(閾値超)は58ppm(最大値)の1検体である。発症群15検体では、11検体で37-68ppm、4検体で75ppm以上の、78,101,106,および146ppmである。芦北健康群の172ppmおよび301ppmの2検体の存在は、経口曝露量だけがネコ狂死の必要十分条件でないことを物語っている。メチル水銀曝露量は摂食した魚介類のメチル水銀濃度×摂食量で計算される。ネコにとって魚介類の摂食が自由であれば日常的摂食量はそれほど変動しないだろう。発症群と芦北健康群の魚介類摂食量に差が無かったとすれば、魚介類のメチル水銀レベルにおいて発症群が摂食したものが芦北健康群のそれらより断然高かったと予想できる。発症群では魚介類のメチル水銀レベルが高すぎて肝臓で処理出来ず、メチル水銀が脳に取り込まれ発症した。一方、芦北健康群の摂食した魚介類のメチル水銀は、肝臓が処理できるレベルであり、肝臓に蓄積し、他臓器に運ばれるメチル水銀は少量だったのだろう。とくに脳における脳血管関門(Blood Brain Barrier)で通過を止められる血液中メチル水銀レベルであったことで健康レベルに留まったと考えられる。

毛(髪)は、メチル水銀の排泄器官のひとつである。また、そのメチル水銀濃度は肝臓のそれらと同様に、曝露量の指標とされている。その総水銀濃度は、発症群(46ppm,22-70ppm,n=4),芦北健康群(55ppm,9-134ppm,n=11),天草健康群(77ppm,18-128ppm,n=7),熊本対照群(8.4ppm,0.2-29ppm,n=5),大分対照群(2.3ppm,0.5-3.5ppm,n=5)である。平均値は天草健康群>芦北健康群>発症群>熊本対照群>大分対照群である。発症群の最大値(70ppm)を超える検体が芦北健康群に4例(80,87,89,および134ppm)、および天草健康群に3例(117,118,および128ppm)を確認できる。発症群の検体数が4例と少ないので統計的な差を検討しない。しかし、二つの地域の健康群ともに平均値が発症群より高い上に、発症群のそれらの最大値を超える濃度の検体が複数例ある。したがって、肝臓中および毛髪中の水銀濃度が曝露量の指標ではあっても、中毒の閾値の指標にはなりそうもない。

次に腎臓と脳の総水銀濃度を示す。腎臓の水銀の大部分は無機水銀である。腎機能が正常であれば、肝臓から送られた血液中の血球メチル水銀および血漿中の蛋白質結合水銀・メチル水銀は濾過の対象でないので、そのまま血中に残る(*7)。また、無機水銀イオンの形で濾過された水銀(の大部分)が尿として排泄される。したがって、尿として排泄できず、蓄積した無機水銀が腎臓の水銀と考えている。腎臓の総水銀濃度は、発症群(20ppm,12-36ppm,n=7),芦北健康群(3.3ppm,0.2-6.8ppm,n=18),天草健康群(2.5ppm,0.9-4.0ppm,n=7),熊本対照群(0.2ppm,0.1-0.3ppm,n=3),大分対照群(0.5ppm,0.1-0.8ppm,n=7)である。二つの地域の健康群の最大値(6.8ppm,および4.0ppm)は、発症群の最小値(12ppm)に届いていない。腎臓の総水銀濃度の6.8ppm超~12ppmがネコ狂死の閾値と考えられる。(*7);正常な腎機能下で調節されている血中メチル水銀は脳血管関門が機能し、関門を容易に通過できないのではないかと考えられる。そして、脳血管関門を通過しなかったメチル水銀は毛の水銀として排泄される可能性があると考えた。メチル水銀曝露量が短時間に多量の場合、腎機能が正常に働かないことで、尿(無機Hg)および毛(メチル水銀)からの排泄が進まないのだろうか(*8)。

脳の総水銀濃度は、発症群(12ppm,8-19ppm,n=7),芦北健康群(2.1ppm,0.7-4.1ppm,n=15),天草健康群(1.7ppm,0.13-3.6ppm,n=6),熊本対照群(0.06ppm,0.02-0.12ppm,n=3),大分対照群(0.09ppm,0.05-0.13ppm,n=5)である。腎臓総水銀と同様に脳総水銀でも二つの地域の健康群の(4.1ppm,および3.6ppm)は、発症群の最小値(8ppm)に届いていない。脳の総水銀濃度の4.1ppm超~8ppmがネコ狂死の閾値と考えられる。(*8);腎機能が低下すると、血中の無機水銀イオンを濾過・排出できない。血中の無機水銀イオン(*9)が脳血管関門の機能を低下させることで、脳中にメチル水銀が侵入するようになり、メチル水銀中毒が発現すると考える。(*9);メチル水銀関門の機能低下は無機水銀イオンに限らず、重金属(無機イオンとして・水俣湾ではFeイオン/Mnイオンが高濃度だったと考えられる)との共存でも起こるかもしれない。

このような関門(barrier)の考え方は自説である。白木の妊娠ネズミへの塩化エチル水銀と塩化第二水銀のトレーサー実験(水俣病,pp655-657,青林舎,1979)がネガティブヒントである。血液胎盤関門を通過できない無機の203Hgは胎盤で完全に止まっている。一方、世間(水俣病研究者)の常識ではアルキル水銀(メチル水銀やエチル水銀)は容易に胎盤を通過し(血液胎盤関門を抜け)、胎児に侵入するという。しかし、白木のラジオオートグラムは、塩化エチル水銀の203Hgのほとんどは胎盤に停留し、ほんの一部が胎児に浸入していることを示している。妊婦時の母の血液は、肝臓⇒胎盤⇒胎児の流れであり、通常(非妊娠時)は肝臓⇒腎臓⇒全身である。肝臓では一部のメチル水銀を(腎臓での排出処理のため)無機化する。そんな肝臓由来の無機化された無機水銀イオンが血液胎盤関門の機能を低下させ、エチル水銀の203Hgの一部が胎児に浸入したという考えである。世間が言うように、摂取したメチル水銀が容易く脳に侵入するのであれば、魚食量の多い人々は全員、魚介類由来のメチル水銀に中毒するはずである。しかし、実際には虚血性心疾患の低リスク要因として魚介類の摂食が推奨されているほどであり、通常の魚食にメチル水銀中毒のリスクがあるとは考えられていない。ただし、妊婦の魚介類の摂食については胎児の成長・発達に影響しないように魚種と魚食量を考慮しようという注意喚起が為されている。

新潟の(実験)狂死ネコの肝臓・腎臓・脳の総水銀濃度はそれぞれ10074,および1.7ppmである。報告はこの1例に限られている。発症ネコにもかかわらず、の1.7ppmは、熊本の推定閾値 4.1~8ppmに遠く及ばない。一方で腎臓の74ppmは、熊本の推定閾値6.8~12ppmを大幅に超えている。この差異が、海産魚と川魚の無機金属の代謝の差から生じたのではないかとも考えられるが、1例の報告では何の結論も得られない。新潟水俣病のメチル水銀発生源は、熊本水俣病という経験が有ったことで工場廃液であって「公害」であることが速やかに明らかになったとされている。ところが、新潟水俣病関連の調査・研究でネコ狂死試料の臓器中水銀濃度を測定した例がほとんど無い。阿賀野川中流域で死んだネコを掘り起こしてまで骨や毛の総水銀濃度を測定している。そうでもしなければネコ狂死例が得られなかったということであり、1965年6月からの新潟水俣病に関する調査・研究によって、同年5月の一日市地区でのネコ狂死が最後の例であることが分かっている。上記の1例の実験狂死ネコの脳の総水銀濃度 1.7ppmはこのネコは狂死状態でなかったことが予想出来る。したがって、実験ネコに供した阿賀野川下流域の川魚のメチル水銀濃度は中毒レベルでなかったことが示唆される。しかし、川魚の無機水銀濃度は相当に高く、腎の総水銀濃度が 74ppmまでも上昇したことを説明している。泰平橋左岸下河川敷に野積みした水銀系農薬紙袋が1964年7月上旬の梅雨末期の洪水で河口域に流出したものがメチル水銀発生源であるとの説明になっている。65km上流の工場廃液は 1965年1月 10日以降流れていない。1965年6月以降の阿賀野川下流域の川魚の低いメチル水銀濃度の説明にはなるが、高い無機水銀濃度を説明することは出来ない。阿賀野川下流域の急性・亜急性水俣病患者のメチル水銀発生源を科学的に工場廃液であると説明することは出来ない。

ところで、熊本の胎児性患者、および臍帯中メチル水銀濃度における出水・水俣・芦北の三地域でそれぞれ地理分布が異なっている(*10。臍帯は発生学上は受精卵(胎児)の一部であるが、組織学上では胎盤の一部である。したがって、胎盤(臍帯)メチル水銀濃度を一方的に胎児のメチル水銀曝露量の指標と考えるのは正しくないだろう。(*10);臍帯メチル水銀濃度は出水市民>水俣市民である。胎児性患者の重篤さおよび発生数は断然、水俣市民>>出水市民である。臍帯は胎盤の末端として胎児と繋がる血液の通り道である。胎児性水俣病の存在が明らかになった時、メチル水銀は血液胎盤関門(Blood Placental Barrier;BPB)で留まることなく容易に胎盤を通過すると説明されていた。しかし、環境中(and 魚介類)メチル水銀レベルにおいて水俣湾 >>出水沖八代海であるにもかかわらず、臍帯中メチル水銀レベルが出水市民 >水俣市民という事実をメチル水銀に対してBPBが無効だとして説明することは難しい。そうではなくBPBの通過におけるメチル水銀濃度に閾値があるとする、すなわちBPBは低濃度のメチル水銀には有効であり、母の血液中低濃度メチル水銀はBPBの閾値まで胎盤(末端は臍帯)に滞留するので胎児(新生児)の臍帯中メチル水銀濃度は高くなるが、胎児に侵入するメチル水銀量は抑制されると考えられる。正に、出水市民の臍帯中メチル水銀濃度を示しているだろう。一方、BPBの閾値を超える母の血液中高濃度のメチル水銀は胎盤(末端は臍帯)に留まることなく、胎児に侵入するので胎児の水俣病症状は重篤であり、さらに侵入量が致死量を超えれば死産の発生が予想される。ところで、そのような死産児の臍帯は入手出来ないことから、魚介類のメチル水銀レベルが高かった水俣市民の臍帯中メチル水銀の濃度分布において死産児の分布(高濃度分布)が欠損し、水俣市民の臍帯中メチル水銀濃度の平均値が期待される平均値より相当に低くなったと考えられる。臍帯中メチル水銀濃度において出水市民 >水俣市民を説明することが出来そうである。

水俣湾・八代海沿岸および阿賀野川流域の生態系の異常から、様々な思考が生まれました。水俣病事件とは直接関係していない皆様の忌憚のないご意見・批判がいただければ幸いします。

2015年1月22日(既投稿)-再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年10月21日再投稿


新潟水俣病公式確認50年-その1

1965年5月31日に阿賀野川下流域における水俣病患者5人の存在が新潟大から新潟県へ報告されました。それから50年、2015年5月31日が新潟水俣病公式確認50周年でした【1965年6月12日(新潟大学・新潟県合同会見日)を公式確認日とする場合もあります】。新潟水俣病の初発は下山地区(阿賀野川河口から1.5㎞の河口に向かって左岸集落)の住人で、初発は1964年8月下旬に発生し、続いて10月に2人、11月に1人の下山地区の4人と10月に発症した津島屋地区(阿賀野川河口から3㎞の下山の隣の左岸集落)の1人の合わせて5人が新潟県に報告されました。昭電鹿瀬工場は 1965年1月10日に操業を中止しましたが、前年暮れ(鹿瀬工場操業中)までの発症者は新潟県に報告された5人に加え、12月に発症した兄弟堀地区(河口から 6.3kmの右岸集落)の1人の小計6人です。

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その後の患者調査により1965年7月までに合計26人【左岸1.5㎞~5㎞の16人男13人・女3人)5km~8kmの 2人(二人は):右岸河口の松浜地区~5kmの  0人;5㎞~8㎞の8人全員男】の急性・亜急性患者(5人死者全員男)の発生が確認されました。患者は、操業中止後(中止前5カ月間/後7カ月間;6人/20人)、左岸域、および男性に偏って発生しました。男性に偏ったのは何故でしょう。一般に魚食量は男>女です。定量的にその差を示すと、一般家庭の夫婦の差であれば切り身一切れ(25~50g)といったところでしょう。しかし、魚食に偏った漁師家庭の場合、定量化は難しく、男女差は様々でしょう。それでも阿賀野川下流域での魚食量男女差が、急性・亜急性の水俣病患者における男性への偏りの要因であったと思われます。さらに、この男性に偏った急性・亜急性患者の発生、また、最初(8月下旬)と二人目(10月)の発症との間に1か月以上の空期間があり、患者の発生が不連続*1)だったことが、長期連続ではなく短期濃厚のメチル水銀汚染であったことを説明しています。河口域の川幅が約1kmと広い阿賀野川下流において26人の患者の地理分布で、左岸域18人、さらに泰平橋(河口から 5km地に架かって)より下流域に 16/18人と偏っていることから、汚染源(発生)域は、下山・津島屋河岸域(泰平橋より下流の左岸域)であったこと、また、ネコ狂死が津島屋で初発したことも、そこに(左岸域・津島屋付近に)汚染発生域地があったことを説明しています。まさに、患者の初発に係る1964年7~9月にはその比較的狭い水域の川魚がメチル水銀に濃厚汚染されたことが想起されます。26人の急性・亜急性患者発症の時間・地理分布は川魚の季節(生殖行動)依存の回遊経路に一致しています。このような事実があるにもかかわらず、世間認識は汚染発生地が、泰平橋より下流の左岸域ではなく、そこから 60km上流の昭電鹿瀬のアセトアルデヒド生産工場に有るとしている。(*1);患者発生が不連続であったことを重要視するのは、26人の急性・亜急性患者でさえ異なる生態系の異常が別々の時間・地理分布で発生したと捉えることが出来るからです。例えば、女性患者3人はいずれも一日市地区住人ですが、同地区の男性患者が最後に発症した1965年4月から1か月以上いた1965年6月・7月に発症しています。また、阿賀野川下流域における26人の急性・亜急性の患者および中上流域から下流域におけるその他の650人を超える慢性患者の発症において、それぞれの時間・地理分布は不連続・不一致です。すなわち、それぞれの患者は、原因が等しく阿賀野川のメチル水銀汚染ですが、それぞれ異なる状態・条件下で発生したと考えられます。

昭和電工鹿瀬(かのせ)工場は河口から65㎞上流で操業しており、1965年1月10日(新潟水俣病の公式確認の5カ月前)に操業(水銀を触媒としたアセチレンからアセトアルデヒドの生産)は中止しました。急性・亜急性患者およびネコ狂死阿賀野川流域の河口から8km~65㎞の中・上流域において発生したという報告はありません。したがって、昭電鹿瀬の工場廃液が急性・亜急性水俣病を発生させたとする因果関係特異性(メチル水銀汚染源の発生地で最も重篤なメチル水銀中毒症=水俣病が発生するという特異性)は確認されていません。政府見解では工場廃液をメチル水銀汚染源と言わず、巧みな言い回しで阿賀野川流域における長期的メチル水銀汚染基盤としています(科学的に証明していない・まさに見解に止まる)。世間が認識しているのは新潟水俣病裁判(民事訴訟;昭電の流したメチル水銀に汚染された川魚を住民=原告が摂食したことで水俣病になった。被告は補償せよと訴えた)の判決であり、昭電はメチル水銀を流さなかったことを証明できなかったことで敗訴しました。実際、量は不明ですが昭電鹿瀬工場がメチル水銀を流したことは科学的に証明されています。民事裁判では中毒が量(昭電鹿瀬が排出したメチル水銀量)に依存して発生することを重視せず、質(昭電鹿瀬が流した物質がメチル水銀であること)によって水俣病が発生したと裁定しています【本来の中毒学において、中毒とは閾値を超えて発現し、発症率(反応)は量に依存すると説明される ⇔ 昭電鹿瀬の操業中止前にメチル水銀曝露量が中毒閾値を超えたが中毒症状は発現せず、操業中止後にメチル水銀の曝露なしに中毒症状が発現したとする遅発性水俣病には中毒閾値の存在が否定されている】。

1960年~73年までの14年間における新潟水俣病認定患者520名の発症の時間分布(地理分布は含まず)が報告されています。ヒストグラムを数値化(年度・人数)すると、1960・,61・,62・,63・13,64・50,65・115,66・41,67・67,68・57,69・64,70・54,71・30,72・16,73・5 と読めます。年間発症数なので季節分布は分かりませんが、65年・67年・69年に発症数の極大が見られます。

メチル水銀汚染源が1つであれば水俣病の発症(中毒)時間分布は正規分布するはずですが、新潟水俣病患者520名の発症時間分布は正規分布していません。65年・67年・69年に発症数の極大を基に3つの正規分布が重なった分布図と見なすことが許されるのであれば、①阿賀野川中流住民主体の60年~67年(極大&中央値)~73年;慢性発症,②阿賀野川下流域住民主体の64年~65年(極大&中央値)~66年;急性・亜急性発症,および③阿賀野川中・下流住民主体の64年~69年(極大&中央値)~73年;②を起因とする慢性発症の3つと言えそうです。

①と③の慢性発症【専門家は遅発性水俣病*2)と説明しています】を政府は昭電鹿瀬の工場廃液が基盤とし、原因という文字で表しません。慢性発症の時間分布は、原因が稲イモチ病対策の水銀系農薬の大量散布であることを指している可能性が高いのですが、政府は、それを完全に否定しています(*3)。政府見解の基礎資料は、新潟水銀中毒に関する特別研究報告書(科学技術庁研究調整局,1969)です。しかし、当の報告書に、水銀系農薬が汚染源であるという可能性が全くないという記述はありません。一般人がその報告書を読む・理解する機会が無いことを見込んで完全否定したに過ぎまないといって良いでしょう。むしろ、この完全否定が必要だった理由に原因の真実が隠されていると考えてしまいます。*2);曝露量が閾値(threshold)を超えて中毒発現に至るのが教科書的な中毒(学)ですが、昭電鹿瀬の操業中止から数年~10数年を経た中毒発現を説明できないので、メチル水銀中毒は遅発発現(発症)することがあるとした非科学的な説 だと思います⇒ しかし、昭電鹿瀬の工場廃液を唯一のメチル水銀汚染源と特定するためには遅発性水俣病が存在しなければ説明に窮します。50年間も科学を蔑ろにしています。八代海沿岸住民における同様の発症に対しては、慢性水俣病と呼び、遅発性水俣病とは呼んでいません。(*3);政府見解では「 長期汚染の原因は主として昭和電工鹿瀬工場の廃水であり、阿賀野川流域に散布された農薬による汚染は無視し得る」と記しています(新潟水銀中毒に関する特別研究報告書,p572,科学技術庁研究調整局,1969)。

ところで、水俣病特措法においてチッソの操業中止後18か月を過ぎると時間外とし、八代海沿岸では胎児性患者が発生しないことが想定されています。しかし、八代海沿岸の水俣病が、新潟と同じ工場廃液による『公害』であるのなら、遅発性発症に時間外は設定できないのではないでしょうか。一方、新潟では昭電の操業中止後23か月超が時間外です(*4)。時間外の根拠がアセトアルデヒド生産中止であるならば、このズレは何処から生じたのでしょうか。(*4);阿賀野川流域で胎児性水俣病との認定者は1人に限られています。行政では新潟水俣病の公表後、直ぐに住民(とくに阿賀野川下流域で)の頭髪総水銀濃度を測定し、50ppmを超える妊婦には人工妊娠中絶を、そのような女性には妊娠を控えることを要請した。行政では、そのお陰で胎児性患者が発生しなかったと説明している。

昭電鹿瀬工場の操業中止24年後(1989年12月)も汚染レベル(0.4ppm超)の川魚が検出されたことを以って(汚染レベル9匹/総検体23匹)、工場廃水の環境汚染影響が操業中止後も続いているとの主張があります(吉田三男,怒りの阿賀,pp22,あずみの書房,1991)。1989年に工場廃液の影響が残っているのであれば、工場の操業中止後の水俣病の発症形態は遅発性ではないことになると思います。それに、1976年10月には、環境浄化のふれ込みで、昭電鹿瀬排水口直下の河川底から5.4㎏の水銀を浚渫・除去しています。しかし、そのHg量は、阿賀野川流域で散布された農薬由来の水銀量(16.5㌧38.7㌧)に遠く及びません。1976年10月(浚渫・除去)以降に工場廃液由来の水銀の影響は無いと考えるべきでしょう。1989年12月の汚染レベルの川魚の水銀汚染源として、水田に残留した農薬由来の水銀であった可能性が極めて高いことが示唆されます。水銀系農薬以外のどんな水銀の存在が考えられるのでしょうか。まさか、5万年前の只見川・阿賀野川流域の沼沢火山の火砕流を持ち出すのでしょうか…..。

水俣湾では食物連鎖の下位から比較的整然と【プランクトン→魚の斃死(大量斃死ではない)→ネコ狂死;54年に頻発・ヒト発症;56年から続発】生態系の異常が発生しました。1956年~58年の昭電のアセトアルデヒド年間生産量は、1951年~53年のチッソのそれらと同等量でした。その頃、水俣湾沿岸で渡り鳥・カラスの飛行中の落下が多数見られていますが、阿賀野川流域では全く観察・報告されていません。一方、阿賀野川下流域ではネコ狂死も急性・亜急性患者も1964年8月~65年7月までの同時期の発生・収束でした。両者ともメチル水銀汚染ですが、汚染形態は異なっており、アセトアルデヒド生産工場が在ったという事のみ一致しているに過ぎません。その上、百間排水口(メチル水銀の環境への出口)は水俣湾内にありましたが、昭電鹿瀬の排水口は下流の下山・津島屋には無く、それより65㎞上流に在りました。確かに、政府見解では鹿瀬の工場廃液は長期メチル水銀汚染の基盤であって汚染源と表記していません。巧みな言い回し?!?というより逃げの一手のようです。

チッソと昭電のアセトアルデヒド生産方式は異なりますが、反応槽における化学反応系(アセチレンの水銀触媒による水添加反応)はほぼ一致していますので、メチル水銀イオン(CH3Hg+)が副生したのは事実でしょう。CH3Hg+は硫酸溶液中の溶存メチル水銀です。アセトアルデヒド(CH3CHO)の沸点は21℃なので、反応槽をとくに加熱せずともCH3CHOは蒸発し、その蒸気は冷却されて貯留槽に溜まりますが(収量の効率化のため、初期の加熱・蒸留法を後に減圧・真空法へ変更しています)、溶存したCH3Hg+は理論的には蒸発しないので貯留槽に移りません。ところで、水添加反応のためのチッソ地下水昭電阿賀野川の河川水を使いました。

海岸立地のチッソの地下水多量塩素イオンCl-)を含んでおり、反応槽においてCH3Hg+のほぼ全量がCl-と反応し、塩化メチル水銀(CH3HgCl固体=結晶)が多量に生成したことが期待されます。CH3HgCl結晶は、その物理化学的性質によって低温で容易に昇華します。そのため、チッソの貯留槽には、反応槽で気化・昇華したCH3CHO(アセトアルデヒド;上層)とCH3HgCl(塩化メチル水銀;下層)が移動し、滞留したでしょう。上層液を製品とし、下層液を工場廃液としたことが知られています。一方、昭電のCH3Hg+は阿賀野川の河川水に含まれるCl-に相当する量のCH3HgClの生成に止まり、それらが貯留槽に移動したはずです。昭電は間違いなくメチル水銀を流出させましたが、その量は酢酸フェニル水銀系農薬の散布によるメチル水銀量の数千分の一程度だと考えられます(ただし、裁判では昭電は一日当たり500gのメチル水銀を流したと裁定されています。一方で、チッソのメチル水銀排出量は一日当たり10~110gと推定されています。アセトアルデヒド生産量がチッソの 1/4以下の昭電のメチル水銀排出量の方が5~50倍多い?!?という理解不可能な数字が行き交っています)。昭電鹿瀬工場のアセチレン加水反応槽で副生した塩化メチル水銀の科学的予想量からすれば、工場廃液がメチル水銀汚染源の主体だと説明できません。かといって政府見解にある工場廃液が長期汚染の基盤であることを否定する直接的・科学的データはありません。昭電鹿瀬の工場廃液にメチル水銀が含まれていたことは事実であり、科学的に説明されています。新潟水俣病問題(民事裁判の争点)を定量的に捉えることなく(昭電鹿瀬工場が流したとされる 500gのメチル水銀量は急性・亜急性水俣病を発生させる量を逆算・推定した量に過ぎない)、定性的な事実(鹿瀬工場の排水溝の苔からメチル水銀が検出された)だけで説明しています。疫学上の因果関係の評価において量反応関係が成立してなければ、その因果関係は存在していないと判断せざるを得ません。定性的評価は、正に、逃げの一手に他ならないと思います。

それでも、昭電鹿瀬工場からメチル水銀以外の重金属(Hg・Fe・Mn等々)が流されていたのであれば、メチル水銀中毒を加重的・加速的に重篤にした可能性は高いと考えています。水俣湾沿岸の自然発症(狂死)ネコの腎臓中総水銀濃度よりも阿賀野川下流産川魚で飼育したネコ(衰弱死⇒発症死でない⇒脳のメチル水銀濃度は水俣の自然発症ネコのそれらよりかなり低く、メチル水銀中毒が致命症でない可能性を否定できません)のそれら方が断然高いという記録があります。昭電が新潟水俣病患者の訴えに負けた民事裁判は、結果的には正しいと思います(昭電が廃液処理を怠り、メチル水銀を流したという過失責任は確かにあります)。

阿賀野川最上流は阿賀川です。阿賀川は福島県の大河であり流域は米作地帯です。阿賀川流域で散布された水銀系農薬由来のHgが阿賀野川を加重的に汚染したことは否定できないでしょう。阿賀川のデータではありませんが、福島市の水源としていた阿武隈川から0.6ppmの高濃度水銀の排水基準(*5)は0.5ppbなので、その千倍超]の総水銀が検出されています(朝日新聞, 1974.11.2)。また、新潟県のもう一つの穀倉地帯である上越の関川流域でも16人に水俣病症状があると診察されています。関川流域ではアセトアルデヒド生産量でチッソに続く第二位のダイセル新井工場が操業していました。(*5);水銀の環境基準は設定されていません⇒水銀のクラーク定数は80 ppb(μg/kg)であり、分析技術が高ければ自然界;海水などから常に数 ppt (ng/L)程度の無機水銀が検出されます。

新潟県上越地方を流域とする関川最下流および関川最下流に流れ込む保倉川最下流で捕獲されるニゴイは2013年の時点でも総水銀で0.4ppm超、メチル水銀で0.3ppm超の汚染魚であり、1974年以来漁獲の自主規制が続いています。新潟県は、関川下流域環境のメチル水銀が汚染レベルに留まっている原因は関川最上流の支流である白田切川の火山性水銀であると言います。胡散臭い自然災害説です。鹿児島湾と同様に、自然由来の水銀汚染であれば、補償・環境改善への支出は無くて済みます。自然災害とは、行政にはこの上もなく都合の良いもののようです。

阿賀野川流域住民は習慣的に魚影の濃い川魚を蛋白源として多食してきました。米作地帯の川魚のメチル水銀濃度は農薬の散布時期であれば5~10ppmに達しています。①10(5)ppmの魚を毎日200(400)g食べる者は2か月後には閾値を超え中毒発現するでしょう。②10(5)ppmの魚を毎日100(200)g食べる者は500日後には閾値を超え中毒が発現しますが、50(100)gでは中毒閾値を超えません(中毒しない)。②の者であっても時に(10日に1日程度)1kg/日を超えるような爆食いをすると①よりも早く閾値を超える可能性があります。したがって、メチル水銀汚染魚の継続多食あるいは爆食がメチル水銀中毒の最大のリスクです。ネコのように必須栄養素としてのタウリン摂取のために継続的に魚食が必須・必然である場合は、メチル水銀汚染魚の摂食によってメチル水銀中毒が発現するでしょう。複数のネコ狂死などの生態系の異常が確認されている関川流域で16人のメチル水銀中毒者(認定されていません)というのは、多食者が少なかったに過ぎません。関川流域の住民の川魚摂取習慣が阿賀野川流域住民並みであれば、大変なことになっていたと思われます。

昭和電工鹿瀬が訴えられ、関川流域で操業したダイセル新井が訴えられなかった差は、阿賀野川で急性・亜急性患者(20ppmであれば300g/日×15日で発症)が発生したことに加え、両河川流域住民の川魚摂食習慣に差があったことが考えられます。関川のメチル水銀中毒患者(認定されていません)がダイセル新井工場より上流域に居住していたことも何かしら影響したのかもしれません。

2015年6月6日投稿済….再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年11月3日再投稿(加筆・訂正あり)


新潟水俣病公式確認50年-その2

新潟水俣病は昭電鹿瀬工場(阿賀野川上流65kmで操業)の廃液を汚染源とするメチル水銀公害と認識されています。1965年6月14日から新潟水俣病の患者・環境調査が阿賀野川下流域を中心に行われました。患者調査では、1965年7月までに急性・亜急性患者26人を確認・水俣病と認定しました。しかし、2015年までの認定患者は702人に達しています。702人からその26人を除いた676人の認定患者の多くは、遅発性発症をしたと説明されています。

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環境調査としての下流域住民6人および上流・鹿瀬地区住民1人の頭髪の生え際からの距離(長さ)に対応した頭髪総水銀(HairHg)濃度の測定が多くの情報を発信しています。頭髪は平均的に1か月に11mm伸びるとされています。したがって、例えば生え際から11cmの部分は、平均的には10か月前のメチル水銀(MeHg)曝露量を示していることになります。「頭髪総水銀濃度の時間分布」図(水俣病,pp298,青林舎,1979)における総水銀濃度は(ppm,Hg・mg/Hair・kg)、表記が対数目盛(総水銀濃度の変動幅が非常に大きかったことの裏返しです)なので、高濃度域では見た目の変動幅が小さくとも実際のそれらが大きいことに注視すべきです。下流域住民6人のうちの1人は下山地区(シタヤマ;河口から 1.5~2kmの集落 )の女性です。記録された歯抜けの姓名からは、1964年8月下旬に発症し、2か月後の10月29日に亡くなった初発患者の家族(妻)だと思われます。ただし、26人の急性・亜急性患者ではありません。MeHg曝露量の観察記録期間は1963年5月から始まり1966年7月までの約2年と
長く、貴重な情報を発信してくれます。とくに季節的変動が検討できるので貴重です。1963年6月~1964年6月(新潟地震発生月)の一年間に、極大値45ppmが63年10月頃(前月の9月は極小かつ最小の15 ppm)に見られます。1964年6月以降では、1964年11月の150 ppm が最大であり、12月は130 ppm、1965年1月;110 ppm、2月;50 ppm、4月;30 ppm、そして7月;15 ppmです。最大値を示した 1964年11月の前月の10月は極小ではありません。したがって、前年1963年10月に見られた極大値(季節的変動)とは異なる要因を含んだMeHg曝露形態であったと思われます。1964年7月;20 ppm、8月;30 ppm、9月;60 ppmは測定値ですが、10月は、9月および11月の測定値を結んだ線上の100 ppmという推測値です。一方、下山女性以外の他の下流域住人5人の記録をみると、それぞれの最大値がほぼ1965年2月にあります。したがって、6人のHairHgはいずれも1964年6月16日に発生した新潟地震後最大値を記録したことになります*1)。なお、その5人のうち1人一日市在住の女性で、26人の急性・亜急性患者のひとりです。最大値は400 ppmを超えています。その他の4人が26人の急性・亜急性患者か否か、性別も、記録からは判別できません。しかし、その他の 5人のHairHgの極大値の月がほぼ等しいことから残りの 4人が一日市住人である可能性が高いことが示唆されます。そうすると、下山河川域の環境の方が一日市河川域のそれらより 3カ月早く汚染のピークがあったと言えるでしょう。*1);新潟水俣病裁判での被告=昭電の主張 ⇒ 東北3県-山形・秋田・青森-に海送すべく新潟港埠頭倉庫に保管してあった紙袋入り水銀系農薬が新潟地震津波によって日本海に流出し、新潟港から東北東5㎞離れた阿賀野川沖にしばらく滞留した後、夏季の渇水期の満潮時に阿賀野川河口から日本海海水の遡上とともに運ばれたとの主張(塩水楔説) ⇒ 最大でも塩水楔は阿賀野川河口から 8㎞まで遡上するので 26人の急性・亜急性患者の発生流域に一致するとし、したがって、昭電鹿瀬工場の廃液は阿賀野川下流域のメチル水銀汚染源ではないと反論しました。下流域住人6人のHairHg濃度の最大値が新潟地震後に存在したことは、事実であり(工場廃液説であれば下山住人のHairHgの変動を説明できない)、昭電にとっては有利なデータだったでしょう。さらに、 下山住人を除く5人のHairHgの極大値が昭電鹿瀬工場の操業中止をした 1965年 1月10日より後の1965年 2月に出現していることを以って、下流域のメチル水銀が鹿瀬工場から流出したものであるとするのは全く無理な論述と言えるでしょう。

下山女性以外の5人は全て一日市(ヒトイチ;河口から4.5kmの集落)の住民と考えられます。一日市住民のHairHg濃度の最大値は下山住民のそれより約3か月遅れて発現しています。阿賀野川の河口から65 km上流に位置するアセトアルデヒド工場の廃液が阿賀野川下流域のメチル水銀汚染源であれば、少なくともより上流に位置する一日市流域の方が下山流域より早期に汚染されることが期待されます。このように誰でもが知っている自然現象河川水は上流から下流へ流下する)を、問題の紐解き(疫学研究)の際に無視することで、工場廃液がMeHg汚染源だとの印象付けが図られているようです。正式な政府見解は、『阿賀野川の汚染形態としては、長期汚染の事実と、これに比較的短期間の濃厚汚染が加わった可能性とがあるが、いずれにしても長期汚染が関与し、その程度は明らかでないが本中毒発生の基盤をなしたものと考えられる』・『長期汚染の原因は主として工場廃液であり、阿賀野川流域に散布された農薬の影響は無視しうる』です。この場合、短期濃厚汚染についての地理分布に触れないことで、それが下流域だけで起きたという事実をあえて無視しています。翻ってみれば、短期濃厚汚染が阿賀野川全流域で起きたと誘い込むことで、1964~65年に発生した下流域の急性・亜急性水俣病(短期濃厚汚染)と、初発が60年ごろで、発症ヒストグラムの中央値が68~70年にあって75年頃まで阿賀野川全流域で発症した遅発性慢性)水俣病とを区別せず、両者のMeHg汚染源が同じいずれにしても長期汚染が関与)であるとしています。その上、基盤をなした程度は明らかでないとメチル水銀中毒がメチル水銀曝露量の程度にかかわらず発生するとの意味不明見解によって、さらに、水銀系農薬の大量散布についての国の責任は無視しうるとする一言(断定)で真実を覆い隠しています。これが新潟水俣病が工場廃液による「公害」であるとした政府見解の実体です。

続いて、上流域、鹿瀬住民(女性)のHairHg濃度の時間分布です。鹿瀬工場の操業中止前(1965年1月10日以前)、すなわち操業中の極大値は64年7・8月の150 ppmであり、操業中止後のそれは65年7・8月の200 ppmです。鹿瀬町住民のHairHgが、アセトアルデヒド工場の稼働中よりも中止後の方が断然高いことの説明はどの研究者・関係者もしていません。工場廃液をMeHg汚染源とすると説明困難だからでしょう。一方で、このHairHg濃度の時間分布は新潟地震発生前にすでに阿賀野川上流域がMeHgに汚染されていたことの証拠であると正しく説明されています。昭電が主張した『下流域のMeHg汚染は新潟地震後に発生した』を論破するために使われました。しかし、鹿瀬住民のHairHgのメチル水銀が工場廃液由来であるとは言いませんでした。科学的なデータであっても、主張の都合に合わせて使用・不使用を決めています。これこそ、新潟水俣病のMeHg汚染源に対する世間の認識が誘導されたものであることを説明していると思います。

ところで、鹿瀬住民のHairHg濃度は1964年および1965年の夏に極大を示している。稲イモチ病対策の水銀系農薬散布はまさに 7月下旬から 9月上旬に集中することから、阿賀野川流域の米作地帯(水田)環境、さらに流域の各河川水にMeHg負荷増があったことが想起されます。ただし、稲イモチ病対策に大量に使用された酢酸フェニル水銀系農薬に含まれるメチル水銀量について新潟水俣病裁判において昭電筋は実際に酢酸フェニル水銀系農薬(セレサン石灰)の定量分析の結果を示して少量(0.13%・MeHg/農薬中全Hg)と主張したが、政府筋は試薬としての酢酸フェニル水銀の電子捕獲検出器付きガスクロマトグラフ分析で微量(0.01%)とかわしている(*2)。昭電鹿瀬の工場廃液が阿賀野川流域の主要なメチル水銀汚染源でなければ、状況証拠が豊富な稲イモチ病対策に大量散布された酢酸フェニル水銀系農薬から相当量のメチル水銀が発生したと考えざるを得ない。この鹿瀬女性が 1965年の夏季に摂食した川魚は、①1964年の短期濃厚汚染された下流域*3)で棲息・成長したことによってMeHgの濃厚曝露があった上で、②通常の生殖行動のために上流へ回遊・遡上し、さらに鹿瀬流域において夏季の農薬由来のMeHgの追加曝露のあった個体が相当数含まれていた。実際、そうであれば、彼女の1965年のHairHg濃度(200ppm)が1964年のそれら(150ppm)より高かったことを説明できそうです。彼女が食した川魚のMeHgレベルが変動せず、魚食量が前年の 1.3倍(200/150)になったのではなく、魚食量は同じで川魚のMeHgレベルが前年の 1.3倍高くなったと考えています。(*2);詳しくは「新潟水俣病裁判」の記述をご覧ください。(*3);1964年6月16日の新潟地震によって新潟港桟橋が崩落し使用不可になったため、それまでの水銀系農薬の東北3県への海上輸送に代えて泰平橋を渡る陸上輸送に取り組むため泰平橋左岸下河川敷に水銀系農薬紙袋を野積みした。ところが、野積みされた大量の水銀系農薬紙袋が、1964年7月9日の梅雨空け前の洪水によって下山・津島屋河岸域(下山および津島屋地区を区切る通船川河口岸から200 m離れた中州)に流失、漂着、および数か月間滞留し、その後、阿賀野川の流れで日本海に流出するまでの間が短期濃厚汚染時期と考えられます;詳しくは最後の段落に記します。

鹿瀬女性HairHg最小値 80 ppmと記録されています。彼女が摂食した川魚は夫の釣果とのことですが、夫は余り食べなかったそうです。夫のHairHgは三度測定されていますが、108 → 75 → 5 ppmと計測の度に低下しています。測定に関わる記録(実験ノート)がないので真実は分かりませんが、男性なので短髪であり、途中で散髪が入れば過去のHg曝露記録は失われます。彼女の最小値である80 ppm(MeHg中毒の閾値程度の曝露状態)は、聞き取り調査によって彼女の川魚摂取期間外であったと記録されています。1964年・65年共に、1月から3・4か月連続しています。したがって、その80 ppmは、妻の外部曝露(農薬を被った)分である可能性を否定できません。すなわち、夫の内部曝露(川魚摂取)量は外部曝露量を除いた28(108ー80)ppmであり、散髪の都度、外部曝露記録分(頭髪の生え際から遠い部分)の消失(切り取り・散髪)によって75 ppm および 5 ppm(川魚の摂食が無かった時期に対応したHairHg 濃度)として測定された可能性は十分あると考えます。実際、彼女の頭髪総水銀濃度の最小値が80 ppmであったにもかかわらず、当時、彼女に水俣病症状がなかったという疑問を、何れの研究者もあえて説明していません。通年的にHairHg・80ppm以上のMeHg曝露でMeHg中毒しないと説明することになるのではないでしょうか(*3)。自宅でブドウを栽培していたこの女性の80 ppm分が水銀系農薬を被った(外部曝露による)ものであれば、一時的に高い内部曝露量 70 ppm(150ー80) or 120 ppm(200ー80)では急性・亜急性の発症が無かったことを説明できそうです。(*3)この女性は最終的には水俣病と認定されましたが、HairHg測定当時は水俣病でないと診断されました ⇒ 急性・亜急性発症はしていなかったので水俣病でないと診断…….その後、(遅発性水俣病として)認定されました。遅発性発症の本態は慢性発症であると考えています=毎年夏季に限定されたHairHg濃度で70~120ppmのMeHg曝露を受けたことによるMeHgの長期反復高濃度曝露 ⇒ 彼女のHairHg濃度の時間分布は誠にもって正しい曝露記録と認識できます。;ところで、阿賀野川下流域ではHairHgのモニタリングが行われ、50 ppm以上の女性で妊娠中であれば中絶を、それ以外の女性には妊娠を控えるように指導しました ⇔ 新潟の胎児性患者は1人ということになっています ⇔ 行政は調査・指導の成果だと言います。

下流域住民のHairHgの時間分布からは、新潟地震(64/6/16)後間もなく急激なHairHgの上昇が見られています。その極大月(時期)に下山地区住民の方が一日市地区住民より3カ月早いという地域差が見られています。下山地区の川魚の漁場の環境中MeHgレベルの方が一日市地区のそれらより3カ月早く極大を迎えたことを説明するものだと思います。極大値(最大値)の地域(2.5 – 3 ㎞)差は下流域で高濃度のMeHgに曝露された川魚の生息地の移動(遡上)で説明できそうです。また、患者の初発は下山地区なので、最高レベルのMeHg負荷源は下山流域に在ったと考えてよいでしょう。

環境汚染の大原則】:汚染物質が最初に環境と接する処が最も汚染される ⇒ 例えば;熊本水俣病では先ず百間排水口・百間港が汚染された ⇒ 漁船船底の付着物除去に利用した ⇒ 工場廃液中MeHgで、着生したカキやフジツボを死滅させ、さらに新たなそれらの着生を予防した ⇔ 百閒排水口・百閒港(その地汚染源地)で生態系の異常初発した ⇔⇔ 新潟水俣病事件で昭電鹿瀬の工場廃液が阿賀野川全流域に対する主たるMeHg汚染源であるならば ⇔ 昭電鹿瀬工場排水口と最初に接する阿賀野川(河川水・底質)が高濃度に汚染される ⇔ その地(鹿瀬工場排水口)生態系の異常初発する???……そのような報告無い……..【政府見解の正当性を主張するならば、環境汚染の大原則が間違いであるという科学的根拠が必要だと思います】

下流域・短期濃厚メチル水銀汚染源は!?!】 ⇒ 新潟地震・津波(64年6月16日)の被害で新潟港・桟橋は使用困難になりましたが、倉庫群への被害は軽微でした。すなわち、稲イモチ病対策用の大量の水銀系農薬を山形・秋田・青森(東北三県)へ海上輸送するために新潟港倉庫群に一時保管されていましたが、津波海水に侵されたのは少量でした。東北三県における稲イモチ病発生時期(7月下旬から)が近づいており、桟橋が使えないことで、緊急的に倉庫群の水銀系農薬の海上輸送に代えて陸上輸送が図られました。ところが、阿賀野川に架かる橋で震災を受けなかったのは唯一『泰平橋(河口から5㎞)』であり(竣工から程ない昭和大橋・信濃川の落橋は余りに有名な事実)、新潟港から直接東北三県へのトラック輸送は困難でした。とくに、震災直後の新潟市内の交通事情は混乱していたので、新潟港 → 泰平橋下左岸河川敷(野積み)→ 山形・秋田・青森の連携で陸上輸送を実施しました。しかし、7月3~9日に梅雨空け前の大雨となり、7/9には泰平橋下左岸河川敷の野積み紙袋入り水銀系農薬がすっかり流失したとのことです(中川良三,加藤龍夫,安全工学,30,p99-108,1991)。阿賀野川下流域の急性・亜急性患者は、泰平橋より下流①16人上流②10人発生しましたが、下流①では左岸偏在し(16/16人)、上流②では右岸偏在しています(8/10人)。泰平橋下左岸河川敷に野積みした紙袋入り水銀系農薬の洪水による流失・滞留(通船川河口から200 mの下山・津島屋地区河岸域/中州と考えられる)が短期濃厚MeHg汚染発生源とすれば、これらの急性・亜急性患者の地理分布の偏りは、川魚の生態の実態を通して矛盾なく説明できると考えています。

2015年8月1日投稿済….再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年11月12日再投稿(加筆・訂正あり)


新潟水俣病裁判

現役時代にそれなりにお世話になった先輩(s19生)とメールで再会しました。20年以上音信不通状態でした。早速、水銀系農薬によるメチル水銀汚染について、具体的に「鹿児島湾第六水俣病問題(先輩の鹿児島勤務時代の出来事)」などの例を挙げて筆者の考えを披露しました。筆者としては、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」などを通して環境汚染の問題を厳しく追及されていた先輩からの適切なコメントがあることを期待していました。

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ところが、酢酸フェニル水銀系農薬は水銀汚染という問題はあるが、含有メチル水銀量が微量(試薬の酢酸フェニル水銀に 0.01%のMeHgが含まれているという政府筋の主張)なので水俣病は発生しないこと、さらに、この問題(農薬中の含有メチル水銀量)は水俣病研究者が議論を尽くして結論したことを挙げ(議論ではなく実際に酢酸フェニル水銀系農薬のMeHgの定量分析をするのが科学的本筋だと思う…..)、熊本水俣病と新潟水俣病はいずれも疑いなく「公害」であり、筆者の水銀系農薬に関わる調査・研究の方向においてメチル水銀汚染・水俣病を視野に入れるのは可笑しいと、筆者には期待外れであるだけでなく、筆者の矜持を否定する意見(忠告に近い)をもらいました。

本稿では、「先輩への反論」という部分もありますが、新潟水俣病裁判であった『酢酸フェニル水銀系農薬中のメチル水銀濃度に関する論争』について記し、世間一般の人々の認識を一つに集約することに努め、真実を覆い隠したまま明らかにしない行政の実態を伝えたいと思います。

新潟水俣病裁判の記録

(a)被告=昭和電工は、昭和41年中酢酸フェニル水銀農薬にメチル水銀化合物が混入しているかどうかを実験分析した結果、ECDガスクロ(*1)により、試薬中0.05%、農薬原体中0.13%ないし0.25%のメチル水銀を検出したので、その結果を直ちに厚生省に報告した。(b)そこで、昭和41年12月、科学技術庁の指示により、被告と厚生省とがそれぞれ試料(酢酸フェニル水銀試薬、農薬原体、無機化合物)を持ち寄って、いわゆる交換分析を行なうこととなり、厚生省側では、試験研究班員の国立衛生試験所と東京歯科大学がガスクロ分析を担当することにした。被告の分析の結果は、厚生省側提供の酢酸フェニル水銀試薬に0.05%、農薬原体中水銀には0.13%ないし0.15%のメチル水銀が含まれている旨の数値が出たが、厚生省側からのそれぞれの分析結果は公表されなかった。(c)そして昭和42年1月中、国立衛生試験所において、同試験所および神戸大学、新潟大学、東京歯科大学、東京理科大学、厚生省食品衛生課の六機関立会のうえで同じガスクロ実験分析をしたところ、酢酸フェニル水銀試薬中に含まれるメチル水銀化合物は0.005%ないし0.009%という結果が出た。但し、右実験分析においては、時間の制約から、20分ないし30分以内にできる限り多くの試料を処理する必要があっため、メチル水銀に相当する位置を経過後直ちにつぎの試料の注入を行なうなど、極めて変則的な方法をとっており、立会者らは、この方法が測定値の正確を期するうえで非常に危険であることを認めている。(*1);電子捕獲型検出器のついたガスクロマトグラフ;電子、とくにハロゲン電子を特異的に、さらに感度よくキャッチする検出器なので微量の塩化メチル水銀の定量分析に使われます。また、ハロゲン電子を特異的に検出出来ることから、塩化物(フッ化物・ヨウ化物・臭化物)の定性分析としても有益です。

このような裁判記録(法律に準じるという原則がある)があるにもかかわらず、その当時の研究者が酢酸フェニル水銀(試薬)のメチル水銀含有率の定量実験で得られた0.005%ないし0.009%(裁判では0.01%と四捨五入値が使われた)を以って酢酸フェニル水銀系農薬(原体)のメチル水銀含量として認識したようです。

国立衛生試験所、神戸大学、新潟大学、東京歯科大学、東京理科大学、厚生省食品衛生課の六機関の内の各大学には当時の水俣病研究者が含まれています。六機関の立会いが単に立ち会っただけの評価に過ぎません。ECDガスクロマトグラフ分析の手法が極めて変則的方法という評価の前に、酢酸フェニル水銀系農薬の原体でなく酢酸フェニル水銀の試薬の分析自体が、「酢酸フェニル水銀系農薬中のメチル水銀濃度」を知るための実験としては不適当であると評価しなかったのでしょうか。しかし、本来、国(厚生省・農林省・経済産業省…..さらに裁判所も)が為すべきことは、各農薬製造会社の製品(酢酸フェニル水銀系農薬の原体)を集め、自社製品と目隠し製品のメチル水銀分析を命じることではないでしょうか。それをせずに、わざわざ、国の主導でデータ(それも農薬原体でなく試薬を使った)を出し、極めて変則的な方法と言われたことまでも無視し、さらに、その「酢酸フェニル水銀の試薬中に 0.01%のメチル水銀が含まれていた」というデータを「水銀系農薬にメチル水銀が 0.01%と極めて微量含まれているに過ぎない」と正当化したのは、未必の故意による認定様式ではなく、まさに故意的認定とさえ言えるものだと思います。

文系の研究者・専門家(裁判官を含む)であっても、酢酸フェニル水銀系農薬中のメチル水銀の正しい定量値として0.01%を採用しないのではないでしょうか。新潟水俣病裁判で裁定した裁判官の真意は何処にあったのでしょうか。さらに、0.01%という数字が先輩を含めた研究者に蔓延したのは、どういった経路・経過があったのでしょうか……。「先輩が言い放った、『水俣病研究者が議論を尽くして結論した』を俄かに信じることは出来ません。」

残されたデータ

一方、これとは別に科学技術庁による新潟水銀中毒に関する特別研究における試験研究班が、薄層クロマトグラフィー(TLC)による各種有機水銀化合物の定性・定量分析を行っています(新潟水銀中毒に関する特別研究報告書,pp126~129,科学技術庁研究調整局,1969;以下、この報告書をAと記します)。TLCの試料には水銀系農薬原体と思われるS-112S-161S-167S-174と記されたものが使われており、その全てに2つの明瞭なスポットが得られています(A,pp129)。標準試薬としての酢酸フェニル水銀塩化エチル水銀が使われていますので、TLC試料が酢酸フェニル水銀主剤の農薬原体であると予想されます(A,pp129)。しかし、このTLC展開の際、塩化メチル水銀を標準試薬として採用していません。報告書では各試料の定性・定量に関しての記述はありませんが、各試料の薄層クロマトグラム上に2つのスポットが在り、それらの展開位置が酢酸フェニル水銀塩化エチル水銀の標準スポットの展開位置と異なっていることが図から読み取れます(A,pp129)。したがって、各試料の構成成分は酢酸フェニル水銀塩化エチル水銀のいずれでもないことが推定できます。別のTLCによる標準試薬の移動距離(極性)からは塩化フェニル水銀および塩化メチル水銀の展開距離にほぼ一致するようですが(A,pp128)、ここでもS-112等の農薬原体と思われる試料と塩化フェニル水銀および塩化メチル水銀を同一プレート上で展開させた薄層クロマトグラムは示されていません。酢酸フェニル水銀からメチル水銀が生成するという事実を隠すため、塩化フェニル水銀系農薬を試料としたのではないかと思えてしまいます。

また、塩化メチル水銀を薄層クロマトグラフプレート上で確認するには少なくともメチル水銀として0.2μgが必要と記されています(A,pp143)。したがって、農薬原体中に含まれる0.009%濃度(ここでは厚生省の発表した酢酸フェニル水銀試薬中のメチル水銀濃度を敢えて用いています)のメチル水銀をTLC上で検出するためには最小で2.2mg(0.2μg÷0.009%)を超える農薬原体の展開が必要です。しかし、2.2mgという負荷量ではTLCプレート上にスポットすること自体もかなり難しい上に、スポットできたとしても激しいテーリングが起こるので、明瞭な(独立した)スポットを得ることは、ほぼ不可能です。報告書にあるように2つの明瞭なスポットを得たのであれば、農薬原体中のメチル水銀濃度%以上であったことになります。酢酸フェニル水銀系農薬が “稲イモチ病”の予防と治療に、長年、集中的にかつ大量に使用されました。したがって、酢酸フェニル水銀系農薬に混在する%メチル水銀が、重大なメチル水銀汚染を発生する可能性は否定できないでしょう。酢酸フェニル水銀系農薬の原体0.15%のメチル水銀が含まれているとする昭電(被告)側の測定値は、試験研究班の試薬測定値0.009%の16倍です。試験研究班%という値は半定量値なので採用しにくいでしょう。しかし、政府筋が農薬原体での分析値と試薬での分析値を入れ替えたことをどう正当化するのでしょうか。

新潟水銀中毒に関する特別研究報告書に別のフェニル水銀系農薬のTLC分析結果が記されています。酢酸フェニル水銀系農薬原体20mgを1ml-95%エタノールで溶かした農薬原体溶液の10μlおよび50μlをTLC分析したところ、10μlの場合は酢酸フェニル水銀のスポットのみ検出されていますが、50μlの場合は酢酸フェニル水銀のスポットと標準塩化メチル水銀に一致するスポットが検出されています(A,pp273-275)。フェニル水銀系農薬原体中のフェニル水銀の含有量は裁判でもその数値は厚生省と被告との間で争われることなく0.17%~0.4%含まれているとされています(水俣病-20年の研究と今日の課題, pp204,有馬澄雄編,青林舎,1979)。1ml-95%エタノールで溶かした農薬液50μl中には1000μg=(20mg × 50μl ÷ 1000μl)の農薬原体が含まれていると算出できます。そうすると、その中のフェニル水銀量は1000μg×(0.17%~0.4)=1.7~4.0μgと推定できます。塩化メチル水銀のTLC上検出限界0.2μgと記されていますので(A,pp130)、検出されたメチル水銀濃度は最小でも酢酸フェニル水銀の5.0~11.7%[0.2μg÷(1.7~4.0μg)]含まれていると逆算できます。厚生省の示した0.009%の550~1300倍の値を試験研究班が間接的に報告していることになります。

さらに、重要な記載があります。酢酸フェニル水銀系農薬原体200mgの95%エタノール溶液20mlを用いて再結晶を試みています。アルミナGを担体とする薄層クロマトグラフィー(移動相;クロロホルム:メタノール:水=80:20:2)で、濾過液試料(再結晶操作によって主に夾雑物が濾過液に移る)に、酢酸フェニル水銀および標準塩化メチル水銀同じRf=0.45(移動距離)でナフチルチオカルバゾンによる発色で標準塩化メチル水銀と同じ赤~赤紅色酢酸フェニル水銀は、Rf=0.15,赤~赤紫色スポットを認めています(A, pp273-275)。再結晶試料からは酢酸フェニル水銀スポットだけが認められています(A, pp273-275)。酢酸フェニル水銀系農薬に含まれていたメチル水銀は主成分(再結晶成分)ではなく、夾雑物(数%以下;濾過液成分)ということになります。したがって、酢酸フェニル水銀系農薬の大量散布では夾雑物としてのメチル水銀農業用水に溶出し、阿賀野川に流出したことが期待されます。

厚生省は終始農薬原体の分析結果を公表しなかった上に、試験研究班(主体は厚生省の所管する国立衛生研究所)は酢酸フェニル水銀農薬原体中のメチル水銀の定量分析に消極的でした。結果として、(化学の知識に精通していないだろう法学専門家の)裁判官に酢酸フェニル水銀試薬中のメチル水銀濃度を酢酸フェニル水銀系農薬原体中メチル水銀濃度と同じであるとの判断を誘導した可能性があるのではないでしょうか。筆者が調べた限りですが、その後も厚生省による酢酸フェニル水銀農薬原体中のメチル水銀濃度の公表はもちろん、酢酸フェニル水銀系農薬のメチル水銀分析をした形跡はありません。

昭電(被告)にとって工場廃液説を否定するための塩水楔説(1)を完成するために水銀系農薬原体中のメチル水銀濃度が相当に高いという証明が求められていました。そのために様々な水銀系農薬原体の水銀分析を行っています。塩水楔説を展開した北川は、種々の水銀系農薬のうち塩化フェニル水銀およびヨウ化フェニル水銀で製剤した農薬にはメチル水銀はほとんど含まれないが(フェニル水銀中のメチル水銀含有率;平均値 0.026%,最小~最大 0~0.1%,分析試料数n=9,農薬1㌧当りの平均メチル水銀含有量0.75g)、酢酸フェニル水銀製剤にはある程度(0.86%,0.08~3.0%,n=15,29g)含まれると報告しています(水俣湾と阿賀野川,pp86-87,北川徹三,紀伊国屋書店,1981)。また、酢酸フェニル水銀製剤に含まれるメチル水銀はフェニル水銀の酢酸体の分解によって生成すると予想し、メチル水銀の生成量はフェニル水銀の化学形態で異なることを指摘しています(同上,pp86-87)。そうであれば、阿賀野川流域における水銀系農薬の使用量が1年間で1000㌧を超えていましたから、それに含まれているメチル水銀量は750g~29kgとなり、それが二か月間(7月下旬から9月上旬)に散布されたのだから、決して無視できない数値だと思います。チッソが流したメチル水銀の推定量は4kg~40kg/年です(水俣病の科学,pp179,西村肇,日本評論社,2001)。一日当たりに換算すれば水俣湾よりも阿賀野川のメチル水銀量の方が多いとさえ言えるほどです。昭電の塩水楔説はかなり無理な原因設定だと思いますが、フェニル水銀系農薬中のメチル水銀含量を明らかにすることは重要だと思います。しかし、すでに、日本国内では水銀系農薬は製造、販売が禁止されており、入手して水銀系農薬原体中のメチル水銀含量を明らかにすることは困難です。全国の農家の片隅に残された水銀系農薬があれば、環境省および民間によるダブルチェックの水銀分析ができるのですが…..。

(1)塩水楔説;夏季の渇水期における満潮時の海水は、河川水よりも海水の比重が大きいために、海水が河床を伝い、河川水を持ち上げるように遡上する様子をいう。1964年6月16日の新潟地震で発生した津波が、山形・秋田・青森の東北3県に海上輸送する水銀系農薬を一時保管中の新潟港埠頭倉庫を襲ったことで、水銀系農薬が日本海に流出したという。昭電の主張;その時の水銀系農薬が新潟港(信濃川河口)から5 ㎞離れた阿賀野川河口域の日本海に流れ着き、夏季の渇水期に阿賀野川を遡上した。この塩水楔の遡上最大距離である 8 kmは、正しく、新潟水俣病の26人の急性・亜急性患者の発生範囲であり、新潟港埠頭倉庫の水銀系農薬で患者発生地域が汚染されたと説明した。水銀系農薬1㌧当たり、メチル水銀が最大でも0.4 gとの報告を得ている厚生省(何故か原告側に立っている・本来なら中立の筈だが….)は余裕を持って、塩水楔説と対峙した。昭電の主張する1㌧あたり29 gのメチル水銀が正しいと認められれば、新潟水俣病裁判はもっともめていたことでしょう。

2015年3月15日(既投稿)-再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年12月16日再投稿(加筆・訂正あり)


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